国問研戦略コメント

国問研戦略コメント(2023-02)
マルコス政権の180日

2023-01-31
石川和秀(日本国際問題研究所客員研究員/元駐フィリピン大使)
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「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。

フィリピンでは2022年6月30日にマルコス新政権が誕生してから半年余りが経過した。型破りの大統領と言われたドゥテルテ政権を継いだマルコス大統領は、この最初の助走期間で如何なる方向性を示してきたのか、それは対外関係上どのような意味を持つのか、以下に180日が経った時点での分析を試みた。なお大統領選挙の概要やその国際的インプリケーションについては、2022年2月の戦略コメント(2022-01)にまとめてあるので参照いただきたい。

2022年大統領選挙結果

2022年5月の大統領選挙では約6割の票を集めたフェルディナンド・マルコス元上院議員(故マルコス第10代大統領の長男)が、3割未満の票に留まったレニ・ロブレド副大統領(当時)を抑えて圧勝した。マルコス氏とタッグを組んだドゥテルテ大統領の長女であるサラ・ドゥテルテ・ダバオ市長(当時)も6割以上の票を集めて副大統領選で圧勝した。世論調査によれば選挙戦序盤から両者とも圧倒的な支持率を誇ってきたが、そのまま最後までレースを乗り切った形となった。

その勝因については様々な理由が考えられるが、第一の理由はドゥテルテ政権の踏襲を訴えたことであろう。ドゥテルテ前大統領は任期の6年間を通じて常に7〜8割の支持を集め、フィリピン史上最も人気の高い大統領と言われており、国民の多くはその継続を欲していた。憲法上大統領の再選が禁止される中で、ドゥテルテ政権の踏襲を公約するマルコス氏とそれを支える娘のサラ・ドゥテルテ氏のコンビは国民に強くアピールしたものと思われる。その裏返しとしてリベラル派の退潮がある。アキノ政権(2010-2016年)を継承するロブレド副大統領はリベラル派、知識階級などを支持母体とするが、守旧派、既得権益層と見做され幅広い国民の支持を集めることができなかったと言われている。

またマルコス氏は、ピープル・パワー革命に至る故マルコス元大統領の時代を経験していない若い世代が圧倒的多数を占める人口構成の中で、SNSを駆使して先代の施政が「黄金時代」であったとのナラティブを広め共感を集めることに成功した。さらに、対立候補の批判は口にせず、大統領候補のテレビ討論会にも全く出席しないことで敵対的コメントをする機会を避け、低姿勢でひたすらコロナ後の国民のUnity(団結)を呼びかける戦術をとったことも功を奏したと言われている。

選挙期間中のマニフェスト表明については、ドゥテルテ政権の方針踏襲以外にさほど目を引くものはない。インフラ整備を継続するとしつつ、強いて言えばPPP(官民連携)推進、原発導入への関心、農業改革の重視などが目新しい点であった。

一方国民の関心の高い中国との関係、南シナ海問題については、一度は比中仲裁判断の価値・意義を軽視したような発言があり、中国と外交関係を開設した先代のレガシーも手伝って親中的とのイメージが先行したが、その後「南シナ海については比中仲裁判断に基づき中国側と協議する」といった言い振りに修正している。ただし全体としては、外交面でもドゥテルテ政権が踏襲される、すなわち「独立した外交政策」の下に対中宥和政策が継続するのではないかと選挙時点では推測されていた。

新政権の閣僚人事と大統領一般教書演説

6月30日にマルコス政権が発足し、閣僚人事が徐々に発表されたが、ジョクノ財務大臣(前フィリピン中央銀行総裁)、マナロ外務大臣(前国連常駐代表)など実務能力の高い人材を起用する手堅い人事と全般的に評価されている。なお閣僚名簿の中では、マルコス大統領自身が当面農業大臣を兼務していること、サラ・ドゥテルテ副大統領は自身が望んだ国防大臣ではなく教育大臣を兼務することになったことが関心を呼んでいる。

7月25日に就任後最初の一般教書演説(SONA:State of the Nation Address)が実施された。SONAは米国の大統領一般教書演説と同じく、大統領が1年に一度議会において向こう1年の政策方向を述べるものであるが、マルコス大統領にとって初めてのSONAであるので当然注目された。特に前述のように選挙期間中は必ずしも政策が具体的ではなかったためになおさらであった。

実際には演説の大半を経済政策等の国内政策が占めており(後述)、対外関係部分はごく一部に留まったが、外交政策の箇所で大統領が「フィリピンの領土を外国勢力に明け渡す動きは、たとえその対象が1平方インチであっても自分が取り仕切ることはない」と発言した際には、演説がしばらく中断するほど最も長いスタンディング・オベーションが起こったそうである。南シナ海問題について国民を代表する議会の雰囲気は明瞭だった。

その他外交政策に関連する点としては、「我々は権利を放棄しない。独立した外交政策を堅持し、国益をその根源的な指針に据える。我々は世界中との良好な関係の維持にコミットしている」といった発言があったが、具体的施策にまでは踏み込んでいない。

演説の大半を占める国内政策では、健全な財政運営と貧困削減、農業改革、観光業振興、感染症対策、教育、デジタル、インフラ投資(ドゥテルテ政権のスローガンであった「ビルド・ビルド・ビルド」を「ビルド・ベター・モア」に変更)、エネルギー(再エネ活用、発電所増設(原子力発電の方針見直しを含む)、天然ガス投資等)、海外フィリピン人労働者支援など多岐に亘る問題に触れている。

これらは言わば課題リストであり必ずしも具体的な方針は示されていないが、今後の政権の方向性を理解する一助となる。興味深いのはドゥテルテ政権の一丁目一番地であった違法薬物対策が目立つ形では入っていないことである。国民の大半はドゥテルテ前大統領の違法薬物対策とその結果としての治安の大幅な改善を高く評価しており、またドゥテルテ副大統領は引き続きこれを重視しているので、実態として違法薬物対策が引き続き重視されることは確実であろうが、超法規的殺人を巡る欧米諸国との微妙な関係もあり敢えて目立たせない対応としたのかも知れない。なお、SONAでは公共安全や海上法執行についても触れられていない。

対外関係

次にマルコス政権の対外活動について見てみたい。

一般的に言っていずれの国でもリーダーが就任した直後の会談相手や外遊先の選定は、政権としての一つの対外メッセージとなることから神経を使うものであるが、以下のようにマルコス大統領はこの点を特に強く意識していたように感じられる。

まず選挙勝利後の電話会談はバイデン大統領(5月12日)、習近平国家主席(5月18日)、岸田総理(5月20日)の順であった。選挙後最初の接触なので相手国からマルコス大統領への祝意の伝達と今後の友好協力関係を謳うのが普通であり、実質的内容の伴う会談は通常想定されないが、国の選定と順番については苦心した跡が伺える。

マニラでの大統領就任式(6月30日)には各国から要人が出席した。この機会にマルコス大統領が会談したのは、米国ハリス副大統領夫君、王岐山副総理、林外相、タイ及び豪州等であった。

最初の外遊先に選んだのはインドネシアとシンガポールである(9月6、7日)。ASEAN諸国、特に原加盟国の5カ国では就任後最初の外遊先はASEAN諸国から選ぶ傾向が強い。2022年は11月にカンボディアでASEAN首脳会議が、引き続きタイでAPECが開催され、これらへのマルコス大統領の出席も想定されていたことから、残る主要国としてインドネシアとシンガポールが選ばれたものであろう。ASEAN諸国内では慣例に則ったものとして一般的に歓迎されたものと思われる。

次の外遊は9月下旬のニューヨークの国連総会出席である。ドゥテルテ前大統領は任期中一度も米国の地を踏まなかったが、マルコス大統領は米国に長年居住しかつ留学もしており、ドゥテルテ前大統領のような特別な感情は有していない。この機会を利用してマルコス大統領は初めて対面でバイデン大統領と会談し、同じく国連総会出席中の岸田総理とも会談した。

次が11月半ばのASEAN首脳会議及びAPEC首脳会議である(その後EU-ASEAN首脳会議も続いた)。これら多国間会議の場を利用してマルコス大統領は豪州、NZ、カンボディア、越、カナダ、ブルネイ、韓国、サウディアラビア、フランス等の首脳と二国間会談を行なっているが、中でも中国については習近平国家主席との初めての会談が実施された(11月17日。於タイ)。また岸田総理とも短時間ながら2回目となる対面があった。

以上のようにマルコス大統領の対外活動を見ると米国、中国、日本への対応が極めて手厚いことが読み取れる。後述するように1月3−5日には国賓として中国を訪れているし、2月には訪日する可能性が報じられている。米国公式訪問も然るべきタイミングで実現するものと予想されるが、米国について見れば以下の通り特に米国からの積極的姿勢が際立っている。

対米関係

米国については上記の諸会談に加えて、8月の段階で既にブリンケン国務長官が訪比しマルコス大統領と会談しているほか、9月にはハワイで比米国防相会談が実現している。さらに11月21日にはハリス副大統領がマニラでマルコス大統領を表敬したのち南シナ海に面するパラワン島を訪問した。ハリス副大統領はマルコス大統領に対し、中国の強引な海洋進出を念頭に、「南シナ海でフィリピン領土、フィリピン軍や艦船が武力攻撃を受ければ米国は比米相互防衛条約のコミットメントに従って行動する」ことを改めて表明している。またパラワン島では、比沿岸警備隊(PCG)の巡視船上でスピーチし、中国の九段線を否定した2016年の国際仲裁判断を支持し、航行の自由や主権と領土の尊重といった原則を守るためフィリピンと共に立ち上がることを明確にした。ハリス副大統領はパラワン島を訪れた米政府関係者の中で最高位となる。なお、ハリス副大統領の乗船した巡視船は、日本が供与した円借款を利用して建造されたものである。

パラワン島は南シナ海に面するのみならず、米比防衛協力強化協定(EDCA)の下で明記される米軍側訪問先拠点の増加対象地域の一つに挙げられていることから選ばれたものと思われる(注)。

(注)9月にハワイで開催された比米相互防衛委員会において、オースティン米国国防長官とファウスティーノ比国防相代行が会談し、EDCAに基づき米軍が使用できる比国内軍事施設を5ヶ所から10ヶ所に拡大することが議論され、その後11月14日にこの旨公表されている。

ドゥテルテ前大統領時代はその強硬な対米姿勢の故に、比米関係は停滞せざるをえなかった。共同訓練の規模縮小や米国に頼っていた武器等調達の多様化が進められ、米比間の実質的な協力が進展しないばかりか、ドゥテルテ前大統領は一時訪問軍地位協定(VFA)の廃棄すら主張したため、米国政府としては中国が台頭する中にあって危機感を強めたものの当面フィリピンとは現状維持が精一杯という認識であったと思われる。

米国としては選挙中の「ドゥテルテ政権の踏襲」や「独立した外交政策」といったマルコス氏の言い方に不安を持ちつつも、就任後の南シナ海問題等に関するマルコス大統領の言いぶり等から新政権は伝統的な親米政権であると判断し、政権交代を機に一気に積極攻勢をかけてきたと思われる。それが上記の相次ぐ会談や要人往来に現れている。

対中関係

マルコス大統領は習近平国家主席の招きに応じて2023年1月3−5日に中国を訪問した。現時点では公式の発表以外詳細は分かっていないが、比米関係に楔を打ち込みたい中国としては、国賓待遇をもってマルコス大統領を歓待し、貿易投資の拡大、インフラ整備への協力、天然ガス共同開発交渉の再開意図表明等の協力案件を高らかに謳うことを目指していたと思われる。報道等によれば農産物検疫やインフラ整備、観光などを含む14の二国間協定に署名し、貿易、融資、投資等の中国投資家側約束額は228億ドルを超える規模になった由である。マルコス大統領は帰国後「建設的な実りある話し合いになった」と述べている。但しドゥテルテ前大統領の訪中(2016年)の際の約束額も約240億ドルであり、民間投資がどこまで実際に実施されるのか今後の進展をよく見る必要があろう。さらにODAについて言えば2016年には約1兆円の約束をしながら実際に達成したのはその9分の1にもならず、見掛け倒しといった批判が起こった。ドミンゲス前財務大臣は前政権末期に借款契約を全て打ち切りにしている。このような経緯があるためか、今回は借款契約のような大きな成果は見られていない。

一方南シナ海問題については、「・・妥協点を見つけ、有益な解決策を見出すと(習主席が)約束した」そうである。実態は別として対外的にうまくマネージしているとの姿を印象付けるための仕掛け、例えば比中間の連絡ラインの構築なども盛り込まれたようであるが、実質的な進展は何も見えてこない。外向きの友好ムードの演出の影に如何なるやりとりがあったか今後仔細に分析する必要があろう。

おわりに

マルコス政権の180日を概観すれば、先ずは対米関係の修復は大いに評価される。二国間の雰囲気は大幅に改善し、EDCAの拠点増加など実質的な安全保障協力の実も上がっている。フィリピン国民の米国への信頼度は引き続き圧倒的に高いことに鑑みれば(注)、マルコス政権としてもこれを踏まえた形で東アジアの安全保障環境に対応したと言えよう。今後は安保協力のみならず二国間の経済支援や貿易投資の自由化の分野でも米国の積極的姿勢が期待される。

(注)パルスアジアによる最近の調査では安全保障協力を進めるべき国として82%の国民が米国を選択している。因みに第2位は日本で52%,中国は20%。

同時にフィリピンとしては経済面で存在感を高める中国に配慮せざるを得ないのも当然であり、貿易・投資、インフラ支援、観光などの分野でフィリピン政府が中国からの協力を期待するのは極く自然である。これまでは貿易・投資、インフラ整備等の開発協力いずれにおいても日本が群を抜いた存在感を示してきたが、日中の国力の相対的変化により立場が拮抗ないし逆転した分野も多い。

さはさりながら日本の存在感はまだまだ高く、約1350社に上る日本企業は現地社会に根ざして活発に活動している。日本政府としてもODAや官民連携等を通じてインフラ整備、情報通信、エネルギー、防災などの分野でフィリピンの国造りに貢献できる余地はまだまだ大きい。また海上取締まり能力強化のためのフィリピン沿岸警備隊支援や自衛隊とフィリピン国軍の共同訓練の拡大、さらには将来の訪問軍地位協定(VFA)の締結などにより安全保障協力を深化させることも重要である。日本とフィリピンはそれぞれ米国の同盟国であり、かつフィリピン国民が極めて親日的であることがこのような協力の土台を提供している。

最後に簡潔に、マルコス政権のアキレス腱について付言する。

圧倒的な人気を持って当選したマルコス大統領であるが、同時に故マルコス元大統領時代を暗黒の時代として記憶する世代も多数存在する。現状ではマルコス家の税金未納問題等の訴訟手続きが進行中であるが、仮に元大統領時代の悪政を思い起こさせるような新たな事態が生じた場合には、批判的意見はたちまち拡散し国民全体の運動に発展しかねない。その意味で注意を要する問題として、税金未納問題以外に、歴史の美化と、取り巻きの影響力乃至クローニーの復活を指摘しておきたい(これ以外にマルコス家とドゥテルテ家の将来の対立可能性を指摘する意見もあるが、ここでは割愛する)。

選挙期間中マルコス大統領は父親の時代が「黄金時代」であったかの主張を行なってきた。マルコス元大統領時代の政策全てを否定することはできないものの、その政権が全体として人権意識が希薄で私利私欲に走り、戒厳令によって民主主義を抑圧したことは否定できず、それを「黄金時代」と評することは無理があろう。かつそのような認識に基づいて具体的な施策がなされる、例えば教科書の書き振りを修正する、特定の人物の名前を冠した場所や施設名を変更する、特定の近しい財界人等に恩恵が与えられる、といったことがあれば大問題に発展しかねない。現在政府が提案している政府投資ファンドも、海外の例を見れば、運用如何によっては汚職の温床になりかねない。また与党系議員がマルコス家に忖度して不適切な法案を提出する可能性もある。フィリピン国民は一般的に寛容な国民であるが、長年民主主義体制に慣れ親しんでおり、かつ不満が沸点に達すれば自ら行動を起こして時の政権を倒してきた歴史がある。ドゥテルテ前大統領が最後まで高い人気を誇ったのは、如何に乱暴な言動があっても、自らは清貧に甘んじつつ常に国民のために働くとの姿勢を貫いたからであろう。ドゥテルテ政権の踏襲とはそれを意味する言葉であって欲しいと思う。