コラム

ウクライナ情勢を受けて改訂されたロシアの「軍事ドクトリン」

2015-01-05
岡田美保(日本国際問題研究所研究員)
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 2014年12月25日にプーチン大統領は、軍事ドクトリンに署名したi。軍事ドクトリンは、「何がロシアの安全保障を脅かしているのか」「ロシアにとっての軍事的危険はどこから生じているのか」「それらの脅威や危険にロシアはどのように対処するのか」といった問いに答える国家の公式文書であり、ウクライナ情勢を含む新たな脅威を踏まえて9月の段階で改訂の方針が示されていたものである。新軍事ドクトリンにおいては、北極での国益擁護をロシア軍の役割として明記したことや、「軍事的危険」の一つとして前版(2010年2月5日付)よりも明確な形で米国の「即時グローバル打撃(PGS)」に言及していることなども注目されるが、以下では、欧州安全保障、特にウクライナ情勢に直接的に関わる部分を中心に検討したい。
 新軍事ドクトリンでは、「現段階における世界の動向は、グローバルな競争、国家間・地域間の相互作用の様々な分野における緊張、価値志向および発展モデル間の競合、全般的な国際関係の複雑化を背景としたグローバル及び地域のレベルにおける経済的・政治的発展過程の不安定性の強まりによって特徴付けられる。新たな経済成長・政治的引力の中心(複数)への影響力の再配分が段階的に進んでいる。」との現状認識が示されている。前版では、この箇所は「現段階における世界の動向は、イデオロギー対決の弱まり、一部の国家(国家グループ)や連合の経済的・政治的・軍事的影響力の低下、包括的支配を目指す他の諸国の影響力の増大、様々なプロセスの多極性とグローバリゼーションによって特徴付けられる。」とされていた。ロシアが、ウクライナをめぐる欧米諸国との対立を価値観や発展モデルの競合問題として捉えていること、世界が不安定な「力の移行」の過程にあると認識していることが窺われる。
 また、新軍事ドクトリンは、ロシアにとっての「軍事的危険」の第1に「北大西洋条約機構(NATO)の軍事ポテンシャルの強化、国際法規範に反する形でのグローバルな機能の付与、ブロックの拡大などを通じてNATO加盟諸国の軍事インフラをロシアとの国境に接近させること」を挙げている(前版には、「強化」という文言はなく、また文末は「・・・接近させようとする意図」であった)。このほか新軍事ドクトリンは、「軍事的危険」として「ロシアに対する政治的・軍事的圧力を目的とするものを含む、ロシアやその同盟国と国境を接する国家の領土やその隣接水域における諸外国(グループ)の派遣部隊の展開(増強)」を挙げている(下線部分が新版で新たに加わった)。新版は、ロシア-NATO関係に関わる部分について前版を基本的に踏襲しながらも、危険の切迫度をやや高めた表現を採用していること、ロシアが引き続きNATOの軍事力の強化や、ロシアとの国境付近への部隊の展開を注視していることが分かる。
 NATO内部では、ロシアのクリミア併合、ウクライナ侵略という事態に直面して、バルト諸国やポーランドにNATOの部隊を展開させることが議論されたものの、2014年9月のウェールズにおける首脳会合では、NATOとしての部隊の展開は見送られ、即応部隊・即応能力を強化する方針を打ち出すにとどまった。危機感を強めるバルト諸国やポーランドが、米国と合同訓練を行うなど強硬姿勢を示そうとするのも無理からぬことであるが、ロシアの過剰反応や憶測、対抗する言質の応酬も加わって、ロシア-NATO関係の不確実性が高まっている。欧州連合軍最高司令官(SACEUR)が、クリミアの軍事化に関連して「ロシア軍の核兵器搭載可能な戦力がクリミアに移動されている」iiことに言及した後、ロシアのメシュコフ(Alexei Meshkov)外務次官が、「NATOはバルト諸国に核兵器搭載可能な航空機を移動させている」iii、ラブロフ(Sergei Lavrov)外相が「ロシアは核拡散防止条約(NPT)上の核兵器国として、新たに編入されたクリミアを含むロシア領のどこにでも核兵器を配備する権利を有している。」ivと発言したことはその一例であるv
 新軍事ドクトリンは、現在の軍事紛争の特徴として、「軍事力、政治的・経済的・情報その他の非軍事的性格の手段の複合的な使用による国民の抗議ポテンシャルと特殊作戦の広範な活用」を挙げている。軍用車の偽装、徽章を着用しない兵士・覆面兵の使用、民兵、ゲリラ戦、宣伝戦・情報戦などを駆使したウクライナでの軍事作戦を想定したものであろう。
 さらに、「ロシアに隣接する国家において、正当な政府機関の転覆を伴うものを含め、ロシアの国益に脅威となる体制や政策を打ち立てること」、「諸外国及びその連合の特殊部隊・組織によるロシアを弱体化させる活動」が「軍事的危険」として新たに加えられており、ロシアが、ウクライナでの政変への欧米諸国の関与や、そのロシア国内への波及を強く警戒していることが示されている。ただ、改訂以前に懸念されていたような、米国やNATOを軍事ドクトリンの上で公然と敵視する姿勢は回避されている。少なくとも新軍事ドクトリンの文言上は、ロシアなりに一定の抑制をしていると見ることもできよう。
 また、新軍事ドクトリンは、前版同様、軍事力整備に注力する方針を明らかにしているが、ロシアが今後もクリミアを維持し、ウクライナ東部への軍事介入を続けるならば、それは莫大な経済コストをロシア自身に課すこととなる。2015年予算においては、費目「国防」は前年(2014年予算)比132.8%と3割以上の増額が決定されており、対GDP(予測値)比4.2%、財政支出の21.2%が「国防」に充当されることになっているvi。原油価格や国際為替相場におけるルーブルの価値の動向にもよるが、国民経済に占める国防関連支出比率の増大が長期にわたれば、ロシア経済に深刻な打撃を与えることになるであろう。
 以上のように、新軍事ドクトリンでロシアは数々の「軍事的危険」や「軍事的脅威」を列挙し、ロシアの軍事的な対処姿勢を明らかにしている。しかし、カーネギー国際平和財団モスクワ・センターのトレーニン(Dmitrii Trenin)所長も指摘しているようにvii、ロシアにとっての本当の「危険」は、脅威を過大視して過剰反応をすることである。ロシアは、クリミアの併合と東部への軍事介入によって「ウクライナのNATO加盟阻止」という目標を当面は達成できるかもしれない。だが、ロシアの行動が、西側諸国の様々な軍事的・政治的対応や、エネルギー・経済分野でのロシア依存回避行動を招き、ロシアは安全に対する不安をかえって深めているのが現状である。ロシアは今、脅威に対処し安全を確保するための行動が、結果として安全を損なう「安全保障のジレンマ」に陥りつつあるのではなかろうか。



i ロシア大統領HP(2014.12.26)
ii CNN(2014.11.13)
iii Reuters(2014.12.1)
iv Interfax-Ukraine(2014.12.15)
v なお、専門家は、米国議会筋で流れたクリミアに核兵器が搬入されているのではないかとの憶測について、核兵器(核弾頭)と核兵器を搭載可能な兵器を区別することが重要であるとした上で、後者についてはソ連時代から継続してクリミアに配備されていること、核弾頭を貯蔵する施設・設備はクリミアにはなく、クリミアに配備されている核兵器搭載可能な兵器に核弾頭が搭載されているとは考えにくい(doubtful)と指摘している。
Hans M. Kristensen, “Rumors about Nuclear Weapons in Crimea,” Federation of Amerian Scientists Strategic Security Blog(2014.12.18).
vi 「2015年及び2016、2017計画年の連邦予算に関する」連邦法(2014年12月3日付)
vii Dmitri Trenin, “2014: Russia’s New Military Doctrine Tells It All,” Eurasia Outlook, Carnegie Endowment Moscow Center, 29 December 2014.