コラム

ASEAN議長国を辞退したミャンマー

2005-08-15
梶田武彦(特別研究員)
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ASEAN外相会議でのミャンマーの議長国就任辞退は、民主化に向けた新憲法制定など内政問題に専念するというのが表向きの理由だが・・
7月25、26日にラオスの首都ビエンチャンで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議で、ミャンマーは2006年夏からの議長国就任を辞退した。民主化に向けた新憲法制定など内政問題に専念するというのが表向きの理由だが、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁など軍政の人権侵害を批判する欧米諸国の圧力に屈したのが実情。代わりの議長国にはフィリピンが就任することになった。ASEANはミャンマーの内政問題にめどがついた時点で議長の担当を認めるとしているが、明確な時期を示しているわけではない。

任期が1年のASEANの議長国は、アルファベット順で加盟国に回ってくるのが慣例。これに基づいて05年夏からはマレーシアが議長になり、06年夏からはミャンマー、07年夏からはフィリピンが議長国を担当するはずだった。ASEANは政治体制や宗教、経済状況にかかわらずすべての加盟国が平等に議長国となることを原則としており、加盟国が現在の10カ国になった1999年以降、議長国の辞退は初めて。

ミャンマー軍事政権は民主化勢力や少数民族への弾圧などの人権侵害を続けており、また新憲法制定などの民主化プロセスも進展していない。このため、米国や欧州連合(EU)は、ミャンマーが議長国になった場合はASEANとの拡大外相会議やASEAN地域フォーラム(ARF)をボイコットすると警告していた。摩擦を回避したいASEAN諸国の説得が実った形だが、その過程でASEAN内部の足並みの乱れも露呈した。マレーシアやフィリピンなどがミャンマーに批判的な立場だったのに対し、ミャンマー同様に独裁色が強く欧米の圧力に反発するラオス、カンボジア、ベトナムは擁護論を展開。各国の民主化の度合いが対応の差となって表れた格好だ。「ASEANが一枚岩だったことはいまだかつて一度もない」(シンガポールのアナリスト)と、ミャンマー問題も含めてASEANにあまり過度な期待を抱くべきではないとの冷ややかな声が出るのも当然といえる。

議長国問題では早くからタイがミャンマーと他のASEAN諸国との橋渡し役として動いていた。長く軍政下にあったが90年代に入って民主化が根付いたタイは、ミャンマーに対して経済だけでなく民主化も支援していた。こうした経緯もあってか、「民主化推進」か「議長国辞退」かの二者択一を迫るASEANの要望を説明するタイに、ミャンマーは以前から「辞退」の可能性を示唆していたとされる。同じくかつてはスハルト独裁体制下にあり、90年代末から民主化が進んだインドネシアのユドノヨ大統領は8月8日、ジャカルタのASEAN事務局で行われたASEAN設立38周年の記念式典で講演し、ミャンマーが議長国を辞退したことについて「ASEANの成熟度を顕著に示したもので、ASEANには自身の問題を自身で解決する能力が十分に備わっていることを証明した」と絶賛した。

今回の議長国辞退について、ある日本政府関係者は「いかにもASEANらしい解決だった」と語った。「内政不干渉」の大原則に縛られるあまり、問題を先送りして根本解決にまで踏み込もうとしないASEANの体質を皮肉ったコメントだ。しかしながら、ASEANがミャンマー問題に関して、何もできずにただ傍観していたわけではないことは留意しておく必要があろう。97年にミャンマーがASEANに加盟した際、ASEAN各国は「建設的関与」を標榜。ASEAN加盟がミャンマーの市場経済化や民主化に資するとの論理で、欧米諸国の批判を押し切った。その一方で、民主化勢力との政治対話の促進など、民主化に向けた3項目の要請を軍政に突きつけ、ミャンマーに対しては当初から内政不干渉の枠を超えて踏み込んだ対応を取っていた。

問題はミャンマーがASEAN諸国の働きかけに応えなかったことにある。それどころか、03年5月にはスー・チー氏を再び拘束するという挙に出てしまう。翌月のASEAN外相会議の共同声明には、スー・チー氏の名前を明記して早期釈放を要求する異例の文言が盛り込まれたが効果はなく、今に至るまで自宅軟禁状態が続いている。新憲法制定に向けた国民会議も毎年開催されているものの、実際の制定、総選挙など民主化への具体的道筋は示されていない。「ミャンマーがASEAN全体のイメージを悪くしている」との指摘はASEAN内部からもよく聞かれる。人権抑圧、民主化の停滞が長引くようだと、また欧米からの批判が高まり、ASEAN内部の亀裂がさらに先鋭化することは避けられないだろう。