コラム

『US Report』vol. 2

「米国の所得格差問題とオバマケア」

2015-08-24
山岸敬和(南山大学教授)
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 2010年3月、オバマ政権下で社会保障政策史上重要な法案が議会を通過した。患者保護および医療費負担適正化法、通称オバマケアと呼ばれるものである。これが成立してから5年以上経っているが、アメリカ政治では未だ大きな争点である。2016年の大統領選挙でも重要な争点の一つになることは間違いなく、各候補者がどのような政策スタンスを取るのかが注目される。
 オバマケアに関する議論は、社会保障政策の今後のあり方、より広くは近年の所得格差是正のための方策をめぐる議論にも深く関係している。2009年頃から盛り上がったティーパーティ運動(Tea Party movement)は、減税を第一に訴え、社会・経済政策への連邦政府の関与を可能な限り制限すべきであると主張する。他方、2011年秋頃から注目されるようになった「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」運動は、「私たちは残りの99%だ(We are the 99%)」というメッセージを押し出し、所得上位1%の人々に富が極端に集中している事を問題視し、連邦政府が積極的な所得是正政策を取るべきであると訴える。
 これらの「右」と「左」からの運動は現在も政治・社会的影響力を持っている。このような政治状況下において、アメリカの社会保障政策や所得格差是正政策は今後どのような展開を見せて行くのであろうか?このレポートでは、所得格差の状況、オバマケアの成り立ちと仕組み、そしてオバマケアと所得格差問題の今後についてそれぞれ簡単にまとめたい。

1. 所得格差の状況
 トマ・ピケティとエマニュエル・サエズは、アメリカにおける所得上位1%とが全所得に占める割合を1913年から2013年まで計算した。彼らは、大恐慌前夜にはその数字が約23%となり、その後1970年代にかけて約10%にまで低下したが、それからまた上昇傾向となり、現在は大恐慌前の数字程度にまで増加していることを指摘する。このような状況が、ウォール街を占拠せよ運動に参加する人々が富の再配分を訴える背景にある。

2. オバマケアの成り立ちと仕組み
 アメリカに皆保険を導入しようとする運動は20世紀に入って間もなく現れたが、それから約一世紀間に亘ってその改革運動は失敗の連続であった。最近ではクリントン政権の下でファースト・レディであったヒラリーを中心になって改革案が形成されたが、それは議会を通過することはなかった。しかし一方で、医療問題は深刻化していった。特に医療保険を持たない無保険者の数が増え続ける状況、そして同時に国家にとっても個人にとっても医療関連支出の増大する状況に対して多くの専門家が「医療危機」という言葉を使いながら警鐘を打ち鳴らした。そこでまさに「世紀の改革」として成立したのがオバマケアであった。
 オバマケアは、無保険者数を減少させる、すなわち皆保険にできるだけ近づけようとすることを目指したものであったといえる。そのために採られた方法は民間保険の活用であった。無保険者に民間保険を購入させるための主に三つ制度を作った。第一に、医療保険取引所という州または連邦政府が管理する「マーケット」を個人で民間保険を購入する者のために創出する。第二に、この取引所で保険を購入しようとする者に対してタックス・クレジットという形で助成を行う。第三に、民間保険を購入しない個人(または50人以上の従業員を持つ企業)に対してペナルティを課す。
 オバマケアというのは、日本のように政府がより直接的に管理する公的プログラムに国民を加入させるというものではなく、民間保険を購入するさせるためのインセンティブを準備したものに過ぎない。このような連邦政府の間接的な関与の仕方を選択せざるを得なかったのは、オバマ大統領の所属政党である民主党の中にも財政保守の立場を取る勢力が影響力を持っていたこともあるが、連邦政府がアメリカ市民の日常生活における選択を制約するという事に対してイデオロギー的に反対する人々が少なからずいたことも背景にあった。

3. オバマケアと所得格差問題の今後
 オバマケアは施行後5年経ち、その間に二度の重要な最高裁判決を経験したが、概ねオバマ政権に好意的な判決が下された。オバマケアはある意味「確立した法(Law of the land)」としてアメリカ市民の中に定着しつつあるといえる。無保険者の数も、2015年第二四半期には11.9%となり、1987年以来の最低値となった。世論も次第に好意的になってきている。カイザー・ファミリー財団の調査でも、「オバマケアを破棄する、または破棄して共和党案を採用する」とする者は、2012年7月には46%いたのが、2014年3月には29%に減少した。
 しかし他方、オバマケアで医療問題が大きく改善されたとは言い難い。無保険者の数は減少したが、現在の制度設計では無保険者を全てなくすようにはなっていない。また、保険を持っていても、保険料が高額だったり、免責額が高く設定してあったりなどして家計が圧迫されている家族が存在するという問題は根本的な解決策が示されないままである。さらには、連邦政府の医療関連支出の増加については、近年は抑制気味であったが今後は伸び率が増えていくという予測がなされている。
 このような医療費や保険料の高騰の影響を受ける市民は中流階級の者である(下層階級にはメディケイドという公的保険が用意されている)。オバマケアが所得に与える影響について研究を行ったブルッキングス研究所のゲイリー・バートレスとヘンリー・アーロンは、所得下位20%以上の人々にはネガティブな影響を及ぼすとした。そこで注目されるのが、所得が高ければ高いほど悪影響が少なくて済むということである。
 医療費や保険料を抑制するために規制を設けるというのは、民間保険業界や医療サービス提供団体などからの反対があり政治的に困難となる。さらに世論を見ても決して容易なことではないことが分かる。ギャラップの世論調査によると、2013年に大きな連邦政府の権力が大きすぎると答えた者は2003年以降最高の60%となった。このような状況では、オバマケアがやり残した問題を解決するために連邦政府がリーダーシップを発揮することは難しい。
 このような難しい政治的文脈の中で2016年の大統領選挙に向けて各候補者がオバマケアや所得格差問題にどの程度の情熱を持って、どのような政策を主張していくのかが注目される。