「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。
2023年3月31日、包括的・先進的環太平洋パートナーシップ(CPTPP)の閣僚会合においてイギリスのCPTPPへの新規加入が承認された。7月に協定への署名を行うことを目指し、その後、各国国内での批准手続きを経て発効することになる。CPTPPが2018年に発効して以来、原参加国11か国以外(ブルネイを除き10か国が批准済)で新規加入が認められるのはイギリスが初めとなり、世界第5位の経済規模を持つイギリスの加入によってCPTPP参加国の世界に占めるGDPの割合は15%に拡大する。
CPTPPの戦略性
TPPは経済面だけではなく戦略面で重要であることは何度も指摘されてきた。その戦略面の重要性の一つが「ルールメイキング」である。最終的には離脱することになったが、元々TPPを主導したのは米国であり、オバマ政権で対アジア経済政策を担当したマシュー・グッドマン氏はTPPの狙いを「戦略経済(strategic economic)」と呼び、米国が重視する国有企業、デジタル、労働等の分野でルールや規範を形成することであり、中国に対抗するための強力なツールになるはずであったと述べている1。米国離脱後、日本が主導したCPTPPにもルールメイキングの重要性は残っており、発足時より、参加国を拡大していくことでCPTPPの高い水準のルールを拡げていくことを目標としていた。また、アジア太平洋経済協力(APEC)においてアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の構築に至る道筋としてTPPと地域的な包括的経済連携(RCEP)が位置付けられている。CPTPPでは、APEC加盟エコノミーと他の国または独立関税地域の新規加入を歓迎する旨がうたわれており、既存の締約国との間で合意する条件に従って加入することができると定められている。
EU離脱後のイギリスの通商戦略
イギリスはEU離脱を決めた後、独自の外交政策を追求するとして「グローバル・ブリテン」と称する総合外交政策を策定している。その方針として、ヨーロッパを超えて他地域への関与を強化するとし、特にインド太平洋においては互恵的な貿易、安全保障と価値の共有を通じて欧州のパートナーとして最も広く統合的なプレゼンスの確保を目指すとしている2。通商に関しては、EUとは異なるより良い通商政策を自由に追求できるとし、即応性とスピードを重視すると打ち出し、2022年末までに英国の貿易の80%を占める国・地域と貿易協定を結ぶことを公約として掲げている3。その背景として、EUが結ぶ貿易協定を代替する新しい協定を締結する必要があることと、EU離脱およびコロナパンデミックの経済的な負の影響を緩和する狙いがあることが挙げられる。実際に、EU離脱をした2021年1月以降、イギリスはスピード感をもって通商交渉に力を注いでいる。EUとの貿易協力協定(TCA)、EU離脱に伴い失効する貿易協定を可能な限り同じ内容で引継ぐ協定の他に、日英包括的経済連携協定(日英CEPA)、英・シンガポールデジタル協定、英・ノルウェー・アイスランド・リヒテンシュタイン自由貿易協定を含め、現在までに70の発効済の新たな貿易協定を結んでいる。その他、オーストラリア、ニュージーランド、ウクライナ(デジタル協定)、東南アフリカとの貿易協定の署名を完了させている(未発効)4。また、米国、インド、中東などとの貿易協定の交渉を進めている5。
イギリスはCPTPPにはEU離脱後まもなくの2021年2月に正式に加入申請を行い、同年6月に加入手続きを開始して2年弱の交渉期間を経て大筋合意に至った。イギリスはCPTPP11か国との間では、ブルネイとマレーシアを除いて、9か国と二国間の貿易協定を結んでいる(図1)。但し、その中にはEUの貿易協定を引継ぐ、いわば暫定的な協定も含まれている。日本、シンガポールとの間では新しい貿易協定が締結されているが、カナダ、メキシコとの間では交渉中であり、チリ、ペルー、ベトナムとの間では引継ぎ協定が適用されている。こうした国々とCPTPPを通じて一括で高水準の貿易協定を結べることは、イギリスの通商交渉の加速に資するものだといえる。また、CPTPPは二国間貿易協定とは違い、複数国が参加する広域貿易協定であるので複数国を跨ぐサプライチェーンが統一ルールの下につながるという大きな利点もある。イギリス政府はCPTPP加入のメリットについて、成長著しいインド太平洋へのゲートウェイであること、世界第二位のサービス輸出国であるイギリスにとって新しいサービス市場の開拓につながること、データの自由な流通を促進すること、高い水準の自由化によって貿易投資を促進すること、広域をカバーする協定によってサプライチェーンの多角化が図れること、マレーシアとの初の貿易協定になること、CPTPPを通じて不公正な貿易や経済的威圧に対抗することで経済安全保障を強化できることなどを挙げている6。また、イギリスはCPTPPの発展に貢献することへの強い意欲を示している。CPTPPの参加国の拡大は、より大きな経済的利益を生むことになり、さらにCPTPPメンバーとして意思決定に加わることで自国の影響力を増すことができると述べている7。新規加入にあたっては、イギリスが通過した厳格な審査過程と同じでなければならず、申請国がCPTPPのルールを遵守できるか、十分な市場開放をできるかに加えて、既存の貿易協定において法令遵守しているかを重視するとしている8。
図1 CPTPP11か国のイギリスとEUとの貿易協定
イギリス |
EU |
|
オーストラリア |
〇(署名済、未発効) |
(交渉中) |
ブルネイ |
||
カナダ |
〇(新FTAを交渉中) |
〇 |
チリ |
〇 |
〇 |
日本 |
〇(日英CEPAを締結) |
〇 |
マレーシア |
(交渉中断中) |
|
メキシコ |
〇(新FTAを交渉中) |
〇 |
ペルー |
〇 |
〇 |
ニュージーランド |
〇(署名済、未発効) |
(交渉妥結) |
シンガポール |
〇(デジタル協定を締結) |
〇 |
ベトナム |
〇 |
〇 |
出所:GOV.UK、European Commissionに基づき筆者作成。
CPTPPの経済効果
イギリス政府によるCPTPP加入の経済効果の試算によると、CPTPPはイギリスのGDPを0.08%押し上げる効果があると示されている(図2)9。産業別には、自動車と飲料・たばこが最も拡大するとされる10。イギリス加入の他のCPTPP参加国への影響は、マレーシアの経済効果が最も大きく、日本への経済効果はほぼないとされる11。ただし、この試算では日本を含め既に二国間の貿易協定を結んでいる国または未発効のオーストラリアとニュージーランドとの貿易協定の関税及び非関税の削減効果を除外しているため、実質的な削減効果は初めて貿易協定が締結されるマレーシアとCPTPPによる貿易障壁の削減幅が既存の貿易協定と比較して大きいチリ、メキシコ、ペルーの効果が大きな部分を占めている。つまり、試算はCPTPPによる上積みの効果のみを測定しているため「謙虚」な数字となっているが、イギリスにとってCPTPP11か国が全体の貿易の8%を占める重要な貿易パートナーであることは見落としてはいけない。既存の貿易協定を締結している国の企業にとっては、CPTPPが発効すれば、既存の貿易協定かCPTPPかどちらか使いやすい方を選ぶといった選択肢が増えることになる。また、この試算ではCPTPP拡大シナリオとして、タイと韓国が参加した場合のCPTPP13の試算も行っており、CPTPP11の3倍となる0.25%のGDPの押し上げ効果があると示されている。さらに、イギリスと米国が交渉中の貿易協定の削減効果をベースラインとして加味しないで米国が新たにCPTPPに加わったとした場合のCPTPP14のシナリオでは0.92%のGDPの押し上げ効果があるとされる12。このことから、将来的にイギリスがまだ貿易協定を結んでいないタイ、さらにインドネシアやフィリピンといった東南アジア諸国等、そして現時点では可能性は非常に少ないがイギリスにとって最大の貿易相手国である米国がCPTPPに参加した場合に大きい経済効果が期待できるといえる。イギリスのCPTPP加入の経済効果は限定的であると見る向きもあるが、試算結果の額面だけを見てそのように結論づけてしまうと、過少評価になってしまうだろう。
図2 CPTPPの経済効果の試算
変化率(%) |
CPTPP11 |
CPTPP13(+タイ、韓国) |
GDP |
0.08% |
0.25% |
輸出(英国からCPTPP国) |
2.98% |
4.36% |
輸入(CPTPP国から英国) |
2.96% |
7.16% |
出所:Department for International Trade of the U.K. (2021)。
貿易投資の自由化以外にも、経済モデルの試算で数値化しづらいメリットも存在する。例えば、CPTPPの電子商取引では自由なデータ流通に関する先進的な規律13が盛り込まれており、IT企業や半導体・ソフトウェア企業のビジネス環境の向上に資する。政府調達ではWTOの政府調達協定(GPA)の内外無差別や透明性の確保の原則を含む規律が盛り込まれており、GPAに参加していないベトナム、マレーシア、ブルネイ、ペルー、チリ、メキシコとはCPTPPを通じて政府調達へのアクセスの向上につながる。なお、イギリスの国民保健サービス(NHS)はCPTPPの交渉対象になっておらず留保される14。その他にも、CPTPPは労働、環境を含む包括的な分野もカバーしており、イギリスはこうした既存の貿易協定には含まれない新しい分野について「ルールメイキング」の機会として評価している。
今後の展開
現在までに、CPTPPには中国、台湾、エクアドル、コスタリカ、ウルグアイが加入申請を出している。また、タイが加入申請に向けての国内手続きに取り組んでいる他、韓国、フィリピンなどが加入に関心を示している。
中国は2021年9月に正式に加入申請を出し、その直後に台湾が加入申請を提出した。中国の狙いは、貿易ルール形成の主導権、米国不在のうちに先行してCPTPPに加入すること、国内改革の推進、米中貿易戦争の影響緩和など経済と戦略の両面が存在すると考えられるが、加入にあたっては、CPTPPの自由化とルールの水準を満たし、ルールを遵守できるかも大きな課題となる。台湾は、加入にあたって課題であると指摘されていた福島県を含む5県からの食品や農産物の輸入停止措置の問題が存在したが、2022年2月に規制措置を解除している。CPTPPはAPECエコノミーの国または独立関税地域の加入を認めているため規則上では台湾の加入は問題がないが、中国との政治的な関係で、単独での加入は難しい。
また、米国に関しては、国内政治において自由貿易が支持されておらず、CPTPPを含む貿易協定の枠組みに戻ってくる可能性は極めて低い。事実、米国が諸外国との貿易協定を締結するのに必要な貿易促進権限(TPA)が2021年7月で失効しているため、貿易交渉を進めることができない。代替策として、米国はインド太平洋経済枠組み(IPEF)などの関税の引下げや投資自由化を伴わない別の枠組みを追求している。
G7メンバーであるイギリスの加入はCPTPP推進にとって大きなプラスであるが、新規加入を巡る今後の展開のかじ取りは複雑である。とはいえ、CPTPPは自由貿易体制の維持・強化を実質的に支える有力なフロントであり、CPTPPの拡大に取り組むことは引き続き重要である。CPTPPへの加入手続きの詳細等は最高協議機関であるTPP委員会で協議の上、決定されるとされているが、CPTPPのルールを遵守できるか、十分な市場開放をできるか、既存の貿易協定において法令遵守できているかなどの要件を審査する段階的なフェーズを設けて、申請国はフェーズをクリアしながら加入手続きを進めることも一案であろう。
日本はイギリスとの連携強化をさらに図り、インド太平洋におけるルールに基づく貿易体制の推進を始め、サプライチェーン強靭化、インフラ投資などの様々な分野での協力を進めるべきである。その中には、インドとの経済と安全保障での協力も含まれる。イギリスのCPTPP加入を契機としてさらに日英協力を深めていくことが重要である。