はじめに
インドのナレーンドラ・モーディー(Narendra Modi)首相が2018年6月に「自由で開かれインクルーシヴなインド太平洋」政策を表明してから3年半が経過した。インドの対外政策関連の言説においてもすっかりインド太平洋は定着したが、具体的な政策動向は見えにくい。そこで本稿では、インドのインド太平洋政策の中核として位置付けられる「インド太平洋海洋イニシアティヴ(Indo-Pacific Oceans' Initiative: IPOI)」の位置付けと展開について整理する1。
1.インド政府による「インド太平洋」の採用
本題に入るまえに、インド政府がインド太平洋を採用した経緯についてふりかえっておきたい。
年表:インド政府の「インド太平洋」政策
2014年11月 | 日印首脳会談、「インド太平洋の視点を付与」 |
2015年3月 | 「地域のすべての人のための安全保障と成長」指針発表 |
2015年10月 | インド海軍戦略文書での採用 |
2017年末 | インド政府、インド太平洋の使用開始 |
2018年6月 | シャングリラ演説でインド太平洋政策発表 |
2019年4月 | インド外務省「インド太平洋局」新設 |
2019年11月 | 東アジアサミットで「インド太平洋海洋イニシアティヴ」表明 |
インド外交の言説においてインド太平洋という言葉が用いられるようになったのは、日印関係の文脈においてであった。2014年11月、オーストラリア・メルボルンのG20サミットのサイドラインとして開催された日印首脳会談において、(日本側外務省のリリースによると)安倍晋三首相(当時)が「日印関係に『インド太平洋』地域の安定と発展に貢献するという視点を付与したい旨」を述べ、モーディー首相がこれに賛同した2。当初のインド外交におけるインド太平洋の使用は、日印関係の文脈にほぼ限られており3、例外的に2015年のインド海軍の戦略文書での言及は見られるが4、全面的な採用までにはしばらくのタイムラグがある。代わりに、モーディー政権の海洋政策の指針としては、2015年3月に発表された「地域のすべての人のための安全保障と成長(Security and Growth for All in the Region: SAGAR)」という概念があった。ここでの「地域」はインド太平洋ではなくインド洋地域を指している5。
その後、ドナルド・トランプ(Donald Trump)政権下のアメリカ政府が「自由で開かれたインド太平洋」を採用してまもなく、2017年の末ごろからインド政府もインド太平洋を公式に用いはじめ、2018年6月にモーディー首相がアジア安全保障会議(いわゆるシャングリラ会合)でインド版のインド太平洋政策を発表した6。インド太平洋については以下のような定義を行っている。
インド太平洋は、自由で、開かれ、インクルーシヴな地域であり、ともに進歩と繁栄を追い求める我々すべてを包含するものである。そこには、この地理的範囲のすべての国と、範囲外の関係する諸国も含まれる。
It stands for a free, open, inclusive region, which embraces us all in a common pursuit of progress and prosperity. It includes all nations in this geography as also others beyond who have a stake in it.7
日本やアメリカと同様に「自由で開かれた」を謳いながらも、「インクルーシヴ」という部分で違いを示した。またその後続の文章は、関係国すべてに門戸を開くことを強調している。そうした文言は、当初のアメリカや日本のインド太平洋が中国に対抗する政策としての色彩が強かったのに対して、インドのインド太平洋政策は中国を拒むものではないことを示唆するものと理解された。ただし解釈には諸説があり、ここでの「インクルーシヴ」がことさらに中国への協調的姿勢を示唆するものではないという見方もある。
2.「インド太平洋海洋イニシアティヴ」とは
以降、インド政府内の言説で全面的にインド太平洋が用いられるようになり、2019年4月にはインド外務省内に「インド太平洋局(Indo-Pacific Division)」が新たに設置された8。そして同年11月の東アジアサミットにおいて、モーディー首相は以下のように述べ、インド太平洋の原則を取り組みへと転化させる政策として「インド太平洋海洋イニシアティヴ(以下、IPOI)」を提案した9。
この精神10のもと、ASEANのインド太平洋アウトルックや、発出される東アジアサミットの「持続可能性のためのパートナーシップ」声明の優先分野に沿い、インド太平洋の諸原則を共有する海洋環境を守るための取り組みへと転換するための協力を、私は提案したい。
In this spirit, in line with priority areas in ASEAN's Outlook on the Indo-Pacific, and the upcoming EAS statement for a Partnership on Sustainability, I propose a cooperative effort to translate principles for the Indo-Pacific into measures to secure our shared maritime environment.11
後続部分では進め方に言及した。
セクター別の作業は、1ヶ国あるいは2ヶ国が主導する。これにより、各国政府は、グローバルな諸課題への協調的な解決策を求める世論との関係を改善できるだろう。このイニシアティヴは真に開かれ、インクルーシヴで、協調的なものとなる。パートナー国が望むように、ステップ・バイ・ステップで制度的な基礎を発展させる。
Work in each sector could be led by one or two countries. This would help Governments align better with public opinion demanding cooperative solutions to global challenges. The initiative would be truly open, inclusive and cooperative. And it can develop institutional roots as partners wish, step-by-step.12
各イシューを主導する国を定めることや、インクルーシヴで着実な形で課題解決に向けた協力を行うという方針が確認できる。さらに後の部分では、オーストラリアが前向きな関心を示していること、ならびに他の数カ国が海洋安全保障と災害リスク削減の分野での協力に関心を示していることが明らかにされる13。
この演説では、IPOIの内容は一部が示されただけであった。その後、IPOIに関する包括的な政策文書が用意されているとの話もあるが、発表は確認されていない14。しかし、インド外務省インド太平洋局の解説文書(2020年2月)などから、IPOIの7つの政策イシュー(「柱(pillar)」と呼ばれる)が明らかになっている(後述)15。
3.「インド太平洋海洋イニシアティヴ」の展開
以上で見てきたように、インドのIPOIとは、「自由で開かれインクルーシヴな(そしてルールに基づく)インド太平洋」を実現するための具体的な取り組みを、7つの柱それぞれに主導国を定め、それ以外を含む関係各国との協力を進めるための枠組みである。協力相手や主導国については、2021年6月のインド外務省サウラブ・クマール(Saurabh Kumar)東担当次官の発言などから、下記の通り明らかになっている16。
表:「インド太平洋海洋イニシアティヴ」の7つの柱と主導国(2021年6月時点)
1 |
海洋安全保障 maritime security |
インド |
2 |
海洋生態系 maritime ecology |
オーストラリア |
3 |
海洋資源 maritime resources |
フランス、インドネシア |
4 |
能力構築と資源共有 capacity building and resource sharing |
|
5 |
災害リスクの削減と管理 disaster risk reduction and management |
インド |
6 |
科学技術・学術協力 science, technology and academic cooperation |
|
7 |
貿易の連結性と海上輸送 trade connectivity and maritime transport |
日本 |
(出所)Website of Ministry of External Affairs, Government of India, "Secretary (East)'s opening remarks at the India-Japan-Italy Trilateral Webinar on Indo-Pacific," June 17, 2021 <https://mea.gov.in/Speeches-Statements.htm?dtl/33924/secretary+easts+opening+remarks+at+the+indiajapanitaly+trilateral+webinar+on+indopacific+june+17+2021>.
IPOIの発表以降、インドと各国との様々な合意のなかで言及されており、たとえば日印政府間の「海洋に関する対話」では、IPOI発表以降の第5回(2019年12月)と第6回(2021年9月)で、日本の「自由で開かれたインド太平洋」とインドのIPOIに基づく協力を謳っている17。また、2021年10月のASEANインド・サミットの共同声明でも、日印と同様に相互に政策を支持する形で、ASEAN側のインド太平洋アウトルックとインド側のIPOIでの協力を盛り込んでいる18。
筆者の調べた限りにおいて、唯一の具体的な進展が見られるのは、発表当初からIPOIに前向きな反応を示していたオーストラリアとの協力である。2020年6月、両国間の包括的・戦略的パートナーシップの締結に際し、インドのIPOIへの支援をオーストラリアが表明していた19。その後のオーストラリア政府の発表によると、オーストラリアは第2の柱である海洋生態系分野での協力で主導国となり、それ以外にも科学分野での協力やプラスチックごみなどによる海洋汚染の問題での協力が行われるという20。
そして、「豪印インド太平洋海洋イニシアティヴ・パートナーシップ(Australia-India Indo-Pacific Oceans Initiative Partnership)」という形で、IPOIに基づく施策が早くも実現している21。これは、端的に言うと、海洋分野での両国の研究やビジネス、政府間の協力に補助金を拠出する制度である22。具体的な協力内容として、出版に向けた共同研究、技術訓練、人的交流、産業間の協力などが例示されている。なお、2020年6月の包括的・戦略的パートナーシップに基づく他の協力として、サイバーや機微技術の分野でも同様の二国間補助金制度が創始されている23。
以上で言及してきたASEAN加盟国、日本、オーストラリアのほかに、インドは2021年までに、ニュージーランド24、フランス25、イギリス26との間で、IPOIをめぐる協力についての合意を発表している。
おわりに
インドのインド太平洋政策における具体的な海洋協力のプラットフォームとして動き出したIPOIは、現時点ではインドのインド太平洋政策の一連の動向のなかで「自由で開かれインクルーシヴ」な要素を担う枠組みとなっている。ただしインドのインド太平洋政策は、IPOIだけではなく、たとえば日米豪印4か国のいわゆるクワッドによる協力についてもインド太平洋に関連付けられているように、より幅の広いものである。つまりIPOIはインドのインド太平洋関連政策の一部でしかないが、公式にはその中核に位置付けられるため、IPOIの動向については今後も注目する意義があるだろう。