この『戦略アウトルック2025』は、日米をはじめとする数十カ国の民主主義国で国政選挙が行われた2024年を振り返りつつ、前年にも増して多事多難に見舞われるであろう2025年を展望するものである。そして2025年1月に当研究所が主催する第6回東京グローバル・ダイアログ(TGD6)で扱う諸テーマを、各研究員の視点で活写し、「考える材料(food for thought)」を供することを目的の一つとしている。
当研究所は、TGD6のタイトルを「グローバル・レジリエンスへの挑戦」(A Quest for Global Resilience)と定めた。これには、ポスト冷戦期の世界が有していたレジリエンス(耐久力、復元力)が失われつつあるとの危機感とともに、国際社会がレジリエントであったことの受益者であった日本は、その復活・復旧に努めなければならないという強いメッセージが込められている。
では、その国際社会のレジリエンスの低下は何によってもたらされているのか。今後一層不確かとなるであろう将来を展望する前に、過去30年余のポスト冷戦期の間、国際社会の安定を支えていた諸点がどのように動揺しているのかを考えてみたい。
第1は、言うまでもなく米国政治の変調である。当研究所は、第2期トランプ政権の誕生を、トランプ氏本人による関税賦課宣言や煽情的な選挙キャンペーン・ナラティブをとらまえて、ポピュリズム台頭を警戒せよなどとして警鐘を鳴らす立場に立つものではない。しかしながら第2次世界大戦以降、軍事力を通じて地域紛争の抑止を図り、基軸通貨・ドルを通じて経済的な安定を追求し、そして大統領の政治的リーダーシップによって諸国民が繁栄を享受できるように努めてきた当の米国が、自由主義陣営のマネジメントの任から離れようとしていることは、国際秩序を動揺させずにはおかない。2013年にオバマ大統領(当時)が、シリア危機に際して米国は世界の警察官ではないと述べてから10年以上が経過し、第2期トランプ政権ではさらに米国の自国優先的主張が外交路線に反映されていくことになる。
バイデン政権下ではウクライナ戦争をはじめさまざまな紛争が勃発したが、そうした中、同政権は、地域及び案件に応じて格子状(lattice)ネットワークを構築または駆使し、主要なステークホルダーとの連携を通じて一定の安定を図った点は想起されるべきである。トランプ氏も、「自由で開かれたインド太平洋」の理念に共感し、Quadを通じたインド太平洋地域の安定勢力との連携を強化した第1期政権時の実績がある。中国との戦略的競争に注力する米国にとっても日米同盟強化は不可欠な選択肢であるが、ただそれだけで地域の安定が図れるわけではない。このネットワーク構築の成功体験を基盤に、(安易な「前政権の全否定(Anything but Biden)」に堕すことなく)日本がミニラテラルに米国に関与させ、先導役を果たしていくことが必要である。
第2は、グローバル・ガナバンスの著しい劣化であって、その顕著な例は国連安全保障理事会の機能低下である。冷戦終焉からほどなく、本来の機能を発揮し始めた安保理に、常任理事国として入ることを目指した日独などのイニシアティブは、既存の常任理事国に「壊れていないものを直すべきでない(If it ain't broke, don't fix it)」として排斥された。しかし、現在の安保理は露中とP3(米英仏)の対立が先鋭化し、有効な制裁の発動すら行えない状況にある。ましてや、その一角のロシアは、憲章違反の侵略戦争の当事者である。北朝鮮による国際法違反の活動も、ロシアや中国の拒否権発動により、今後より一層安保理の制裁や非難の対象となりにくくなる事態が懸念される。国際貿易に関する法秩序も底が抜けたままであって、米国の世界貿易機関(WTO)上級委員会委員の任命拒否により、同委員会は委員不在の状況が続いている。そんな中、5カ国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)で始まったBRICSは拡大傾向にあり、さながら非西側諸国の陣営化の様相を呈しつつある。
日本は、国連安保理やWTOに代表されるグローバル・アーキテクチャや「国際社会における法の支配」による恩恵を受けた国の一つとして、その立て直しに注力すべきである。そのためには、同様にグローバル・ガバナンスの意思を尊重する立場にある国々との連携が不可欠だ。まずは先進国として課題解決に向けた意思を同じくするG7の枠組みを活用して、先進国側の課題解決のための処方箋を示し、いわゆるグローバル・サウスと呼ばれる新興国・途上国に示して議論を喚起することの重要性を強調したい。本アウトルック所収の章(石井正文「日本の針路:チャレンジ・シェアリング元年と国家戦略元年」)にもG7の規範制定力を落とさずに新興国・途上国の主張を反映させる工夫が論じられているが、こうした取り組みを各G7議長国が継続していくことが求められよう。トランプ政権が第1期の時のように米国第一主義のみを優先させる場合は、グローバル・ガバナンスの維持のため、同志国等と粘り強く努力を続ける覚悟が必要だ。
最後に、情報の氾濫が国際情勢と民主主義や自由・人権といった普遍的価値に与える甚大な影響である。これまでマスメディアは、膨大な情報から、有意な情報を選択し、それを提示して見せる「キュレーター」としての機能を概ね独占していた。しかし、インターネットの発達とSNSの出現により、状況は一変した。メディアが行う「キュレーション」と異なる独自のフレーミングを行って発信するアクターが無数に現れ、また、その一部は極めて多くのオーディエンスを獲得するに至った。飛び交う情報の正誤の判定が益々困難な時代に突入した。生成AIの発達は、この傾向を一層加速させていく。このような混沌とした言論空間は、政治不信、社会の分断を招こうとする勢力やポピュリスト勢力にとっては極めて好都合であって、他の主権国家による容喙のリスクが増大している。国際情勢の波乱は言論空間のさまざまなアクターたちによって増幅されていくことになろうが、一国が拠って立つ基本的価値観を揺さぶろうとする試みに対しては、社会全体で毅然と立ち向かう姿勢が必要である。
アメリカ第一主義路線で変化する超大国・米国の「国のかたち」、グローバル・ガバナンスの枠組みの動揺、そして「情報」の正誤判定が益々困難となることで混乱が深まる言論空間――。この言わば「トリレンマ」に向き合い、紛争が頻発する国際社会において日本は有効な解を提示することができるか。TGD6が、国際的に活躍する第一級の有識者のさまざまな実際的なアイデアに多くの実務家が共鳴して、こうした問題の解決に向けた有益な議論がなされる場になることを切に望む。
(脱稿日2024年11月28日)