「安全保障のジレンマ」とは、一国による安全を確保するための行動が他国には攻撃を企図した行動と受け取られ、相互に対抗措置を呼び起こす結果、双方の安全が却って低下するというものである。経済、軍事の両面で競争、対抗の要素が強まりつつあるように見える米中関係は、「安全保障のジレンマ」の観点からはどのように理解すべきであろうか。
一般に「安全保障のジレンマ」が激化するのは、双方の対外戦略を両立させることが困難と認識されている場合であろう。互いに相手の行動を、自国を害する意図によるものと解釈しやすくなるからである。そうした中で、両国の軍事態勢が先制攻撃を敢行した側、或いは早期に紛争規模の拡大に踏み切った側を有利にするといった形で相関していれば、「安全保障のジレンマ」はそれだけ深刻の度を増すと想定されよう。
近年の米中関係は“複雑”なものであり、言わば「敵ではない」が「敵になり得る」関係である。従って、米中間における「安全保障のジレンマ」を悪化させないためには、対外戦略の同定を通じて「敵ではない」状況の基礎を探ること、並びに軍事態勢の調整を通じて武力衝突の回避及び紛争規模拡大の防止を図ることが緊要になってこよう。本稿では第一の課題に焦点を絞って議論を進めることとする。
米国の対外戦略は(1)敵対勢力による重要地域の支配阻止、(2)開放性(モノ、カネ、ヒト、情報の自由な移動)を前提とする経済利益の確保、及び(3)これら要素の国際制度への織り込みを基本要素としてきた。アジア・太平洋においても、「米国並びにその同盟国及び友好国に敵対的な如何なる単一の覇権的な国家または〔国家の〕連合の出現をも防止する」ことは、「商業上の権利を保持する」ことと並んで、米国の伝統的な国益とされるのである*。また、武力不行使や航行の自由を含む「規則に基づいた」(rules-based)国際政治の在り方は、そうした国益を実現するためにも重要となってくる。
当然ながら、対外戦略の具体的な表れ方は政権により、また状況により大きく異なってくる。民主主義や人権といった「価値」の普及が強調されることも少なくないが、それは必ずしも対外戦略に常在する要素というわけではない。また、対外戦略の遂行に当たっては、単独での行動が前面に据えられる場合と、多国間の協調に力点が置かれる場合とがある。何れにせよ、上記の如き対外戦略の大枠の中で、米国は擡頭する中国に対し、協力の範囲を拡大しつつ、相違を円滑に処理することが可能となるような関係の構築を試みてきたのである。
一方、中国は冷戦終結後、「改革・開放」政策を継続すると同時に、多極世界の到来を期待しつつも、単極構造の持続を与件として、その中で地位上昇を図ることとなった。それは「韜光養晦」(能力を隠し、時機を待つ)の指針とも整合する戦略であり、近隣国への安心供与及び主要国との提携(条件付き協力)追求を主軸としていた。しかし、国力の急速な伸長及び国内社会の変化を背景に、中国は「有所作為」(為すべきことを為す)に重点を移し、また「核心利益」(譲ることの出来ない利益)の拡大を窺わせるようになった。国内体制の安定を図るためにも、経済の持続的な成長に努めつつ、軍備の近代化を加速し、周辺海域への進出を活発化してきたのである。
それでは、米中の対外戦略はどのように相関しているのであろうか。アジアにおける力の分布については、軍事力における米国の全般的な優位が無視し得ないと同時に、大陸では中国、海洋では米国がそれぞれ優勢と捉えることも出来る。しかし、中国がこのまま軍備増強、海洋進出を続けていった場合、経済的な影響の増大とも相俟って、ゆくゆくは中国の地域覇権と呼び得るものが現出することがあっても必ずしも不思議ではない。ところが、米国にとって、中国が「敵になり得る」存在である限り、そのような事態は「敵対勢力による重要地域の支配阻止」という対外戦略の基本要素に牴触することになる。
また、南シナ海や東シナ海の広大な海域を「海洋国土」と称する中国がアジアにおける優越を達成した際には、米国の目指す「開放性を前提とする経済利益の確保」にも障害が生じかねない。しかも、中国による海洋権益の主張には、「規則に基づいた」国際秩序を掲げ、公海における航行や上空飛行の自由、多国間による紛争の平和的解決を求める米国の異議申し立てを退ける側面が含まれている。
さらに、海洋における中国の動向は、近隣国への直接的な影響を超えた意味をも有している。特に南シナ海が「中国の海」となった場合、中国は初めて米国本土に到達し得る弾道ミサイルを搭載した潜水艦の配備に適した海域を得ることになる他、インド洋方面における海軍力の活用にも拍車が掛かると想定される。
一方、世界全体では、経済でも安全保障でも、米国を中心とする国際秩序が持続している。中国は既存の経済秩序から便益を引き出すことに専心するか、或いは既存の秩序を基本的に受け入れつつ、その具体的な運営について修正を試みようとしてきた。米中間における政治・経済体制の異同に鑑みれば、中国の求める修正が取り入れられるに伴って、米国が主導してきた秩序が開放性を限定する方向に変質していく恐れも指摘され得る。
しかし、開放性の観点から特に注目すべきは、中国が現存する経済秩序の外部で国際制度の構築を始めたことである。中国を最大の出資国とするアジアインフラ投資銀行(AIIB)(本部・北京)が設立協定の調印に漕ぎ着けた他、BRICS(新興5か国)による「新開発銀行」(本部・上海)の開業準備も進んでいる。
中国独自の「シルクロード基金」と相俟って、これらの国際金融機関は、東アジアから欧州、アフリカに至る巨大な経済圏の構築を掲げる中国の「一帯一路」構想を支えるものとなり得よう。そこに中国の主導する上海協力機構(SCO)の拡大、機能強化等が重なった場合、経済のみならず安全保障を巡る国際秩序にも大きな変化が及ぶかも知れない。
固より以上に述べたような中国の行動は、体制安定の条件となる経済成長を確かなものにするためという側面が大きい。海洋進出の加速も国際金融機関の創立も、国外で天然資源を獲得し、国内企業に市場を提供する必要と密接に絡み合っている。また、アジアにおける優越の追求や新たな国際制度に対する関心は、国力の増大に見合った地域的、世界的な地位、役割を求める心情の表れでもあろう。そこには「屈辱の百年」から甦った「中華」という中国の自画像が見出されるのである。
そうだとすれば、中国の対外行動は――近隣国に対してはともかく――こと米国との直接的な関係に関する限り、現時点において、一概に「攻撃的」な動機に基づくものとは言えないであろう。また、中国の国際的な影響が拡大することは、米中間における協力の可能性も拡大することを意味し得る。例えば、海洋権益への関心増大は海洋安全保障でのさらなる連携に道を開くかも知れず、また新規の国際金融機関は――特に既存の機関との協調が成った場合――開発資金の供給増による途上国の政情安定に寄与することが考えられる。
しかし、既に見たように、近年における中国の対外戦略の展開が、米国の対外戦略との間に相当の緊張を生じつつあり、その分両国間で相違を管理することの困難が増しつつあることも確かである。中国は米国に対し、「核心利益」の相互尊重を中核とする「新型大国関係」の構築を訴えているが、中国の規定する「核心利益」の内容や、これを追求するための方策が、米国の意識する中核的な国益と相容れない部分が少なくないことを理解すべきであろう。
米中間における「安全保障のジレンマ」を尖鋭化させないためには、対外戦略の両立が必ずしも容易でないという認識の下に、それを前提として「敵ではない」状況の安定に努めることが、まずは肝要と思われる。また、対外戦略の両立が困難であるかも知れない以上、「敵になり得る」状況が深刻化する可能性は排除し得ないので、そうなった場合を想定して、武力衝突の防止及び紛争規模拡大の抑制を図るべく、軍事態勢に関する対話を促進せねばなるまい。他の条件にして一定であれば、そうした努力は「敵ではない」状況の持続にも資することであろう。
*James A. Baker, III, “America in Asia: Emerging Architecture for a Pacific Century,” Foreign Affairs, Vol. 70, No. 5 (Winter 1991/92), pp. 3-4.