2003年7月10日、モザンビークのマプトで開催された第二回AU首脳会議において、アルファ・オマール・コナレ・マリ前大統領が、初代AU委員長として選出された
7月10日、モザンビークのマプトで開催された第二回AU首脳会議において、アルファ・オマール・コナレ・マリ前大統領が、初代AU委員長として選出された。2002年のダーバンで産声を上げたAUが、AUの行政府となるAU委員会の長、即ち「AUの顔」「アフリカの大統領」とも言うべきポストを選出する為の選挙を行うのは、今回が初めてのことであった。コナレは、加盟45カ国(AU全加盟国53カ国の内、8カ国が分担金未払いのため投票権が剥奪されている)の有効投票数の内、35票を獲得し、第一回目の投票で選出された。因みに、6カ国がコナレへの反対票を投じ、4カ国が棄権した。なお選挙は秘密投票で行われた。
当初、暫定委員長を務めていたエッシーも立候補をする予定で、エッシーとコナレの一騎打ちになる可能性が高かったが、折からのコート・ディヴォワール情勢の影響から、結局、首脳会議の三日前の7月7日付けで立候補を取り下げ、断念せざるを得なかった。しかし、OAUからAUの移行という困難な作業に尽力を尽くしたエッシーの残した功績は忘れてはならない。文字通り、エッシーは限られた予算で最大限の功績を挙げた。エッシー以前は、OAU特別代表や特使はブルンディ、西サハラ、コモロにしか派遣されていなかったし、リエゾン・オフィスもブルンディのみであった。エッシー着任以後、マダガスカル、象牙海岸、中央アフリカ、リベリア、スーダン、ソマリア、コンゴ(民)などにAU委員長特別代表が派遣されている。キンシャサ、アビジャン、バンギにリエゾン・オフィスが開設されている。AUの本体の予算に対する外国の財政支援を許可し、ドイツ、ノルウェー、スウェーデン、カナダ、オランダ、UNDP、EU等がこれまでに財政支援を行っている。
アフリカ諸国の首脳が、民主的に選出されたこの初代AU委員長であるコナレに寄せる期待は大きい。大統領を二期務めた大物政治家が、名実ともにAUの舵を取り、その機構整備及び機能強化を行っていくことになったからである。これまで、AU委員長ポストの前身にあたるOAUの事務局長 1 には、コナレのような国家元首級の人物或いは加盟各国の政界のメインストリームにいる人物が選出されたことは全くなかった。寧ろ、裏街道に甘んじてきた政治家か従順且つ有能なテクノクラートがその座につくことが多かった。また、コナレは、AU創設の影のフィクサーであり、積極的な財政支援を行っているリビアのカダフィ大佐 2 と非常に近しい人物とされている。コナレは、9月半ばに正式に初代AU委員長に就任し、アフリカ諸国の首脳が思い描く汎アフリカの夢 3 の実現に向けて、動き出すことになる。
しかしながら、AUが軌道に乗るための前途は多難である。最大の問題は、財政問題である。一部加盟国の分担金の未払い問題 4 は、深刻な問題である。2001年で50百万ドル、2003年で61百万ドルと右肩上がりに計上されていく。カダフィ大佐はイスラム系11カ国や他の友好国の分担金を一部肩代わりしているが、これだけでは、不十分である。また、三百数十人いるAU職員の士気及びプロフェッショナリズムも問題である。AU職員は、AUの将来や利益よりも、派遣国の国益に基づいて行動しているのが現状である。ニューヨーク、ジュネーブ、ブラッセルのAU代表部の管理体制は極めて杜撰である。AUは機構改革用の資金は250万ドルと勝手に試算しているが、AUの機構を機能させるには、80百万ドル以上が必要と試算されている。
更に、「大統領」であるコナレを補佐すべき「副大統領」である副委員長には、ルワンダのカガメ大統領の外交顧問であったマジムハカが政治的に任命されているし、8名の「閣僚」である各委員は、コナレが選ぶのではなく、加盟国によって選出された。つまり、コナレの意に適った人員配置及び人材登用が出来ないでいる。
今後、コナレがアフリカ諸国の首脳の期待通りに如何にその手腕を発揮していくのかが注目される。歴史学者兼考古学者として大学で教鞭をとってきた経験を有する「教育者」コナレが副委員長や委員を如何に調教していくのか、またAUという複雑且つ巨大な官僚機構に如何にメスを入れていくのか、財政問題に如何に対処していくのかが今後の焦点であろう。(了)
1 : ●歴代OAU事務局長一覧表
64年 ディアロ・テリ(Diallo TELLI)(ギニア)
72年 エンズ・エカンガキ(Nzu EKANGAKI)(カメルーン)
78年 エデム・コジョ(Edem KODJO)(トーゴー)
83年 ピーター・オニュ(Piter ONU)(ニジェール)代理
(ガボンのオクンバとマリのベイエが対立した結果)
85年 イデ・ウマラウ(Ide OUMRAOU)(ニジェール)
89年 サリム・サリム(Salim Salim)(タンザニア)
01年 アマラ・エシ(Amara ESSY)(コート・ディヴォワール)
2 : AUはカダフィ大佐とトリッキ前アフリカ担当相のイニシアティブによって創設されたと言っても過言ではない。
●AUの創設とカダフィ大佐の動き
1998年 リビアへの経済制裁解除
1999年 アルジェでのOAU首脳会議。カダフィ大佐77年以来の参加。
1999年 シルテ・特別サミット
2000年 アフリカ連合制定法案の採択
2001年 シルテ・特別サミット
なお、トリッキは、99年にアフリカ担当大臣に就任している。
3 : 汎アフリカ主義の萌芽は、20世紀初頭に遡る。1900年に米国大陸の黒人グループが先鞭をつけた。シルヴェスター・ウイリアム(トリニダード出身)は、南アフリカとガーナの解放を訴える。バーガート・デュボワが1919年にパリで第一回汎アフリカ会議を開催。NYで行われた1927年の第四回汎アフリカ会議において、「アフリカ・シオニズム」「ブラック・シオニズム」を主張したマーカス・ガーヴェイと対立。マンチェスターで開催された1945年の第五回会議で、ジョージ・パドモアー(トリニダード出身)は、アフリカ人の団結を主張。この汎アフリカ会議の闘士には、ケニヤッタ、エイブラハムス、セラシエ、アジキウェ、ニエレレ、カウンダ、エンクルマなどがいた。第6回と第7回会合、ガーナ(ゴールデン・コースト)のクマシとアクラで開催。エンクルマがリーダーシップを発揮する。1961年1月のカサブランカでの会議において、ベルリン会議の否定と打破及びアフリカ合衆国の創設を主張するカサブランカ・グループ(汎アフリカ主義・マキシマリスト)が結成される。その後、旧植民地帝国の反発に会う。エンクルマらは、ソ連、中国、米国の支援を期待する。共産主義系は口約束だけであった。米国は旧植民地帝国に迎合する。ウフエット・ボワニ及びサンゴールらのフランス語圏アフリカ諸国は、各国の国家主権の尊重と内政不干渉を掲げ、汎アフリカ主義・ミニマリストとして、61年5月のモンロヴィアの会議を経て、モンロヴィア・グループを結成する。一定程度の旧宗主国との関係をも重視していた。1963年のOAUの創設は、汎アフリカ主義・マキシマリストと汎アフリカ主義・ミニマリスト間の妥協による産物であった。カダフィ大佐の夢は、汎アフリカ主義・マキシマリストが思い描いていたものと同根である。
4 : ここ数年全く払っていない国として、コンゴ(民)、中央アフリカ、コモロ、ギニア・ビサオ、サントメ、リベリア、セイシェル、シエラ・レオーネ、ソマリアが挙げられている。コモロ、リベリア、セイシェルに対して、カダフィ大佐は一部分担金の肩代わりを行っている。