その第一は、近年「平和構築論」と銘打った科目の中で取り組まれる関連のテーマとその特徴についてである。それを一言でいえば、政治学、経済学、社会学、更には、文化人類学等の諸学問が関係する、つまり、“学際的(interdisciplinary)”で、且つ、“古くて”“新しい”側面を持った研究教育の対象といえよう。平和構築論は特に冷戦終了後にその学問的な関心が高まった状況との関連でそこに“新規性”はあるものの、その中核となる諸課題については1960年代以降世界の潮流となった脱植民地化、民族自決の波に乗って独立に進んだ発展途上国に対する開発援助や国作り支援、更には、その背後にある近代化をめぐる理論等の中にみられる諸問題を受け継いでいるといえよう。最近の具体的な事例として9/11がよく引き合いに出されるが、その温床となった所謂崩壊国家(collapsed states)、脆弱国家(fragile states)乃至は、失敗国家(failed states)等と呼ばれる ― 領域内で生じる集団的暴力に対する規制取り締まりのために公権力(中央政府)の行使による一元的な法執行をはじめとする、正常な国家機能が作動しない ― 国内状況が放置されれば、グローバル化の進んだ今日の国際秩序にとっての“弱いつなぎ目(weak links)”2 、即ち、不安定化の要因になる虞があると指摘されている。そして、その文脈の中で解決策として平和構築の重要性と国際政治におけるその戦略性が注目されるが、国作り(nation building)支援を拒否して当選したジョージ・ブッシュ米大統領が軍事力を行使して独裁者サダム・フセインを打倒した後に(或いは、...にも拘わらず)、イラクの国家再建に苦しめられたという皮肉な展開がこのことを端的に物語る。筆者は平和構築の現場での経験から、その成功のカギとして開発(development)が果たす役割のもつ重要性を痛感した。これに関して、世界銀行総裁(当時)のロバート・ゼーリックは、“開発を安全保障する(Securing Development)”― つまり、開発の成果が定着するために、紛争から平和への円滑な移行が上手くいくように安全の確保と開発の推進を一緒に行う ― ことからはじめなければならない今日的な状況の変化にその“新規性”を見てとって、“経済(開発)とガバナンス(統治)と安全保障の間の相互連結性(the nexus among economics, governance and security)”について論じている。ゼーリックは、“経済、ガバナンス、安全保障の問題が交叉するところに集中するさまざまな挑戦は極めて重要であり、そのために、軍事、政治、法律、開発、財政、技術等、いろんな手段だけでなく、アクターについても、国家、国際機関、市民社会、民間部門を含めて、(旧来の縦割りを排した)統合的な取り組みをしなければならない”と説いている。そして、また、ゼーリックは、“それが決して容易ではない”と認めている3。別の角度から見ると、ゼーリックのこの命題を読み解くカギのひとつは、同じ世銀のチーフ・エコノミストを務めたニコラス・スターンが指摘するように、“内戦は開発の必要性に関してだけではなく、開発の失敗をも示す(Civil war thus reflects not just a problem for development, but a failure of development.)4 ”とするメッセージにあろう。もうひとつは、筆者が最近目にした、日本の明治維新と近代化について中国の週刊誌が特集記事を組んだことを報じる邦字紙の解説の中に見出すことが出来よう5 。つまり、取材執筆した記者は、「いまに生きる記事にしたい」として同特集を企画した中国人編集者が挑んだメッセージの一つは、「日本は維新により科学や経済は発達したが、政治制度には欠けていたため、軍の暴走を許してしまった」とする総括にあると説明を加えている。この解説から、更に、読者は同特集記事に“隠された(?)”真の政治的な意図にまで知的な探究心を呼び起こされるが、そのヒントは、第二次大戦終了後に風靡した、“経済の発展と伴に、新しい社会関係が誕生し、高等教育が広がり、成果主義や合理性を重んじる価値の尊重、更には、民主的な政治制度の進展等が好循環をなしてすべて一緒にやってくる”とする近代化理論に挑戦した、フクヤマも師事したサミュエル・ハンティントンの言説である6。筆者は、平和構築についても同様に、経済開発の重要性に加えて、ハンティントンが説くように、それ自身が独自のロジックで動く政治開発の重要性にも留意すべきと理解するがどうであろうか。
第二に、平和構築論に対する視座を定めるうえで重要なのは「タンゴは一人では踊れない」との譬えにみられる、平和構築に登場する二つのアクター、つまり、現地の“援助を受ける”側と外から“援助をする”側の間の“微妙な関係”である。元米財務長官のロレンス・サマーズが引用元とされる「レンタカーを洗ってから返す利用者はいない」との身近な真実を捩って説明すれば、平和構築が成功するためには、学者、政治家として多才な活動をするマイケル・イグナティエフが云う“軽い帝国(Empire Lite)”7論に関する評価は兎も角、結局のところ“運転席に座る”べき現地の人びとの役割とその視点が重要となる。従って、彼らの、所謂“当事者意識(ownership)”の育成や“能力向上(local capacity building)”が中心的な政策課題となり、研究テーマとなるべき所以である。ところが、冷戦終了後に他に先駆けてこの問題を取り上げたアメリカの職業外交官ジェラルド・ヘルマンとスティイブン・ラトナーは、その救済策(Saving Failed States)として、信託統治制度にも似た、後見制度(conservatorship)を提唱したが、その中にはまだそのような視点が強く意識されいるようには窺えない8。その後1999年に起きた人道的介入の結果を受けて独立の方向に歩みだした東ティモールで国連による暫定統治を指揮したセルジオ・デメロは、その経験を買われてイラクに派遣されたが、その直後にテロの標的となって爆死したとのニュースはわれわれを驚かせ、まだ記憶のなかの何処かに残っている。その時、ニューヨーク・タイムズ紙は彼の死を追悼した社説の中でこう述べている 。“当初権威主義的な手法によって国つくりに臨んで失敗したデメロは、現地人に権力を移譲することで成功を収めたあと、これを教訓としてイラクでも実践しようとした矢先のことであった。”他方、対外援助者の視点からは平和構築“支援”論でなければならないのに、従来の途上国での開発問題にみられるように、支援する側の援助哲学、同開発援助機関の組織論理やタックス・ぺイヤー(納税者)に対する過剰な説明責任論の方が援助を受ける側の視点よりもしばしば優先する。このような性癖は国家に限ったものではなく、国際機関や国際NGO等の他の援助アクターについても、独自の利点を有しつつも、決してその例外ではない。その結果、明確な“出口戦略”を欠き、援助効果にも影響を及ぼしかねない“歪な”平和構築論が登場する危険性が常に潜んでおり、このことも心配である。勿論のこと、援助を受ける側に対しても、その背後で“援助に対する依存心”や“援助慣れの悪弊”が無意識のうちに助長されてきたとの指摘が過去にもしばしばみられることから、十分に注意する必要があろう。しかし、フクヤマの警告にもあるように、折角の“善意の”援助が当事者の能力を削ぐようになる(local capacity sucking-out)ことは厳に慎むべきである10。「害を及ぼすこと勿れ(Do no harm.)」11 は特に人道支援の援助をする際の鉄則としてよく知られているが、前者と同様に、次に触れる“パートナーシップ”の悪しき実践を戒めるための標語でもある。
このように援助をする側と援助を受ける側の関係について考えるとき筆者の頭に浮かぶのは冷戦の終了後に日本がとった外交的なイニシャティブである。つまり、所謂南北問題と呼ばれる、背後に東西対立のイデオロギーが結びついた不毛な支援論争の呪縛から解き放たれた中で、また、新たな状況の展開を踏まえて、日本は東アジアでの経済協力で培った経験に基づいた新たな開発戦略を提唱する(1993年)。ここで筆者が特に注目するのは、その主要な構成要素のひとつである“外部のパートナーシップ(external partnership)と現地のオーナーシップ(local ownership)”という二重原則から引き出されるヒントについてである12。筆者は外交に携わった初期の頃1970年代後半にODA(政府開発援助)、特に(円)借款供与を担当したが、当時実務の場で担当官たちを導いたのがその援助理念の中核にあった“自助努力(self-help effort)”であり、“要請主義(request-based principle)”という考え方であった。いずれも“援助する”側に立った日本の自負心と“援助を受ける”側の主体性に配慮する日本の独自性を強調するものであり、それは上述の二重原則にも沿ったものである。因みに、この新開発戦略の提唱は、冷戦時代の“援助疲れ(aid fatigue)”から解放されてそれぞれ国民に向けての“平和の配当(peace dividend)”に腐心する主要援助国が参加するG-7の場では必ずしも十分な支持が得られずに終わる。ところが皮肉にもその時に消極的な態度をとった関係国によってその後(2005年)アフリカの貧困解消のために行われた国際協力のキャンペーンが大きな反響を呼び起こしたことはわれわれの記憶にまだ新しい。外務次官、国連大使(いずれも当時)としてこれを主導した小和田恆(現在)国際司法裁判所判事は、日本が呼び掛けた時にはまだその機が熟していなかったと振り返るが13、外交上のこの不運な巡り合わせについては部分的に関与した筆者としても非常に残念である。しかしながら、この時の一連の外交的な実践からは、アフリカ開発会議(Tokyo International Conference on African Development: TICAD)の定期的な開催へと結実する一方で、知的な貢献としても、幾つかの斬新なイニシャティブが生み出されている点は特筆に値しよう。それらは、“成果重視型”の手法の先駆となる1996年にOECDで採択された新しい開発の哲学『包括的開発枠組み(Shaping the 21st Century: The Contribution of Development Co-operation)』の作成に及ぼした強い影響力、また、後に国際的に公式化される「人間の安全保障」とも親和性の強い考え方14、更には、国連ミレニアム宣言(2000年)、及びミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)に反映されたアイディアのなかにうかがえる。また、冷戦終了後の新たな状況の中に見られる開発環境に関する“新規性”として先にも触れた開発、安全、統治(ガバナンス)の間の相互関連性の認識についても同様である15。以上これらの効果、意味合い等については、今後更なる学問的な実証研究を経る必要性はあろうが、国内的にもう少し注目されて然るべき一時期の日本の外交努力であると筆者が常々感じてきたもののひとつである。
第三は、統治のための(国家)制度構築((governmental) institution building)の重要性である。このテーマに関する著作のあるローランド・パリスに拠れば、この二十年間の平和構築の実践の積み重ねと研究成果の進展・深化の結果、平和構築の核心は国家(統治制度)構築(statebuilding)であるとする方向で識者の見解や専門家の研究結果が収斂されてきているという16。つまり、平和構築論でもまた、脱植民地化の後も解消されない貧困問題の解決策として開発経済学者が近年になって提唱するところの「制度が重要だ(Institutions matter.)」ということになる17。フクヤマは、モノ(ハード)の交易との対比で制度構築をソフトの移転として例えて、移転先の政治、経済、社会等の諸条件に適合するための調整の必要性を挙げ、その難しさを以下の通りに論じている18。
第四は、このような平和構築には、「ひとつのサイズですべてをまかなうことは出来ない(No one size fits all)」の譬えにある通り、実際には状況に合わせた多種多様な実践が試みられ、また、成果を考えれば寧ろその方がよいとも云えよう。これに関連して、前述のゼーリックが開発の分野で“ワシントン・コンセンサス(Washington Consensus)”と従来から呼ばれる世銀が主導してきた発展モデルの画一的な適用を自ら否定し、その多様性を認めたことを、筆者は思い起こす25。アメリカが9/11を受けてアフガニスタンとイラクの体制を打倒した後にとった対応ぶりは、対外的な関与の強弱に着目して、それぞれ“軽い足跡(light footprint)”、“深い足跡(heavy footprint)”アプローチと呼ばれることがあるが、状況によって異なった国家再建の取り組み方が選好されることがここからも読み取れよう。その理由のひとつには、紛争の形態やその終結、停止の性格がその後の平和構築に大きな影響を及ぼす要因となっていることが挙げられる。更に、それ以上に注目すべきは、関係する国家社会の(統治の)制度に映し出される、それぞれに多様で、且つ、独特な歴史的な条件である。(紛争後の)平和構築とは、筆者なりに定義すれば、ブトロス・ブトロスガリ(当時)国連事務総長が1992年に発表した報告書『平和のための課題(An Agenda for Peace)』の中で最初に下したそれに倣って、“紛争(今日では、内戦や部族間の諍いが大半)を経た国家、社会がその再発に陥らずに持続的な平和を維持できるような構造を構築することである(action to identify and support structures which will tend to strengthen and solidify peace in order to avoid a relapse into conflict)”といえよう。そのためにはそれを支える共生可能な社会の条件を整え、共通する文化的な紐帯を育むことまでもが必要とされよう。しかしながら、歴史上強力な中央政府の確立を未だ見ていない現地社会の発展段階を顧みることなく、欧米社会にみられる統治のモデルをそのまま“上から目線で(top-down)”実現しようとする試みが多々見られるのも事実である。何故そうなのか、その理由の一つは冒頭のフクヤマの指摘が雄弁に言い当てている。従って、先に言及した当事者の側の特殊性に加え、外部支援の側に見られる制度上の欠陥 ― つまり、時間の経過による“持続的な関心の衰退(attention deficit)”26 ― をも考慮すると途中で息切れする可能性は一層高くなる。そのような中、近年、アフガニスタン、イラク、更には「アフリカの角」でのフィールド体験を経た者達からは、“地域社会のなかに織り込まれている統治の機能(legitimate local nonstate governance)”に着目した“下から目線(bottom-up)”のアプローチが提起されるが27、自らの経験に照らして筆者にとっても大きな関心を抱かせる研究課題である。上述の定義に見られる通り、平和構築には多面的で複雑な側面を含んでおり28、それぞれに対して適切な取り組みが求められることから、この二つのアプローチも競争的ではなく、相互に補完的な関係にあると捉えるべきであろう。筆者は後者についての理論的枠組みの一つとして、社会的支配(social control)の独占化をめぐって国家(政府)とそれに挑戦、抵抗、交流するさまざまな社会組織(social organizations)との関係について興味深い分析をする、政治学者のジョエル・ミグダルが提示する“社会の中の国家(state-in-society)”モデルに注目する29。つまり、他方で、“簒奪者(spoiler)”として平和の進展を喰いものにし妨害したりするとも指摘され30、一般的には自己本位で、排他的とされる、上述した社会組織の持つ能力が、平和構築のプロセスの中で変化する状況に対してどのように適合して、秩序の回復に役に立ち、最終的には“分断線のない、統合した、強い”国家社会の形成に貢献できるのかが関心事項である。更に、挑発的で、荒唐無稽にも聞こえるが、「政府が不在でも統治(ガバナンス)は可能である(governance without government)」という問題提起が含意するところ(つまり、“弱い政府”でも“強い社会”との結びつきで平和で安定した公共秩序を実現31)も ― ソマリランドでの実例から ― 平和構築をめぐる困難な現状とその将来を考えるときに、実務者及び研究者の双方にとって知的な刺激を掻き立てる大きな挑戦となるはずである。
第五は、人間の安全保障と平和構築の関係についてである。「人間の安全保障」も「平和構築」と同様、研究者の間でその定義の定まらない用語であるために、それを議論する際には、そこからはじめざるをえなくなり、非常に厄介である。そのような中で、研究者の一人として筆者自身は、「人間の安全保障」とは、 従来の「国家」の視点ではなく“人間(その意味については別途考察する必要があるが32)を中心に据えて”その安全保障を模索するための新しい発想であり、また、実践的な“アプローチ”と考える。UNDPが発表した『人間開発報告1994』にはじめて登場する「人間の安全保障」という考えは、1997-98年に起きたアジア経済金融危機の際の小渕諸提案33を受けて、それにつづく内閣もその中身の充実化と国際的な普及のために長い間積極的な外交展開をした経緯もあって、今日では国際社会からも広く認知されてきている。佐藤行雄(当時)国連大使は、そこに辿り着くまでには国際的にも、国内的にも乗り越えなければならない政策課題がいくつもあったと振り返る。“貧困”を中心に幅広く捉えるアプローチへの収斂、国際社会の関心を高め、特に途上国の理解と支持を広げるための外交イニシャティブ、“カナダと一線を画した”人間の安全保障の性格付け、緒方・セン共同議長の『人間の安全保障委員会』に発展する有識者会議の立ち上げ、更には、実施手段としての信託基金構想とODAを使って新たに設けられる援助スキームとの関連性等々、日本のポジションが確立されるまでの外交ドラマがそれである34。2004年2月に訪日したアナン(当時)国連事務総長は、国会で演説して、その中で「日本の技術力と人間の安全保障を重視する姿勢なくしては、世界がミレニアム開発目標を達成することはないであろう。」と述べている35が、この発言がこの間の日本外交の評価についてのすべてを物語る。国益を超えた人類益ともいえるそこから読み取れる普遍的な理念が人びとの関心を惹き付けていることも関係していよう。更に付け加えるならば、憲法前文に盛られた高邁な精神と第二次大戦後の経済復興と発展の輝かしい記録を持つ日本が国際的に主導したからこそ「人間の安全保障」キャンペーンの信ぴょう性を少なからず高めることに役立ったとする、これに参画した外交当局者の証言もあり、これまた傾聴に値しよう。
それはさておき、近代以降国民との社会契約で生み出されることが措定される“理念型の国家”の機能には、外敵からの国土と国民を守る国家安全保障(national security)、国内社会の公共秩序と国民の権利自由を守る治安(internal/public security)、経済支援活動を通して自助の困難な国民の生活を守る社会保障(social security)の三つの種類の安全保障が挙げられる36。このように個々の国民がその恩恵に浴することができる限り、“破綻国家”現象に見られるような、この面での人間の安全保障の危機は顕在化しない。逆に、そのような国家機能の回復を試みる平和構築は人間の安全保障を確保するための基本的な挑戦ともいえよう。しかしながら、筆者が現場で目撃して心を痛めたのは、歴史的にも中央政府の庇護を欠き、また、余力の乏しい平和構築のオペレーションによる成果も届かない“人間の安全保障の隙間(human security niche)”に落ち込んだ、社会の底辺や周辺部、更には辺境で生活をする人々の存在である。圧政下で強権的な政府に苦しめられる人々も同様である。いずれも、言葉を換えて言えば、“欠乏からの自由(freedom from want)”や“恐怖からの自由(freedom from fear)”を奪われたひとびとであり、その背後にみられる貧困と紛争の悪循環によって彼らの生活環境が更なる劣化の危険性に晒されることが懸念される。勿論今日的な文脈で新しい概念として登場した「人間の安全保障」が問いかける課題は、上記に限るものではない。例えば、非伝統的脅威と呼ばれる国際犯罪、地球温暖化、環境汚染、更には、感染症の問題等多面にわたり、その対処法も一政府だけでは到底対応出来ず多岐にわたる。しかしながら、“人間の安全保障として括られる”これらの諸問題には、問題としての世界共通性、越境伝搬性、さらには、早期予防の重要性の三つがその共通点として指摘されている37。
以上、平和構築に関する五つの所見についてみてきたが、それは、また、筆者にとって、日本的な視点を織り込んだ“「平和構築論」を再構築する”ための一つの試論である。この他、平和構築論では「人道的介入(humanitarian intervention)」、「移行期の正義(transitional justice)」、更には「民主化(democratization)」に関わる問題等、それひとつひとつが国際政治の上で重要性を持った諸問題が論ぜられている。これらを含めると、非常に幅広い今日的な争点が浮かび上がることになり、また、今日を考える上で大きな、且つ、重いテーマをもったものと云えよう。
最後に、上述の追加的に言及したそれぞれについても、以下そのポイントを簡潔に説明して終わりとしたい。先ず、人道的介入に関しては、1994年にルワンダ、1995年にスレブレニツァで起きた大虐殺に対する国際社会の不作為についての反省から「保護する責任(Responsibility to Protect: R2P or RtoP)」という新しい考え方が生まれ、2005年に開かれた世界首脳会合では合意文書の中に盛り込まれ承認された。しかしながら、2011年にそれを援用する国連安保理決議(SCR 1973)に基づき実行されたリビアへの人道的な武力介入や現在内戦の中で非人道的惨状が伝えられるシリアへのその適用が果たして是か非か、激しく論じられている。言い換えれば、国際社会にとっての新たな政治思潮、国際連帯のしるしとして勢いを増す普遍的人権の尊重を推し進める動きと伝統的な国際法の枠組みを下支えする国家主権や内政不干渉に関わる基本的な諸原則、つまり、国連事務総長(当時)のコフィ・アナンの云う“二つ主権”38 ― 個人主権(individual sovereignty)と国家主権(state sovereignty)― の間でどのような調和が実現されるか、また、そこからどのような新しい人道的な行動規範が形成されるのか、その模索が続いている。ただし、シリア情勢が長期的に混迷化する場合には、人道問題の領域を超えて、地域的、或いは、国際的な意味合いを帯びた、更に深刻な平和と安全の問題に転化する可能性を秘めている点にも注意する必要があろう。他方、より大きな視点からみると、このような規範的な動きと共に、国際刑事裁判所(International Criminal Court: ICC)への訴追に代表される、より効果的な国際的な刑事裁判のメカニズムやより強靭な平和維持活動の展開によって強化された紛争管理の手法との組み合わせのおかげで、紛争全般が鎮静化の方向に向かっているとする指摘も併せて注目される39。
次に、移行期の正義については、筆者が嘗て“平和構築の隠れた課題”と命名した“(紛争に巻き込まれた)当事者の心の傷を如何に癒すのか”という問題40が、他と同じように重要な課題として取り扱われるべきである。それは、一旦確立した平和によって紛争の中で犯された“重大犯罪(serious crimes)”が見過ごされて前者が覆されることのないように注意するだけでなく、更に、後者に対して“赦免を許さない(without impunity)”との国際的な声の高まりにどう応えるか、言い換えれば、平和と正義の間でどう折り合いをつけるのかに関する問題でもあり、平和構築のプロセスで取り組まなければならない大きな挑戦である。“スッキリとした答えが見出せない”とするこの問題に実際に取り組んだ経験をもつ法律家マーサ・ミノウによれば、虐殺、虐待の世紀と云われる二十世紀は、その反面、法に拠る裁き、国民和解、真実究明、賠償、次世代のための公教育等、人類が知恵を出していろいろな工夫を試みた時代でもある41。また、南アフリカでのアパルトヘイト後の国民和解に尽力し、旧ユーゴ、ルワンダの臨時戦争犯罪法廷の判事を務めたリチャード・ゴールドストーンは、“どこでも起こりうる”とするこの問題の類似性に注目して、そこに登場する被害者、加害者、更には、傍観者(第三者)の対応を鋭く観察する。このことは今日に生きるわれわれにとっても極めてショッキングで、重苦しい真実であるが、それぞれの当事者がその困難に向き合って、それぞれに克服していく努力をとる以外には上述した究極の目的を達成する道は拓けないと筆者は考える。これまた大きな挑戦である。
最後に、平和構築と民主化の問題との関係についても同様に複雑である。というのは、平和構築にとって先ずは“正統な”権力に支えられた“強い”政府(統治機構)をつくる必要があることはその通りであり、論を俟たない。しかし、今日の国民主権の考えの下で正統な政治権力を生み出す唯一の制度である国民選挙については、これを条件の整わないまま拙速に行っても紛争原因となった政治勢力の間の対立をそのまま固定化することにもつながりかねない危険性がつきまとう。また、後者については民主化の問題というよりも、先にも触れた通り、近代国家を支える政治制度の一つである“国家制度”に関係するものであるが、フクヤマの指摘する通り、強い政府が何を意味するのかについても ― つまり、国民からのニーズに対して“いろいろと応える(the problem of ‘scope’)”ことなのか、或いは、“しっかりと応える(the problem of ‘strength’)”ことなのか ― 当事者である彼らの間で共通した理解が求められる42。民主化に関する問題については、他方で、国民、なかんずく、少数派の権利と自由を守るために、十九世紀のフランス貴族アレクシス・ド・トックヴィルの云う、民衆支配による“多数派の専制(tyranny of the majority)”や国家権力の集中化に伴う専横化の危険性を抑制する政治制度を設計することも同時に重要な課題である。これは、“政府による説明責任(民主主義)”としてこれまた既に言及したもう一つの政治制度の核心をなすものである。身近な一例を挙げれば、国家崩壊を経験したソマリアで国民が強力な国家(中央政府)の再建を必ずしも望んでいないとされる理由が、このことと関係する。つまり、仮に敵対的な政治勢力(部族)が権力を握ったら嘗てのシアド・バレ政権下で起きた圧政の再来を招くことになるとの“(国家に対する)ゼロ・サム的な心理”から国民はまだ解放されていないといわれている43。このように平和構築の中でみられる相互に相反する政治的な要請はいずれもが持続的な平和を実現するための国のかたちを決定づけるものであり、何から取り組むかについては“時間的な順序(sequencing)の問題”が残るが、民主主義に期待される役割は重大である。
更に、民主主義との関連で、エジプトで起きている状況についてその帰趨を見通せるようになるまでにはまだかなりの時間がかかると予想されるが、ここでは理論的な問題に限ってひとこと触れておきたい。民主主義は、指導者のもつ特殊な能力や選良に依拠した“カリスマ的支配”、或いは、長い伝統や習慣等、歴史上の連続性に根差す“伝統的支配”とは異なり、民意を反映する手続きに唯一その権力の正統性を見出す政治制度であり、ウェーバーの類型でいう“合法的支配”である44。しかしながら、その民主主義についても“これまでに試みられてきたそれ以外のあらゆる政治形態を除けば、最悪の政治形態と言うことが出来る(Democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.)”と、第二次大戦時の英国の宰相ウインストン・チャーチルが皮肉をこめて述べるように、だからといって必ずしも良い政治が保証されているわけではない。それどころか、民主主義の下でも権力の正当性を保持するためには結局はその成果が求められることになり、指導者にはさもないとその正当性を失う政治的な緊張に常に晒される厳しい宿命が待ち受けている。ここまで民主主義を酷評する(?)と不安を感じる読者が出てくるかもしれないが、フクヤマは、仮に失敗しても、民主主義(liberal democracy)の制度には他のそれに比べて(例えば、経済の隆盛が目覚ましい中国には“悪い皇帝”問題(the bad emperor problem)があることから)“柔軟性”があるので、中長期的に得るものはより大きいとして、彼の民主主義に対する信頼は揺るがない45。また、ゼーリックも、使う言葉こそ違うが、フクヤマと同様に次のように述べる。“すべての国は誤りを犯すが、“開かれた”国はその誤りを直すのが早く、そして、前進する46”。
エジプトで行われた最初の国民選挙(2012年)によって選出されてから漸く一年を経たばかりのモハメド・モルシ大統領が、経済面での無策と政治面での行き過ぎたイスラム化にみられるこの間の極まる失政(?)、それに対する民衆の不満の爆発を理由に、軍部の手によって権力の座から引き降ろされ、拘束されるという“民主主義の正常な手続きから逸脱した”異常な事態によって政治の混乱が続いている。エジプト国民にとっては漸く手にした民主主義が作動する方向に進むかにみえた矢先に起きた大きな政治危機ではあるが、他方で、過激なイスラム主義から穏健な民主主義の枠組みを取り戻すための政治プロセスの中の一歩と捉えてこれを事実上許容する見方も強い。その背後には「イスラム主義」対「民主主義」の対立の図式で事態を捉えようとする保守的な政治思潮に加えて、エジプトの持つ地政学上のリスクをめぐる国際社会の現実主義的な思惑も見え隠れしており、従って、各国政府の対応も国際世論の足並みも不揃いの観を呈している。民主主義の原理に忠実であるべきなのか、民主主義を支持する勢力を支持すべきなのか、その判断軸についても対立がみられるが、筆者の眼からは“The jury is still out”である。以上が、8月15日に暫定政府の側が治安部隊を使ってモルシ前大統領を支持するムスリム同胞団が築いたデモ会場の強制排除に出て多数の死者を出す最悪の事態が生じる前に筆者が書き記した分析である。またその将来について、筆者は、問題は先ずもって、いずれもが民主主義に不慣れで経験の乏しい当事者、即ち、国民、政治勢力(イスラム主義者、自由主義者)、軍部の間で、“勝者一人占め”のメンタリティ(a winner-takes-all mentality)を克服して、エジプトで民主主義が定着するための条件について合意が見出され、共有されるかどうかにかかっている、と結んでいる。しかしながら、残念なことではあるが、暫定政府・軍による武力行使が“将来に残された一縷の希望”を断つものとなってしまったとして、識者、専門家はエジプトでの民主主義見通しについてこぞって悲観的である。(了)
* 本稿は筆者が現在出版準備中の『国際協力について考える(仮題)』から一部抜粋したものである。
** 筆者は日本国際問題研究所客員研究員。
1 Francis Fukuyama, The Origins of Political Order (New York: Farrar, Straus, and Giroux, 2011)
2 Patrick Stewart, Weak Links: Fragile States, Global Threats, and International Society (New York: Oxford University Press, 2011)
3 Robert Zoellick, Fragile States: Securing Development, address made at the plenary of the International Institute for Strategic Studies (IISS), held at Geneva, Switzerland, on Sep 12, 2008
8 Gerald Helman and Steven Ratner, “Saving Failed States”, Foreign Policy, winter 1992
9 “Nation Builder Slain,” New York Times editorial, Aug 20, 2003
10 Francis Fukuyama, State-Building: Governance and World Order In The 21st Century ( Ithaca, N.Y.: Cornell University Press, 2004)
11 Mary Anderson, Do No Harm: How Aid Can Support Peace-Or War, (Boulder, Co: Lynne Rienner Pub, 1994)
14 Human Security Now, the Commission on Human Security, 2003
15 注12を参照願いたい。
16 Roland Paris and Timothy Sisk (ed.), The Dilemmas of Statebuilding (London: Routledge, 2009)
19 Alexander Starr, “Afghanistan: What the Anthropologists Say”, New York Times, Nov. 18, 2011
20 注10を参照願いたい。
21 Charles Tilly, Coercion, Capital, and European States, AD 990-1990 (Cambridge, MA: Blackwell, 1990)
22 Max Weber, The Profession of Politics (Washington D.C.: Plutarch Publisher, 1987)
23 注1を参照願いたい。
24 Kenneth Pyle, Japan Rising - The Resurgence of Japanese Power and Purpose (New York: PublicAffairs, 2007)
25 Robert Zoellick, Democratizing Development Economics, statement delivered at Georgetown University on September 29, 2010
26 Michiko Kakutani, “Attention Deficit Disorder in a Most Peculiar Empire”, New York Times, March 21, 2005
30 Stephen John Stedman, “Spoiler Problems in Peace Processes”, International Security, Fall 1997
35 同上
36 詳細は山影進「序 地球社会の課題と人間の安全保障」高橋哲哉/山影進(編)『人間の安全保障』(東京大学出版会)を参照願いたい。
37 小和田恆/山影進「第9章 人間の安全保障」『国際関係論』(放送大学教育振興会)
38 Kofi Annan, “Two concepts of sovereignty”, The Economist, Sep 16, 1999
39 Joe Western and Joshua S. Goldstein, Humanitarian Intervention Comes of Age, Foreign Affairs, Nov/Dec 2011
40 旭英昭 「平和構築の“隠れた”課題」『外交フォーラム』 2004年4月号、No.189
41 Martha Minow, Between Grievance and Forgiveness: Facing History and Mass Violence (Boston: Beacon Press, 1998)
42 注10を参照願いたい。
43 注31を参照願いたい。
44 Max Weber, Economy and Society (Fourth Edition), G. Roth and C. Wittich (ed.), (Berkeley: University of California Press, 1978),
45 注1を参照願いたい。