コラム

『China Report』Vol. 10
中国新指導部の“プロファイリング”②:
汪洋 市場化推進改革論者

2018-03-05
李昊 (日本国際問題研究所 若手客員研究員)
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 2017年10月、中国共産党第19回全国代表大会(通称:党大会)と第一回中央委員会全体会議(通称:一中全会)が開かれ、今後5年間の中国を治める新しい指導部が発足した。本シリーズでは、新しい指導部の注目すべき人物について、①経歴、②人脈、③政策、思想的傾向、④今後の展望の四つの視点からプロファイリングを行い、紹介している。
 今回は、序列四位の新政治局常務委員、汪洋を取り上げる1

経歴2
 汪洋は1955年に安徽省で生まれた。父を早くに亡くし、家庭は貧しかった。1972年に地元宿県地区(現宿州市の一部)の食品工場の労働者として働き始め、そこから1999年まで30年近く安徽省でキャリアを積んだ。1976年から1979年までは宿県地区の「五七幹部学校」の教員を務め、中央党校での研修を経て、1980年、1981年は宿県地区党校の教員を務めた。その後、共産主義青年団(共青団)に移り、共青団安徽省委員会副書記まで昇進した。1984年に安徽省体育委員会副主任に転任し、1987年から1988年に体育委員会主任、1988年から1992年は安徽省銅陵市党委員会副書記や市長などを務めた。1992年から1993年に安徽省計画委員会主任、省長助理を経て、1993年から1999年まで安徽省の副省長を務めた。その間、1993年からは安徽省党委員会常務委員になり4、1998年に党委員会副書記に昇進した。汪洋は元々高校も卒業せずに働き始めたが、中央党校での研修や通信教育、社会人教育を利用して学習し、1995年には、勤務地の安徽省にある中国科技大学で工学修士の学位を得ている。
 1999年、汪洋は安徽省を離れ、2003年まで国務院国家発展計画委員会副主任を務めた5。この異動は当時の朱鎔基総理の抜擢であったと言われる6。2003年からは温家宝総理の下で、国務院副秘書長という国務院の日常業務を司る重責を担った。2005年に再度北京を離れ、2007年までは内陸部の重慶市党委員会書記を務めた。2007年の第17回党大会と一中全会において政治局委員に昇進した後、広東省党委員会に転任し、2012年まで務めた。重慶と広東という二つの重要地域のトップを務めた経歴もあって、2012年の第18回党大会では政治局常務委員の有力候補とみなされていたものの、結局昇進は叶わず、政治局委員に留任した7。2013年春に李克強総理の下での農業および対外経済貿易担当副総理に就任し、G20や米中経済対話をはじめとする多くの重要外交イベントに出席するなど、対外的な活動が目立った。副総理を一期無事に務めたのち、2017年の党大会とそれに続く一中全会で、政治局常務委員に昇進を果たした。
 汪洋は、基層幹部や、重慶、広東という重要地域のトップの経歴に加え、共青団、国務院幹部の経験もあり、多方面で活動してきた。また、安徽省計画委員会や国務院国家発展計画委員会などの経済部門での勤務経験も豊富で、副総理として経済部門を担当したこともあって、経済にも詳しい。家庭環境のために、汪洋のキャリアのスタートは他の指導者と比較すると地味で、苦労人でもあったが、1980年代後半以降の政治的キャリアは比較的順調だったと言える。

人脈
 一般的に、汪洋は胡錦濤が率いる「共青団派」に属すると報じられることが多い。その最たる根拠は1981年から1984年の共青団安徽省委員会での経歴である。しかし、胡錦濤と汪洋の特別な関係を示すそれ以上の材料はない。汪洋と同時期に共青団安徽省委員会にいた劉奇葆(前中央宣伝部長)や共青団出身の李克強との緊密な協力関係を示す材料がないことを考えても、汪洋が共青団に強いアイデンティティを持っているとは断言できない8。むしろ、汪洋が2003年から2005年まで国務院の副秘書長として温家宝に側近として仕えていたことを考えると、この両者が近い関係にある可能性を指摘できる9。とはいえ、胡錦濤政権において、胡錦濤と温家宝は協力関係にあったし、胡錦濤と汪洋との関係は良好だったと言える。また、李克強との関係についても、今のところ対立的だとは思われない。
 一方、汪洋と江沢民やそれに連なる人脈との密な繋がりは見当たらない10。ただ、特筆すべきは薄熙来とのライバル関係であろう。薄熙来は元副総理の薄一波の息子であり、2007年の党大会後に汪洋の後任として重慶市党委員会書記に着任した。薄熙来は重慶で「唱紅打黒」(革命歌を歌い、犯罪組織を叩く)キャンペーンを展開したが、汪洋の元部下の多くも犯罪組織とつながりがあるとして摘発に遭った。2012年の第18回党大会とそれに続く一中全会での常務委員会入りを目指して、薄熙来と汪洋はそれぞれ重慶と広東で対極的な手法で発展競争を展開し、メディアにも注目された11。2012年3月に薄熙来が失脚したため、汪洋が有利になったという観測もあったが12、結局その年の昇進は叶わず、政治局委員に留任となった。
 第18回党大会前後、国内外のメディアが胡錦濤勢力(共青団派、メンバーに李克強、李源潮、汪洋など)対江沢民勢力(上海閥、太子党、メンバーに習近平、王岐山、薄熙来など)という構図で中国政治を観察、分析していた13。汪洋と薄熙来のライバル関係も、この二勢力の代理戦争のようなものとみられていた。確かに2012年に汪洋が昇進できなかった背景には、江沢民をはじめとする保守的な有力者たちの反対があったことが考えられる。しかし、この対立構造は胡錦濤と江沢民の対立を説明するのに有効ではあるものの、それぞれの勢力下の人物が互いに対立していることを必ず意味するわけではない。特に汪洋と習近平が対立的な関係になかったことには留意すべきである。習近平は総書記就任後、反腐敗キャンペーンを通じて、江沢民と胡錦濤双方の人脈を叩いて権力を確立したが、汪洋は政治局委員兼副総理として習近平に忠実に仕え、2017年秋に昇格を果たした。

政策、思想的傾向
 汪洋は経済政策に関してリベラルな考え方を持つことで知られている。それは汪洋が安徽省出身であることと無縁ではないかもしれない。1970年代末、安徽省では万里党委員会第一書記の下で、農家生産請負制の導入という大胆な農業改革の試みが行われていた。汪洋は当時末端の幹部であり、万里と直接交流する機会があったとは考えにくいが、地元で起きている大きな変化に何らかの影響を受けた可能性は否定できない14
 汪洋の考え方をはっきり知ることができるのは1991年のある新聞記事である。30台半ばの若手幹部として安徽省銅陵市長を務めていた汪洋は、自らの主導で執筆チームを組織し、地元新聞『銅陵日報』(1991年11月14日)一面に龔声というペンネームによる「醒来、銅陵!」(目醒めよ、銅陵!)という記事を掲載させた。記事は「改革の大波が押し寄せている。歴史は我々に計画経済の上で惰眠を貪ることを許さない。思想を解放し、固定化した陳腐で閉鎖的な思想観念にメスを入れなければならない」と大胆に改革を訴えた15。1989年の第二次天安門事件以降、保守的な雰囲気が中国を覆っていた。中央では計画経済が再び声高に強調され、改革の機運は急速に萎んでいた。「醒来、銅陵!」はそのような厳しい雰囲気の中で打ち出された挑戦的な記事であった。当時、水面下では改革への希求も広く存在しており、「醒来、銅陵!」記事はそのような意見を代弁するものでもあった。記事は、翌年1月に若干の加筆編集を経て『経済日報』に転載され、鄧小平の目にも留まったと言われる。1992年、鄧小平は改革・開放を再度加速させた有名な南方視察を行ったが、帰路に安徽省に立ち寄った際に、わざわざ若手幹部の汪洋に接見した16。そして、同じ年に汪洋は安徽省の計画委員会主任に転任し、翌1993年に安徽省副省長に昇進、出世街道を進むことになった。
 広東省党委員会書記を務めていた時期の汪洋の活動もよく知られている。上で薄熙来とのライバル関係について言及したが、汪洋は「騰籠換鳥」(籠を空けて、中の鳥を入れ替える)という経済政策を採用した。その中身は、中小企業や遅れた産業を保護せず、市場メカニズムによる淘汰を通じて、民間の力によって産業構造の高度化を図るというものである17。このように、汪洋は経済政策において市場メカニズムを重視していた。当時の胡錦濤、温家宝政権は「和諧社会」というスローガンを掲げており、理念としては市場メカニズムを活用した経済発展を目指す一方で、富の再分配や弱者救済にも関心を持っていた。そのため、汪洋の政策は必ずしもその方向性と完全に一致するものではなかった。『人民日報』にも性急な産業構造改革を批判する記事が掲載され18、経済運営に責任を負う温家宝総理も中小企業の境遇について懸念を示していた19。それでも汪洋の政策は基本的に胡錦濤と温家宝の支持を受けることができた20
 実は、この「騰籠換鳥」政策は汪洋の専売特許ではない。そもそもこの言葉は以前から同様の意味で用いられており、広東で政策として採用される以前に、浙江省党委員会書記時代の習近平も『浙江日報』のコラム「之江新語」で「騰籠換鳥、鳳凰涅槃」という言葉を汪洋と同様の意味で用いて、その重要性を主張していた21。習近平は総書記就任後もこの考え方を依然として持ち続けているようで、2014年の全国人民代表大会開催中には、広東代表団の討論に参加し、「騰籠換鳥、鳳凰涅槃」に言及した22。その後も、この言葉は時折メディアに登場しており、習近平の経済政策を表す言葉の一つとなっている23。ここに汪洋と習近平の重要な政策的近似性を見てとることができる。
 汪洋の考え方を知るのに重要なもう一つの例は烏坎村事件である24。2011年、広東省の陸豊市烏坎村において、村の幹部が土地の売買で不正をはたらき、腐敗しているとして、村民による抗議活動が発生した。抗議活動は政府や警察との衝突に発展し、逮捕者や死傷者まで出た。ここまでは中国の様々な場所で発生している現象である。しかし、烏坎村の場合、省が介入し、村民の要求を受け入れた。抗議活動の中心人物を村の党委員会書記に任命し、村民委員会主任の再選挙の実施を認めたのである。省の党委員会の決定には当然書記である汪洋の意向が反映されている。汪洋はこの事件について、「村民の要求は合理的であり合法だ」、「選挙は法に基づき実施されており、何も新しいことではない」、「村レベルの組織の改革と末端の自治組織の改善は我々が進める人民に奉仕する理念だ。村の経験をくみ取るべきだ」などと述べて、村民に理解を示した25。市民の抗議活動を強硬的鎮圧によらずに平和的に解決したのは汪洋にとって一つの功績となった。ここに汪洋の民意を尊重する姿勢を見いだすことができる。ただ、それは汪洋が西側の自由民主主義を信奉していることを意味するわけではない。副総理となった後の汪洋は、中国の「制度的優越性」を強調して見せたり、西側は香港においてカラー革命を起こそうとしていると批判して見せたりもしている26。また、2016年、烏坎村の抗議活動の中心人物だった新しい党委員会書記が汚職の疑いで逮捕され、それに対する抗議活動も警察によって鎮圧されて、烏坎の試みは結局挫折した。すでに広東を離れて副総理となっていた汪洋がこの件について何らかの対応をした形跡は見当たらない。
 もう一つ、日本にとって重要な点として、新指導部の中で、汪洋は特に日中関係を重視してきた人物であることを挙げておくべきだろう。日中関係が厳しい局面にあった2012年の第18回党大会開催中、記者の質問に対して当時広東省党委員会書記だった汪洋は「日本政府が中日間の紛争に正しい対応を取れば、歴史的な友好をまだ期待できると信じている」と関係改善に期待を示し、鑑真や孫文などを引き合いに出して、「長く続く友情が民衆の間にあると信じている」と述べた27。副総理就任後は、対外経済貿易担当ということもあって汪洋は毎年のように日本からの使節団と会見したが、2013年、河野洋平日本国際貿易促進協会会長(元衆議院議長)との会談で「率直に言って、今日の中国の発展は、日本政府、日本企業の協力があったからこそだ」と述べたこともある28。日本に対する宥和的な態度が批判の対象になりやすい中国において、汪洋の一貫した日本重視の姿勢は貴重である。

今後の展望
 序列四位として政治局常務委員会入りした汪洋は、これまでの慣例に従って、今年の「両会」で中国人民政治協商会議(通称:政協)全国委員会の主席に就任する予定である29。なぜ汪洋がこの役職に選ばれたのかは不明である。政協主席は、名誉職的で実権が乏しいと言われることがあるが、改革マインドを持った汪洋の起用によって政協が活発化することへの期待も一部にはある30。役職如何は別にして、日常的に政策決定に関わる権限を持つ政治局常務委員という地位の重要性は否定できない。汪洋の今後の活動について、政協主席という実権に乏しい役職に束縛されて存在感を失って行くのか、党の最高指導部の一員として活躍を見せるのかはまだわからない。
 汪洋は習近平の人脈に属するとは言えないものの、過去5年間の副総理としての働きぶりを見ると、基本的には習近平に忠実に従っているし、政策的近似性もあり、対立関係にあるとは言えない。今のところ、今後も同様の関係が続くものと推測される。なお、次の2022年の党大会時、汪洋は67歳で、中国共産党の現在の定年に関する不文律に従うと、年齢的には政治局常務委員の留任も可能である31。とはいえ、実際にどのような処遇になるのか、現時点で予測することは困難である。



1 他に汪洋を紹介したものとしては、2012年の第18回党大会直前、『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された記事が参考になる。Andrew Jacobs “As China Awaits New Leadership, Liberals Look to a Provincial Party Chief,” New York Times, 5 November, 2012(URL: http://www.nytimes.com/2012/11/06/world/asia/liberals-in-china-look-to-guangdongs-party-chief.html 2018年2月15日閲覧)。
2 汪洋の公式経歴については、新華社のウェブページを参照(URL: http://www.xinhuanet.com/politics/leaders/2017-10/25/c_1121856310.htm 2018年2月6日閲覧)。
3 「五七幹部学校」とは、文化大革命の時期に、幹部の再教育のために設けられた施設である。「走資派」や「反動派」などとして批判された者たちを収容する役目も有していた。学校とはいうものの、実際には殆どの場合農場であり、肉体労働を通して思想改造をすることが目的であった。名前の由来となったのは、1968年5月7日に毛沢東が林彪に送った手紙である。この手紙に書かれたアイディアを元に、黒竜江省革命委員会が幹部再教育のための農場を作り、「五七幹部学校」と名付けた。それを毛沢東が評価し、全国に広がった。文革後、1979年に廃止された。韓鋼「“五七幹校”是個什麼学校」『中国共産党新聞』(URL: http://cpc.people.com.cn/GB/68742/114021/114023/7202932.html 2018年2月6日閲覧、『文匯読書週報』掲載記事の抄録)、霞飛「毛沢東為何要弁“五七幹校”」『中国共産党新聞』2009年5月26日(URL: http://dangshi.people.com.cn/GB/9363078.html 2018年2月6日閲覧、『文史博覧』より転載)。
4 習近平も同じ1993年に福建省の党委員会常務委員に昇進している。
5 国家発展計画委員会は経済計画策定の中心部門である国家計画委員会を前身とし、2003年に国家発展改革委員会に改組された。
6 「汪洋思想開放 鄧小平親見」『明報』2007年10月6日。
7 多くの主要メディアは汪洋を常務委員の有力候補として挙げていた。「胡主席 人選を主導 中国 次期指導部固まる」『日本経済新聞』2012年8月31日、峯村健司「習体制 人事暗闘なお 胡氏揺さぶる江氏、『院政』主導権で火花 中国党大会開幕」『朝日新聞』 2012年11月9日。
8 劉奇葆の経歴については、中国共産党のウェブページを参照。(URL: http://cpc.people.com.cn/GB/64242/6835171.html 2018年2月15日閲覧)。汪洋と劉奇葆は、1982年から1984年の間、共に共青団安徽省委員会にいた。公式経歴によると、両者とも1982年から1983年に共青団安徽省委員会宣伝部長を務めていたことになっている。本来部長は一名のはずで、なぜこのような記述になっているのかは不明である。なお、1983年に劉奇葆は共青団安徽省委員会書記に就任し、汪洋は副書記に就任した。このように、この期間、両者に業務上密接な交流があったことは間違いない。劉奇葆は第18回党大会後、政治局入りし、中央宣伝部長になったが、第19回党大会で政治局委員に留任できず、異例なことにヒラの中央委員に格下げとなった。
9 佐々木智弘も同様の見方を示している。佐々木智弘「習近平のリーダーシップと政権運営」(機動研究成果報告『中国 習近平政権の課題と展望―調和の次に来るもの』 千葉、アジア経済研究所、2013、2頁、URL: http://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2013_china_02.pdf 2018年2月6日閲覧)。第17回党大会以前、胡錦濤は自らの後継者として李克強を育て、温家宝は自らの後継者として汪洋を育てようとしていたという見方もある。高新「習近平高昇総書記破了汪洋的総理夢」『自由亜洲電台普通話』2016年7月5日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-07052016163653.html 2018年2月15日閲覧)。
10 一部では、汪洋が汪道涵(元上海市長、元海峡両岸関係協会会長)の甥だという説がある。例えば、遠藤誉「新チャイナ・セブンはマジック―絶妙な距離感」『ニューズウィーク日本版』2017年10月27日(URL: https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8767.php 2018年2月6日アクセス)。しかし、そう断定できる根拠は見当たらない。汪道涵は江沢民と関係が深いことで知られている。江沢民は第一機械工業部で長く汪道涵の部下として働いた経歴をもつ。汪道涵が1985年に上海市長を退任した際に、自らの後任として江沢民を推薦したと言われる。
11 例えば、「好対照 2書記の改革 中国指導部候補の地方リーダー」『朝日新聞』2011年11月25日、 “Rivals Celebrate in Competing Styles,” South China Morning Post, 1 July, 2011 (URL: http://www.scmp.com/article/972243/rivals-celebrate-competing-styles 2018年2月6日閲覧),“Outspoken Liberal Hero and Close Ally of President Hu,” South China Morning Post, 19 March, 2012 (URL: http://www.scmp.com/article/995927/outspoken-liberal-hero-and-close-ally-president-hu 2018年2月6日閲覧)など。また、香港の『明報』では孫嘉業が「中国評論」と題される連載コラムに度々汪洋対薄熙来という構図から記事を発表している。例えば、「幸福広東vs紅色重慶?」(2011年5月19日)、「汪洋與薄熙来唱反調」(2011年6月28日)、「汪洋vs薄熙来 伝媒未誤読」(2011年10月11日)、「新形勢下的薄汪之争」(2012年2月28日)など。
12 川瀬憲司「重慶市トップ薄氏解任 対抗勢力の有力者追い風」『日本経済新聞』2012年3月17日。
13 例えば、「太子党反撲 元老挫団派」『明報』2012年11月16日、「クローズアップ2012:習近平体制発足 攻防の末『二重の院政』 胡氏派vs江氏派、人事に影」『毎日新聞』2012年11月16日。佐藤賢「中国 次世代リーダー競争 経済実績と民意カギ」『日本経済新聞』2010年1月5日など。
14 在米華人の中国政治観察者高新によると、汪洋が農村における土地の私有化を主張していたという情報があるという。また、汪洋が安徽省にいた時、副総理になった万里に接見し、農村土地の私有化に関する意見を述べたところ、称賛を受けながらも時期尚早だと言われたという情報もある。高新「汪洋的耕地私有化設想終成泡影」『自由亜洲電台普通話』2016年7月7日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-07072016115346.html 2018年2月21日閲覧)。
15 記事の内容は、「聚焦十九大政治明星:改革派汪洋的仕途」『多維新聞』2017年9月3日(URL: http://news.dwnews.com/china/news/2017-09-30/60015719_all.html 2018年2月15日閲覧)を参照した。
16 「汪洋思想開放 鄧小平親見」『明報』2007年10月6日。
17 「汪洋:広東不救落後生産力」『明報』2008年11月15日、吉田渉「広東省、成長戦略を転換 労働集約型からハイテクに」『日本経済新聞』2009年10月30日。一方、薄熙来が重慶で行ったのは、政府が手厚く福利厚生を提供し、弱者に対する支援を保証するという政策であった。なお、鳥と籠という言葉からは、1980年代に鄧小平に次ぐ地位にあった実力者陳雲が唱えた鳥籠経済論が連想されうる。鳥籠経済論は、経済を自由にすると、鳥が飛んで行ってしまうように統制が取れなくなるため、計画という籠に入れて管理すべきだとして、計画経済の重要性と必要性を強調する考え方である。市場メカニズムによる産業構造の転換と高度化を意味する騰籠換鳥とは似た言葉ではあるが、全く異なる意味を持つ概念であることに留意されたい。
18 崔鵬「拡大就業須善待中小企業」『人民日報』2008年12月25日。記事は「一部の地方では、『騰籠換鳥』の過程で焦りを見せてしまったため、中小企業の生存空間はひどく縮小している。国際金融危機もあいまって、中小企業の境遇は更に厳しさを増している」としている。名指しは避けているものの、明らかに広東に向けたとわかる形で批判を展開している。
19 呉康民「温総為什麼要『責令広東』?」『明報』2008年11月20日、潘小濤「広東為什麼要跟中央対着幹?」『明報』2009年1月13日。
20 「胡錦濤撐汪洋:危機帯来転型機遇」『明報』2009年3月8日。温家宝も度々広東を視察し、汪洋に対する支持と激励を示し続けた。孫嘉業「考察為名 挺粤為實」『明報』2009年4月22日、「北戴河会議後赴広東考察 温家宝力挺汪洋十八大入常」『聯合早報』2012年8月28日(URL: http://www.zaobao.com.sg/special/report/politic/cnpol/story20120828-117830 2018年2月8日閲覧)。一方で対照的に、薄熙来着任後、温家宝の重慶視察は2008年12月の一度のみで、胡錦濤は一度も重慶を視察しなかった。「薄熙来治渝 唯一未考察重慶的常委」『多維新聞』2016年1月5日(URL: http://culture.dwnews.com/history/news/2016-01-05/59708244.html 2018年2月20日閲覧)。
21 習近平「従“両隻鳥”看結構調整(2006年3月20日)」『之江新語』杭州、浙江人民出版社、2007、184-185頁。「鳳凰涅槃」とは、不死鳥が滅びることなく灰の中から何度も生まれ変わることを表現した言葉である。経済政策としては、籠の中から出した古い鳥、即ち古い産業を不死鳥が如く再活性化させることを目指すことを意味する。なお、習近平はその後2007年春に上海に異動になったため、実際に政策としては実行されなかった。
22 葉小文「騰籠換鳥、鳳凰涅槃」『人民日報』2015年08月31日(URL: http://opinion.people.com.cn/n/2015/0831/c1003-27532547.html 2018年2月16日閲覧)。習近平のこの行動には、広東での汪洋の政策に対する肯定を含んでいると考えるのが自然であろう。
23 霍小光「習近平“両隻鳥論”的四個関鍵詞」『参考消息』2015年8月21日(URL: http://www.cankaoxiaoxi.com/china/20150821/913239.shtml 2018年2月16日閲覧、『新華網』より転載)、「蔡奇:囲繞発展定位 持続抓好騰籠換鳥」『新華網』2018年2月4日(URL: http://www.bj.xinhuanet.com/bjzw/2018-02/04/c_1122365992.htm 2018年2月16日閲覧、『北京日報』より転載)、「汪洋改革政策獲習近平肯定 蔡奇力挺北京“騰籠換鳥”」『多維新聞』2018年2月5日(URL: http://news.dwnews.com/china/news/2018-02-05/60039200.html 2018年2月16日閲覧)などを参照。
24 烏坎村事件の経緯については、唐亮『現代中国の政治 「開発独裁」とそのゆくえ』東京、岩波書店、2012、119-120頁、林望「自治争議の長、党書記に 中国・広東 『村に学べ』拡大」『朝日新聞』2012年1月17日などを参照。
25 「中国:広東省トップ、村民自主選挙に理解 『要求は合法』」『毎日新聞』2012年3月6日。
26 「汪洋:西方憂中国制度挑戦」『明報』2013年3月9日、「汪洋:西方図在港搞顔色革命」『明報』2014年10月14日。
27 「中国:第18回共産党大会 日中改善に期待 汪洋氏」『毎日新聞』2012年11月10日。
28 「汪洋感謝日本経済援助」『明報』2013年4月18日。なお、このコメントは中国側の公式の発表には掲載されていない。「汪洋在中南海会見日本国際貿易促進協会訪華団」『中国政府網』2013年4月17日(URL: http://www.gov.cn/ldhd/2013-04/17/content_2380339.htm 2018年2月15日閲覧)。
29 両会とは、全国人民代表大会と政治協商会議全国委員会のことである。毎年春の同じ時期に開催されるため、まとめて両会と呼称される。2018年1月24日に次期政協全国委員会の名簿が公開され、政治局常務委員からは汪洋のみが選出されたことから、この役職分担が明示された(URL: http://www.xinhuanet.com/politics/2018-01/25/c_1122310655.htm 2018年2月6日閲覧)。なお、政協は、中国共産党と諸民主党派(事実上の衛星政党)、各民族、宗教界、芸術界、学術界など各方面の代表者が意見交換し、政治にそれを反映させることを理念とする政治諮問機関である。いわゆる統一戦線工作の中核的な機構であるが、実権はない。
30 例えば、「打破“清議機構”形象 改革派汪洋会重塑政協嗎」『多維新聞』2018年1月27日(URL: http://news.dwnews.com/china/news/2018-01-26/60037608.html 2018年2月6日閲覧)。
31 中国共産党には、政治局常務委員及び政治局委員を含めた中央委員について「七上八下」と呼ばれる、67歳は留任可、68歳は退任という定年に関する不文律が存在すると言われている。