2018年5月に国政選挙が行われたイラクでは、不正疑惑が拡大して結果の確定までに3ヶ月を要した。初めて導入された電子集計システムに関して、投票箱に備え付けられたスキャナが自動集計した投票結果が、事前にプログラムされたものだったのではないかという疑惑が噴出したためである。とりわけ、民族構成が複雑なキルクーク県で、前年秋にペシュメルガが撤退しクルド政党の影響力が落ちると予想されたにもかかわらず、クルディスタン愛国同盟(PUK)が6議席を維持したことが疑惑の引き金となった。
政府が立ち上げた調査委員会、選管、議会などがそれぞれ異なる方針を提示し、議論は混迷を深めていたが、最終的に裁判所命令によって、新たに任命された判事のもとで、不正の異議申し立てがあった投票箱のみ再集計されることが決まった。再集計の結果を見ると、全ての県で、ほとんどの政党の得票数に変化があったが、その数は数票から多い場合でも1万票強程度であった。予想されていた通り、南部のシーア派の票にはそれほど大きな差はなく、中部のスンナ派政党、北部のクルド政党に、数千票以上を失ったケースが多かった。これは、旧IS支配地域では行政機能が整っていなかったり、クルド政党が何らかの不正を(組織的であるかどうかはともかく)行っていたりしたことの現れだろう。とはいえ、これら数千~1万票程度では議席配分にほとんど影響はない。結果的に主要政党において、議席に変化があったのは、第2位のファタハ連合がバグダード県で1議席を追加獲得して48議席となっただけで、他は、マイノリティ優先枠や、同一政党内で当選者に多少変更があった程度である。焦点だったキルクーク県についても、議席の結果は変わらなかった。
こうした一連の混乱から浮き彫りになることは、イラクにおいては、権威やルールが極めて脆弱であり、そしてそれを利用した権力闘争が絶え間なく繰り返されているという現状である。選挙の不正疑惑に対して、通常通りの異議申し立てに対する選管の調査で済ませるのか、再集計を行うのか、行うとしたらどの程度実施するのか、一部の票を無効にするのか否か、あるいは選挙自体を無効にして再選挙を行うのか、などについて、政府の調査委員会、選管、国民議会、司法と様々な組織から様々な意見が噴出し、どういった法やルールに基づいて誰が最終決定を下すのか、不透明であったことが混乱を助長した。結果的に国民議会が可決した再集計の要請が一部実現したものの、そもそも再集計を決めた時点で6割以上の議員の落選(ないし任期満了に伴う議席喪失)が明らかになっており、そうした議員らが再集計を求めて選挙法を改正することに正当性があるのかも疑わしい。
過去の選挙においても、2010年には首相擁立の権利を持つ最大政党の憲法解釈について、マーリキ首相(当時)が自分に有利な裁判所の判断を引き出している他、2014年には立候補資格の要件である「品行方正で、不名誉な罪を犯していないこと」という選挙法の文言を政治的に乱用し、首相に批判的な政治家が大勢立候補資格を奪われ、国民議会が紛糾する騒ぎとなった。また、国政選挙や地方選挙の実施の度に、選管委員の人選や選挙法における議席配分方式の微修正のため、国民議会での議論が延々と続くことも少なくない。
このように、多くの政党が自らの政治的利益の最大化のために、ルールを利用したり改変したり回避したりすることに多大なエネルギーを費やしており、政策の実現よりも権力闘争の方が、はるかに優先順位が高いことは明らかである。言いかえれば、現在のイラクは、誰も選挙結果全体を差配できるような力を持っていないが、誰もが選挙結果を有利にしたいと画策している状態にある。
そして、これほどまでに権力闘争が過熱する背景には、中央政界へのアクセスがもたらす魅力が存在する。世界有数の産油国であるイラクには、毎月莫大な石油輸出収入が入る。その時々の輸出量や原油価格に左右されるが、2018年の場合、年間収入は837億ドル、すなわち平均して毎月約70億ドルの収入があったことになる。イラク戦争から数年間の内戦状態の頃は密輸が横行していると言われたが、現在では密輸自体は存在するものの、その規模は比較的少量とみられており、基本的にこうした石油収入は国庫に入っている。閣僚や国会議員の給与は財政危機の度に削減の対象とされてきたが、それでも国会議員には、給与として500万イラク・ディナール(ID、約4,167ドル)、交通費雑費などとして250万ID(約2,083ドル)、さらに秘書・ボディガード経費として一人当たり105万ID(875ドル)が16人分、すなわちすべて合計すると2430万ID(2万250ドル)が毎月支払われている。一人当たりGDPが5,165.7ドル の国の水準としてはかなり高いと言えよう。さらに、国会議員や閣僚になることで様々な利権や特権にアクセスが可能となることは容易に推察される。
イラクでは過去15年間以上、内戦や宗派間対立の激化、テロの横行など様々な形で危機に直面してきたが、人口の2割弱を占めるクルド人が民族自決に基づく独立国家樹立を求めている例を除くと、イラク国家を分割したり解体したりする案への支持は皆無と言ってよい。その要因として、国民の間に一定程度ナショナリズムが醸成されているという点に加えて、こうした多大な利権の存在も無視できないのではないかと思われる。国家としての統治機構が脆弱であるがゆえに、イラクでは暴力装置の一元化が実現しておらず、武器を持った非正規ないし準正規の多種多様なローカルアクターが存在している。具体的には、クルド兵のペシュメルガ、シーア派民兵を中核とする人民動員部隊、彼らや米軍がリクルートしたスンナ派の自警団、地元部族などが相当する。彼らは、国家が弱いことによって一定の自由度を持って活動することができているが、国家を崩壊させることやそれにとって代わることを望んでいるわけではなく、むしろ、国家からの分配に期待しているという側面がある。2016年11月に人民動員部隊法が国民議会で成立し、彼らにイラク軍や警察等の正規治安部隊と同等の権利や給与が保障されたのは、対IS戦への非常措置として組織された彼らが、半恒久的な権益維持を確かなものにすることを求めたからに他ならない。
政界が権力闘争に多大な時間とエネルギーを費やしている弊害は、長期的視点に立った戦後復興や経済・社会開発への対応が進まないという形で顕在化している。最たる例は、2010年頃から毎年夏になると発生する市民の抗議デモである。2003年のイラク戦争からすでに15年以上が経ち、イラクは世界有数の原油輸出国に成長している。にもかかわらず、飲料水・電力の供給、医療体制、インフラ整備といった公共サービス全般の質は極めて低く、いつまでも市民は「戦後復興」の成果を実感できていない。石油産業以外に目立った産業が育たず、失業率も高い。その一方で、利権にありついた政治家の汚職は広く知られている。そうした不満が、気温が50度にもなる酷暑の夏に、電力不足が引き金となって抗議デモの形で噴出するという構図が繰り返されてきた。そして、状況に目立った進展や改善がないために、夏の暑さや電力不足は毎年のことながら、市民の忍耐のレベルは年々低下している。
選挙の再集計とその後の組閣交渉が行われていた2018年夏には、バスラを中心に南部の各地に抗議デモが伝播した。デモ隊の一部が暴徒化したことで治安部隊と」の衝突による死者は20名以上に上った。このデモにおいて特徴的だったことは、市民の非難の矛先が現在の既得権益層(と市民がみなす対象)全般に向けられたことである。デモ隊の襲撃対象とならなかった政党・民兵事務所はほぼ皆無だった上、国際石油会社やイランや米国の領事館なども少なからず被害を受けた。これはいわば、現状維持に対する市民からの異議申し立てである。政界がこうした市民の不満に応えることができなければ、イラクの大きな不安定要因となるだろう。
(2019年3月18日脱稿)
※本稿は、平成30年度外務省外交・安全保障調査研究事業報告書『反グローバリズム再考――国際経済秩序を揺るがす危機要因の研究 グローバルリスク研究』(日本国際問題研究所、2019年)の要旨となります。詳しくは、報告書の本文をご参照下さい。