「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。
はじめに
2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領は、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国(ウクライナ領内のドネツィク州とルハンシク州における親ロシア派支配地域)からの軍事支援「要請」を受ける形で、ウクライナに対する「特別軍事作戦」を開始すると表明し、ウクライナ全土を攻撃した。G7やEU、NATOは直ちにロシア軍の撤退を求め、ロシアに対してかつてない規模の経済制裁を科すことを発表した。日本政府もまた、ロシアの軍事行動を「侵略」と認定し、アメリカをはじめとする西側諸国と協調して数次にわたる対ロシア経済制裁を発動している。
以下本稿では、ウクライナ戦争の開戦から半年が経とうとしている8月現在において、西側の経済制裁がロシアの経済と社会にどのような影響を及ぼしているのかについて検討し、戦争が長期化している背景としてロシア経済と社会のありようを考察する。
1 ロシアによるウクライナ侵略と西側諸国による対ロシア経済制裁の発動
2022年2月22日、プーチン大統領はウクライナ領内の親ロ派支配地域(ドネツィク(ドネツク)州とルハンシク(ルガンスク)州からなるドンバス地域)の独立を承認し、24日には「特別軍事作戦」と称して首都キーウ(キエフ)も含むウクライナ全土への攻撃を開始した。ロシア軍は開戦直後からドンバス地域やキーウ周辺、ウクライナ北部のハルキウ(ハリコフ)州、南部のへルソン州やザポリージャ(ザポロージエ)州に侵入し、チェルノービリ(チェルノブイリ)原発やザポリージャ原発を占拠した。だが、ウクライナ軍の徹底的な抗戦とロシア軍自身の稚拙な作戦行動のため、ロシア軍は3月末には首都キーウ周辺から撤退した。その際、キーウ近郊ブチャをはじめ、ロシアが撤退した地域での民間人の虐殺などの残虐行為が明らかとなり、国際社会に衝撃が走った。キーウ撤退後もロシア軍はオデーサ(オデッサ)をはじめウクライナ各地でミサイル攻撃を続けており、民間人に多くの犠牲者が出ている。
キーウ攻略に失敗したロシア軍はその後東部ドンバス地域に戦力を集中させ、7月3日にはルハンシク州全土の制圧を宣言した。へルソン州などの占領地域ではロシアは軍事民政局を置き、住民にロシアのパスポートを配付し、ロシアへの編入のための住民投票を準備している。プーチン大統領は開戦にあたって「特別軍事作戦」はウクライナの占領を目的としていないと述べたにもかかわらず、ヘルソン州やザポリージャ州などの占領地域ではロシア通貨ルーブルの流通やロシアのテレビ・ラジオ放送が始まり、事実上のロシア化が進められている1。
ロシアが軍事作戦を開始するや否や、日本も含む西側諸国は直ちにこれを侵略行為と断じ、G7やEU等の枠組みを通じて調整しつつ、ウクライナへの侵略をやめさせるべく前例のない規模の対ロシア経済制裁を複数回にわたって科している。制裁の主な内容は次の通りである。①ロシア中央銀行の在外資産の凍結や国際決済ネットワークであるSWIFT(国際銀行間通信協会)からのロシア大手銀行の排除といった金融制裁、②半導体などのハイテク製品や産業用機械・装置類、奢侈品の輸出禁止、③最恵国待遇の取り消し・撤回(=関税の引き上げ)、④原油・石油、天然ガス、石炭等のエネルギー資源の輸入の段階的縮小・禁止、⑤政権幹部と彼らに近いオリガルヒと呼ばれる富豪の資産凍結。こうした西側政府の経済制裁に加え、マクドナルドやIKEA、ルノーなど、ロシアに進出していた外資系企業は相次いでロシアでの事業停止を表明し、ロシア市場から撤退していった。ロシアで事業を継続することのレピュテーション・リスク(自社にとっての悪評が広がるリスク)にいち早く反応した今回の多国籍企業の行動は、これまでの戦争では見られなかった現象である。
2 対ロシア経済制裁のロシア経済・社会への影響
本稿執筆時点(2022年8月上旬)では、西側諸国による経済制裁はロシアの侵略戦争をやめさせる決定打とはなっていない。制裁の目的が、ロシア経済を混乱に陥れ、ロシア国民の生活を困窮させることで彼らの政治的不満をあおり、ひいてはプーチン政権に方針転換を促すことだというのであれば、その目的は十分に果たせているとは言えない。少なくとも表面上は制裁発動当初に予想されていたような「ロシア経済の混乱」は見られない。
制裁発動直後、通貨ルーブルの為替レートは暴落し、3月12日には1ドル=120ルーブル、1ユーロ=132ルーブルの最安値(いずれも中央銀行発表の公式レート)を付けたが、その後、中央銀行の通貨防衛策(一時的に政策金利を2倍に引き上げ20%とし、ロシア企業が輸出で得た外貨収入の80%をルーブルに強制的に換金させた。4月8日にこの措置は緩和された)が功を奏し、6月後半には2014年秋頃の水準にまで回復している。また、西側諸国はロシア政府の主要な収入源であるエネルギー部門に制裁を科し、ロシア産エネルギー資源の輸入縮小・禁止を打ち出したが、ロシア産原油に大きく依存するハンガリーに譲歩してパイプラインでの原油輸入は禁輸の対象外となっているなど、今のところロシアの収入源を完全に絶つには至っていない(ロシアからパイプライン経由で石油を輸入していたドイツやポーランドも輸入停止を打ち出しており、年末までにEU全体で輸入していたロシア産石油のうち約9割が禁輸となる見込みである)。7月上旬の報道によると、ロシアのエネルギー輸出収入は、価格の高止まりと通貨ルーブル高、そして中国やインドによる買い支え(特にインドは割安となったロシア産石油を大量に輸入している)により、むしろ開戦前よりも増加しているという。2月から6月のEU向け石油輸出が33%減少する一方、中国、インド向けはそれぞれ6%と88%増加している2。その結果、2022年上半期のロシアの石油ガス収入は6.37兆ルーブルを計上し、これは2020年通しての収入金額よりも多く、2021年通しての収入金額の7割以上になるという3。
ロシア国家統計局は「ロシアの社会経済情勢」という報告書を定期的に発行しているが、2022年7月27日に公表されたその最新版(2022年1月~6月分)4によると、開戦後の2022年3月、4月、5月の基礎分野生産高(農業、鉱工業、電気・ガス・蒸気供給、水道、建設、交通、卸売・小売業での生産活動が計上される)は対前年比でそれぞれ101.9%、97.6%、96.8%、対前月比でそれぞれ112.4%、92.9%、97.5%を記録し、4月以降生産の減少がみられる。だが、6月には基礎分野生産高は対前月比で104.6%と持ち直す(ただし対前年比では95.5%に留まる)など、制裁発動後もロシアは開戦前の生産水準をほぼ維持しており、現時点(2022年8月上旬)では制裁の効果が十分に現れているとはみなし難い。他方、自動車産業では著しい生産低下が生じており、欧米メーカーがロシアでの生産停止や撤退を表明した3月には対前年比54.5%、対前月比62.5%を記録した。その後も減少傾向はとまらず、5月の自動車生産高は対前年比で34.0%、対前月比で70.7%となっている。6月の自動車生産高は対前月比では129.1%と増加したものの、対前年比では37.8%に過ぎず、開戦前の水準には程遠い。
インフレ率や失業率の推移もロシア経済の意外な好調さを物語っている。先に挙げたロシア国家統計局の統計資料によると、2022年3月のインフレ率は7.6%であったが、4月には1.6%となり、5月には0.1%に、6月には-0.35%にまで低下している(ただし、実質賃金や年金の実質水準については、昨年来インフレが続いてきたこともあり、いずれも前年比約9割程度に目減りしている)。制裁発動直後は市民が買いだめに走った、スーパーの棚から商品が消えた、大幅な値上がりがあったといった類の報道がなされたが、これらはいずれも一時的なものであったということができるだろう5。また、失業率については2022年1月には4.4%であったのが、開戦後の3月には4.1%となり、4月には4.0%、5月には3.9%となっている。当初、外資系企業の相次ぐ撤退や制裁の影響を受けた経済の混乱により失業率が大幅に上昇するのではないかといった予測もあったが、公式統計を見る限り、そういった事態には今のところ陥っていないようである6。
このように、現時点では欧米の外資系企業がロシア市場から撤退した以外に、市民生活に大きな打撃を与えるような制裁の影響を見ることは難しい。ロシア政府の制裁への対抗策が一定程度効果をあげていると見ることもできるだろう。開戦後、ロシア政府は年金受給額の引き上げ、軍関係者への一時金支給、子育て世帯への金銭的支援の拡充などを積極的に行っており、こうした各種バラマキ政策も市民生活を下支えしていると思われる7。
しかしその一方で、産業界では制裁の影響が徐々に現れてきているとの報道も目立つようになっている。例えば政府は対ロ制裁によって禁輸となった西側製品の「並行輸入」を奨励するようになり、自動車産業では西側製部品が入手困難であるために、環境・安全基準を引き下げた「新型モデル」の生産を余儀なくされているという8。西側からの素材や部品等の物資や生産技術の流入が滞ることで、今後、企業の生産活動が停滞する可能性は十分にある。現にナビウリナ中央銀行総裁は2022年6月10日の記者会見で、今日多くのロシア企業が外国貿易との関係で困難に陥っているとの見方を示し、とりわけ、輸入部品に頼るロシア企業の生産活動がスローダウンしていることを懸念している9。プーチン大統領もまた 、7月18日の閣僚会議において外国のハイテク製品の入手が困難になっていることを認めた。これまでのところ、ロシアは西側の経済制裁にうまく対処してきたとは言えるだろうが、ロシア経済の先行きは決して楽観視できるものではない。
3 維持される「ドンバス・コンセンサス」
ロシア国民が経済制裁の影響をあまり強く感じていない10ことは、プーチン大統領とウクライナ戦争への高い支持につながっている。各社の世論調査によると、これまで60%前後であったプーチン支持率は、ウクライナへの侵攻後20ポイント上昇して80%前後となっている11。また、ウクライナ戦争への支持も74~77%あたりで推移しており、大きな変化はみられない12。2月末の開戦後、ロシア政府は市民の反戦活動に目を光らせ、徹底的に圧力を加えてきたこともあり、世論調査において人々が正直に答えない事例が増えてきているといった指摘もあるが13、各社の世論調査結果はそろってプーチン支持率が高まっていることを示している。
こうした国民の幅広い層から大統領とその政策路線に支持が集まっている現状を、政府系世論調査機関の全ロシア世論調査センターのワレリー・フョードロフ所長は「ドンバス・コンセンサス」と名付け、今後数年にわたってこのコンセンサスが維持される可能性があることを指摘している14。同所長は、この「ドンバス・コンセンサス」の背景には、①2014年のクリミア併合以降、ロシアは西側の制裁を受け続けているが、その「ニューノーマル」の現状を国民は受け入れており「制裁慣れ」している、②今回の制裁にしても現時点では市民生活にそれほど大きな影響が出ていないために、人々には今回も危機を乗り越えられるにちがいないといった「自信」がある、といったことに加え、③ロシア国民はこれまでのプーチンの外交政策の「実績」を買っており、今回の戦争についても「自分たちにはとうてい理解の及ばない、プーチンの奥深く正しい判断に違いない」と考えている、といった要因があるのではないかと述べている15。
他方、独立系世論調査機関のレヴァダ・センターのレフ・グトコフ研究部長は、人々は日々の生活をどうするかで精いっぱいで政治や戦争に関心が向かっておらず、こうした人々の「無関心」が結果的にプーチン政権とその政策を支えているのだとみている。だが、制裁の影響が現実味をもって感じられるようになれば、人々は「無関心」ではいられず、いずれは政権批判につながっていくだろうと同研究部長は指摘する16。また同様に、カーネギーモスクワセンター17のアンドレイ・コレスニコフ「ロシア内政・政治制度」プログラム部長も、今後、ウクライナ戦争と欧米との対立がより深刻化し、ロシア社会や経済に深刻な影響が及ぶようになれば、人々の間で政治的不満が募り、やがては思わぬ形で政治的抗議に転じる可能性があるだろうと分析している18。
このようにロシア人識者の間にも様々な見方があるが、あえて最大公約数を見出すとするならば、ロシア社会の「無関心」19が戦争を長引かせる一因となっていると言えるだろう。ここに言う「無関心」とは、先のグトコフ研究部長が指摘するような、人々は日々の生活で精いっぱいで余力がなく政治にかかわろうとしないのだという「無関心」もあれば、フョードロフ所長が指摘するような「これまでのプーチンは正しい判断をしてきたのだから今回の戦争についてもきっと正しいに違いない」といった他人任せの、国民自らが政治に積極的にかかわろうとしない「無関心」もある。これらいずれの「無関心」も、制裁の市民生活への影響が現時点では比較的軽微であるということに支えられ、積極的ではないにしろプーチン政権と戦争への支持が続く構図を作り出している。その意味で「ドンバス・コンセンサス」は維持されているとみなせ、ロシア国内に侵略戦争をやめさせる気運は今のところほとんどないと言えるだろう。
おわりに
世界に衝撃を与えたロシアによるウクライナ侵略戦争が始まってから半年が経とうとしている。この間のマスコミ報道でよく指摘されるように、ロシア側、ウクライナ側双方ともに戦争の出口について明確なビジョンを持っていないことが戦争の長期化の原因となっていることは確かだが、本稿でみたようなロシア社会のありようもまた戦争を長引かせる要因となってしまっている。
2月24日の開戦後、西側諸国はロシアとの武力による全面対決は避けながらも最大限の圧力をかけるべく、前例のない規模での経済制裁をロシアに科した。だが、制裁発動直後はともかく、表面上は「ロシア経済の大混乱」は起きておらず、公式統計を見る限り、今のところ経済制裁になんとか対処できているようである。それゆえに、ロシア国民も事の重大さを十分に理解できておらず、ウクライナでの戦争をどこか他人事のようにとらえている節があり、人々の間に即時停戦を求めるような気運は高まっていない。こうしたロシア社会のウクライナ情勢や戦争に対する「無関心」は、戦争が長期化する一因となっているのである。
ロシア国民がウクライナ戦争の現実を直視し、自国の過ちを正すことが切に望まれる。だが、ロシア社会の変化を気長に待つのでは、残念ながら、今現在ウクライナで起こっている凄惨な殺戮を止めることはできない。戦争の早期終結が必要であることは論を俟たない。ウクライナ戦争を始めたロシアの不正義に国際社会が毅然と抗議するのは当然として、同時に早期停戦とロシア・ウクライナ間の諸問題の平和的解決に向けて何ができるかも真剣に考える必要がある。
(2022年8月12日脱稿)