「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。
2022年2月に勃発したロシア連邦によるウクライナ侵略が停戦の糸口を見いだせないまま長期化の一途を辿っている中、その侵略初期から関与をしていたロシアの民間軍事会社ワグネル・グループ(以下、ワグネルと記す)の創設者であるエフゲニー・プリゴジンが2023年6月24日、ワグネルの一部部隊を率いて武装反乱を開始、モスクワへの進攻を試みるという極めて深刻な事態が発生した。反乱部隊はロシア南部の主要都市であるロストフ・ナ・ドヌーおよび同地に駐屯していた国防省施設を掌握、モスクワに向けて北上を続けたものの、ウラジーミル・プーチン大統領による裏切り者は処罰するとの声明に基づくロシア政府の対応や、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領による仲介などを受けて、翌25日に撤退を表明。これにより首都モスクワでの武力衝突という最悪のシナリオは回避することは出来たものの、わずか1日の反乱劇が与えた波紋は依然としてロシア国内外へ広がり続けている。
本稿では、この「プリゴジンの乱」の顛末とその動機について、ワグネルの誕生と発展、ウクライナ侵略を巡る盛衰に焦点を当てて分析するものである。その上で、この一連の出来事が今次侵略を継続させ、2024年に大統領選挙を控えるプーチン大統領へいかなる影響を与えるかについて若干の考察を行う。
1.ワグネルの起源
ワグネルは2014年、それまで香港に拠点を置いていた「スラブ軍団」と呼ばれる民間軍事会社の構成員であったロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の退役中佐であるドミトリー・ウトキンらによって設立された。ただ、その設立に際しては新興財閥(オリガルヒ)の1人であり、プーチンとの信頼関係を基に外食・ケータリング事業で成功を収めたプリゴジンが深く関与をしており、事実上の創設者であると考えられていた1。
以上の背景から、ワグネルは設立段階よりロシア連邦軍及び所管省庁である国防省、そしてプーチン政権との強力な関係性を有しており、それゆえに元来民間軍事会社は違法であるはずのロシアに於いて半ば公然とした活動が可能になったのである。
ワグネルは設立後すぐ、同年に勃発したロシアによるクリミア併合、及びこれに続くウクライナ東部での戦闘に参加、その後は中東やアフリカ諸国に於いてプーチン政権・ロシア連邦軍の非公式な代理人として戦闘への参加や現地武装勢力の支援に携わるなど2、地域も任務も多岐にわたり、勢力を拡大した。
とりわけアサド政権支援を名目としたシリアでの武力介入や、アフリカ諸国に於ける軍事顧問的活動などは、プーチン政権が推し進める対外戦略を非公式な側面から下支えすることとなった。これに加えて、シリアでの活動を通して当時ロシア連邦軍の現地司令官を務めていたセルゲイ・スロヴィキンとの知己を得たと言われ、アフリカ諸国での活動は鉱物資源などの権益確保を通したワグネル独自の財源と行動力をもたらすこととなった3。
2.ウクライナ侵略とワグネルの盛衰
設立以後数々の戦場にて活動をしてきたワグネルは、とりわけ都市での戦闘に於ける実戦経験の豊富さ、正規軍ではないがゆえの非人道的行為を行うことを厭わない姿勢から、ウクライナ侵略にあたっても多くの戦線に投入された。当初は正規軍たるロシア連邦軍の補完勢力として戦線の拡大に寄与してきたが、侵略が長期化し、ロシア連邦軍の兵力が低下するにつれ、ワグネルの能力に依存をする形で特に困難な戦局へ積極的に投入されるようになる。
この依存体制は戦闘地域の一部で民間軍事会社であるはずのワグネルとロシア連邦軍とが主導権を巡って衝突する、あるいはワグネルがロシア連邦軍を指揮・統率するという極めて異様な事態を生むこととなった。このことは結果としてワグネル、ひいてはプリゴジンの影響力拡大を招き、同時にワグネル・プリゴジンとロシア連邦軍・国防省間での確執を生じさせる要因となった。
両者の確執は、侵略初期からの激戦地の1つであったバハムトを巡る攻防戦の経過に伴い表面化することとなった。
2023年に入り、プーチン大統領は国内の継戦意識の持続や政権への支持強化をもくろみ、国民的な愛国記念日である5月9日の対独戦勝記念日までにバハムトを制圧することを強く意識するようになり、記念日が近づくにつれロシア連邦軍とワグネルは激しい攻勢を展開した。攻勢が続くにつれ、プリゴジンは度々自身やワグネルのSNSでロシア連邦軍・国防省からの支援と補給が滞っているとの理由から当地からの撤退を示唆するようになり、5月にはセルゲイ・ショイグ国防相や対ウクライナ作戦の総司令官であるワレリー・ゲラシモフ参謀総長を激しく糾弾、ワグネルは記念日の翌日にはバハムトからの撤退することを表明する動画を公開するなど4、ロシア連邦軍・国防省への不満を公然と示すようになった。
その後、プリゴジンはロシア政府がこの一連の行動に反応する形でワグネルへの補給を再開し、2023年1月に総司令官を更迭されていたワグネルのいわば「後見人」であるスロヴィキンを国防省との仲介役とする旨を約束したと主張し5撤退を取り下げ、ワグネルはその後も戦線にとどまり続け5月下旬にはバハムトの制圧を一方的に発表した6。このことでかねてからの不満は一旦鎮静したかに思えたが、プリゴジンは引き続きSNSにて連日ロシア連邦軍や国防省、とりわけショイグとゲラシモフを批判する声明を相次いで発表するようになる。
プリゴジンからの度重なる批判が続くなか、6月に国防省はワグネルを含む対ウクライナ作戦に参加しているすべての非正規武装組織に対し7月1日までに国防省と契約し、その統制下となるよう命令を発表した7。プリゴジンは即座にこれを拒否、ショイグ国防相の方針を非難したものの8、プーチン大統領が国防省の方針への支持を表明した9ことで急速にプリゴジンとワグネルの立場は悪化、ロシア連邦軍・国防省との確執についても修復不可能ともいえる状態に陥ることとなってしまった。
3.反乱の顛末とその動機
前節で述べてきた通り、バハムトを巡る攻防を境として急速にその立場が悪化したプリゴジンは、現状を打破するための窮余の一策として実力行使、すなわち武装反乱に踏み切ることとなった。
6月23日に自身のSNSで今侵略は国防省上層部が大統領と国民を欺いて始めたものであるとし、これまでプーチン政権が言及してきたウクライナの非ナチ化・非武装化という侵略の正当性を否定するとともに、ショイグ国防相をはじめ国防省上層部を打倒するための「正義の行進」を行うとして武装反乱を宣言した10。
ロシア連邦保安庁(FSB)はこれを即座に反逆行為であるとし捜査を開始した11ものの、24日にプリゴジンはワグネルの一部部隊とともにロシア国内への進攻を開始した。
反乱部隊はロストフ・ナ・ドヌーと同地に所在するロシア連邦軍南部軍管区司令部を無血のまま掌握、同地の兵力を武装解除すると、軍や治安維持機関の抵抗も受けずにそのままモスクワへ向けて北上、道中ではロシア連邦軍のヘリコプター等を撃破し複数名のロシア連邦軍将兵を殺害させた12との情報が出るなど事態は徐々に深刻化していった。
プーチン大統領はビデオ演説でこの武装反乱について政権転覆を狙った「裏切り」であると表明13、反乱を鎮圧すべくロシア国家対テロ委員会の招集・捜査の開始14などを指示したものの、反乱部隊はなおもモスクワを目指し北上を続けた。
事態解決の糸口が見えないまま、ワグネルがモスクワに到達し現地の治安維持部隊・軍との戦闘に突入し混乱が拡大するのではないかという懸念がロシア国内外に広まる中、翌25日にプーチン大統領からの要請を受けた、プリゴジンとも親交のあったルカシェンコ大統領が両者の仲介役となり事態の打開を模索し始めた。
幾度かの交渉の結果、反乱部隊はモスクワへの進攻を停止、ワグネルの本拠地へ撤退をすることとなった。プーチン政権はプリゴジンとワグネルに対する捜査をとりやめ、反乱部隊に対する法的責任は問わない旨を発表したが、他方でプリゴジン自身はベラルーシへ出国させ、今後は同国にて活動を継続させることも併せて発表された15。
プリゴジンはなぜ武装反乱という強引な手段を選択したのか。その動機は大きく2つの点に集約できると考えられる。
第一の、かつ最大の動機として、ワグネルを国防省の統制下に移管させる命令の撤回を引き出そうとしたという点である。
前節で示した通り、非正規武装組織の国防省との契約はワグネルが有してきた独立性を喪失させ、同時にこれまで確執を深めていたロシア連邦軍・国防省の統制下に移管されることを意味していた。この方針にプリゴジンは反発、国防省側も契約を拒否した場合はワグネルへの支援を打ち切り、対ウクライナ作戦に参加させないと通告16するなど、何ら妥協を見せないまま期限を迎えようとしていた。それゆえに、バハムトを巡る攻防の際に成功した、ある種強烈な反応を示すことで譲歩を引き出すという手段を用い、武装反乱を通して国防省が契約について譲歩することを期待していたのではないかということである。
第二に、とりわけショイグ国防相との関係を念頭に置き、プリゴジンが自身の政治的影響力の維持・拡大を図ろうとしたという点である。侵略初期から戦線の一端を担い、バハムトの制圧にも多大な貢献をしたワグネルはロシア国内でも耳目を集めており、同時にプリゴジンもまた、彼の過激な言動やロシア国内のエリート層を批判する姿勢からとりわけ極右政治家やその支持者からの人気を得ていた。また、既に述べた通り、プリゴジンが自身の影響力を拡大し、軍務や軍事に関する経験がないのにも関わらずワグネルを率いる所以となったのはプーチン大統領からの信頼関係を基礎としたものであった。
他方、プリゴジンが度々批判をしていたショイグ国防相もまた、軍務の経験がないものの、長年国家の非常事態や自然災害などへの対応を担う非常事態省を率いたことでロシア国民とプーチン大統領の強い信頼を得、2012年に国防相へ抜擢された経緯を有している。プリゴジンとしては自身とワグネルの戦果を背景とし、反乱を通じて現在の立場に至った経緯やロシア国民やプーチン大統領からの信頼という意味で似通った点の少なくないショイグ国防相の政治的影響力を減退あるいは現在の立場から追放させると同時に、自らの存在感を国内で発揮し政治的影響力を維持ないし向上させることも目的としていたのではないか。
4.「プリゴジンの乱」が与える影響
前節の通り、「プリゴジンの乱」はモスクワ市内での戦闘や、反乱部隊による政治機能の簒奪といった最悪の事態は避けることはできた。
ワグネルの人員・装備は今後国防省・ロシア連邦軍の統制下に移管、もしくはベラルーシへ拠点を移すこととなり、従来のロシアに於ける独立した組織としてのワグネルは終焉を迎えることとなろう。
プリゴジンは当初ベラルーシへ事実上追放されたと思われていたが、乱の数日後にプーチン大統領と会談したことを大統領府が認め17、また、ルカシェンコ大統領がプリゴジンはロシア国内に未だ潜伏していると言及する18など、その去就には不透明な点もある。
その一方でショイグ国防相やゲラシモフ参謀総長はそれぞれのポストへ留任、スロヴィキンは一連の反乱に関与したとして身柄を拘束されたとの情報が散見される19など、一義的にはプリゴジンは反乱に失敗し、自身が強い影響力を及ぼす独立した組織としてのワグネル、プーチンからの信頼、スロヴィキンという国防省内部の後ろ盾などすべてを失うこととなった。
しかしながら、ロストフ・ナ・ダヌーから撤退する際に多くの市民がプリゴジンやワグネルに好意的な反応を示しつつ見送る様子が報道される20など、乱を経てロシア国内で自らの存在感を一定程度高めることに成功したと思われる。今後も一部の過激な集団あるいはそれに留まらない一定数の国民からの支持を基盤とした政治的影響力を背景として、プーチン政権への潜在的な脅威を与えることができるであろう。
一方、プーチン大統領やロシア連邦軍・国防省にとって、今後を含め今回の乱から受ける影響は深刻であると考えられる。
ウクライナ侵略を今後も継続するためには戦力としてのワグネルを欠かすことはできず、それゆえにプーチン大統領は首都へ向かい進攻、ロシア連邦軍へ攻撃・死傷者を出させた「裏切り者」を鎮圧することも、法に基づく処分をすることも出来なかった。さらに、自らがモスクワにとどまって治安の維持を指揮・国民を直接鼓舞する姿を見せることなく、最終的にルカシェンコという他国の第三者の手を借りる形で反乱を収めたことは、大統領就任以後自身が作り上げてきた強い大統領という国民からのイメージを根底から揺るがすものであった。今次侵略の勃発に際してウクライナのゼレンスキー大統領がキエフにとどまりSNSを通して国民を鼓舞した姿とは対照的である。
ワグネルへ厳しい処分を下さなかったことは、プーチン大統領の権力基盤の1つでもあるロシア連邦軍からの強い支持にも影響を与えることとなるであろう。ソビエト連邦の崩壊後、ロシア連邦軍は1990年代を通して予算面でも組織面でも困窮を極めていた。プーチン政権は発足後軍事予算の増額や軍改革を通してこれらの問題を段階的に解決、同時に国民への愛国主義的政策を実施したことでその地位の復権に寄与した。その結果、プーチン大統領はロシア連邦軍からの強い支持を得、これを利用することで強固な政治的基盤を構築してきた。武装反乱を引き起こし、将兵を殺害したワグネルにプーチン大統領が厳罰を与えなかった姿勢は、ロシア連邦軍の大統領への忠誠心の低下をもたらしかねず、このことは2024年に大統領選挙を控えるプーチン大統領にとって自身の政治的基盤を揺るがす事態を招きかねないであろうと思われる。
反乱部隊がほとんど抵抗を受けることなくモスクワのすぐ近くまで侵攻出来たという事は、軍・国防省あるいは治安維持組織に「裏切り者」であるワグネルへ同調している勢力が存在し、これら組織に対する国家の統制が一部機能不全に陥っているのではないかという懸念を浮き彫りにした。とりわけ国防省内部では、ウクライナ侵略開始以来ショイグ国防相やゲラシモフ参謀総長などを中心とする主流派とスロヴィキンなどの非主流派との間で権力闘争が発生していると言われており、この反乱に際してスロヴィキンなど非主流派勢力が反乱部隊を支援していた可能性も考えられる。
また、乱の後にプーチン大統領自らプリゴジン及びワグネルの幹部と会談したことを含め、反乱部隊への処遇は、現状打破のために武装反乱を起こしても厳罰に処されることはないという認識をこれら組織に与えかねず、今後組織内部での権力闘争が実力行使へと発展するというリスクを高めるであろう。
わずか1日の「プリゴジンの乱」は、大統領選挙を2024年に控えるプーチン大統領の権力基盤や、その源泉の1つでもあるロシア連邦軍・国防省との関係など多岐に渡る側面に深刻な禍根を残し、その余波は今後も収束しないまま短期的にも長期的にもプーチン政権下のロシア連邦に更なる混乱をもたらす原因となりかねないであろう。
1 当初プリゴジンはワグネルへの関与を否定していたものの、2022年になりワグネルの創設者であることを公表した。https://www.afpbb.com/articles/-/3425723
2 廣瀬陽子「ロシアの対アフリカ政策」『国際問題』707号(2022)39-48頁
12 ロシア連邦軍の被害について、当初は報道等で情報が錯綜していたが、26日のプーチン大統領の演説にて複数の航空機操縦士が殉職したことが言及されている。http://kremlin.ru/events/president/news/71528