はじめに
2020年9月15日、米国ワシントンにて、イスラエル・アラブ首長国連邦(UAE)・バハレーン三か国間の和平合意に関する共同声明(The Abraham Accords Declaration)が出された。1979年のエジプト、1994年のヨルダンに続き、イスラエルと正式な外交関係にあるアラブ諸国はこれで四ヵ国となった。トランプ大統領は「歴史的合意」と自賛したが、祝賀ムードに包まれたこの場にパレスチナの代表は存在しなかった。この合意は参加国の経済・安全保障関係の強化の意味合いが強く、合意に対する国際社会からの反応は賛否両論である。特に地域内においてサウジ・アラビアやUAEと対立するイランやトルコは今回の合意をパレスチナ問題の解決に反するものとして強く批判している。
今回の合意で約40年前のキャンプ・デービッド合意を思い起こした方も多いだろう。イスラエルとエジプトとの間で結ばれた最初の平和条約である。ここでは二つの和平を比較し、「アラブの大義」とは何だったのかについて考えてみたい。
「アブラハム合意」―米国仲介によるイスラエル・湾岸アラブ二か国の国交樹立
9月の共同声明に先立つ8月15日、イスラエル・UAE間で国交正常化を含む「アブラハム合意」が成立した。名称の由来は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三宗教の共通の祖先アブラハム(アラビア語でイブラヒーム)にあるという。その後、バハレーンがこの合意に参加した。1948年のイスラエル建国以降、四回にわたる中東戦争があったが、エジプトやヨルダン、シリア等とは異なり、同じアラブとはいえ、UAEとバハレーンはイスラエルと直接戦闘を交えたことがない。
この合意により、イスラエルと湾岸二国間での完全な国交正常化、経済・技術協力、コロナ対策協力、直行便の就航等が可能となった。サウジ・アラビアの外務大臣、ファイサル・ビン・ファルーハン・アルサウド王子は「サウジ・アラビアは1967年の第三次中東戦争以前の国境線に基づいたパレスチナ国家の樹立を支持する」と述べ、この合意に直接言及はしなかったが、同国はイスラエル-UAE直行便に同国上空の飛行許可を与え、隣国バハレーンの調印参加も容認しており、実質的にこの合意に賛同していると考えられる。UAEの真の目的は高性能の武器購入であり、12月までには米国から最新鋭ステルス戦闘機F35を購入予定と報じられる。湾岸アラブ二か国がイスラエルの高度な技術(監視技術を含む)の導入を期待する一方、イスラエルは地域内における立場の強化、湾岸アラブ諸国との経済関係の発展およびアジア諸国への空路を期待する。国際社会から非難されてきたイスラエルの「西岸併合問題」や占領の継続問題は放置され、対イランでの戦略的同盟が成立した。
キャンプ・デービッド合意―パレスチナ問題よりもエジプト・ファースト
エジプトは約40年前、アラブ諸国のなかで最初に「アラブの大義」より自国の利益を取り、イスラエルと和平に踏み切った国である。
1978年9月、ジミー・カーター米大統領は、メリーランド州の山荘キャンプ・デービッドにエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を招き、2週間を共に過ごした。翌年1979年3月、平和条約が調印され、エジプトは1967年第3次中東戦争で占領されていたシナイ半島を取り戻した。しかし、パレスチナの占領地からのイスラエル軍撤退や彼らの民族自決権は無視されたままであった。サダトとベギンはノーベル平和賞を受賞したが、エジプトは他のアラブ諸国から国交を断絶され孤立した。
このキャンプ・デービッド合意はエジプトの外交・経済に大きな転換をもたらした。米ソ冷戦下、非同盟主義を掲げていたナセル大統領は、親ソ・反米・反イスラエルの立場を採ったが、1970年代、超大国は対立からデタントの時代へと移行しつつあった。ナセルを引き継いだサダトは、1973年、第四次中東戦争の緒戦の奇襲作戦でエジプトを勝利に導き、キャンプ・デービッド合意への道筋を作った。ナセル時代のアラブ社会主義経済体制からの転換を図り、サダトは経済の一部自由化や外資導入といった「門戸開放政策(インフィターフ)」を進めていたが、単独和平により西側からの援助が流れ込むようになった。湾岸産油国へのエジプト人の出稼ぎも解禁され、豊かなエジプト人が増えた。
しかし同時に国内格差も増大し、77年1月には全国規模の食糧暴動が発生した。反対派の取り締まりが強化され、サダトへの国民の不信感は高まり、サダトは 81年 10月、イスラーム主義者に暗殺された。
キャンプ・デービッド合意がもたらしたもの
結果的にサダトの死と引き換えとなったキャンプ・デービッド合意から、エジプトは何を得て、何を失ったのだろうか。得たものは米国をはじめとする西側からの経済・軍事支援であり、イスラエルとの経済協力(特に天然ガス、農業)であった。
米国の外国援助は大きく対外軍事財政支援事業と経済支援援助から成る。このうち軍事支援の大半(2015年は75%)がイスラエルとエジプトの二国に支出されてきた。これまでの米国の対イスラエル援助の実績(1946-2017年)は約1,348億米ドルに達し、その7割が軍事支援である。イスラエルの高度な軍事・監視技術は米国の長年にわたる援助の賜物である。
エジプトはイスラエルに次いで米国の援助の第二位の受益国である。これまでの実績(1946-2017年)は全体で約798憶米ドルに到達し、その6割が軍事支援であった。毎年の軍事援助は、一部例外を除き、1980年代以降約13憶米ドル水準で継続されてきた。米国からの武器調達・メンテナンスに加え、毎年の長期・短期軍事訓練が実施されてきており、米国とエジプトの軍部関係が強化されてきた。
米国の対エジプト援助全体の約4割を占める経済援助は、主に米国国際開発庁(USAID)によるが、農務省や貿易・開発庁(USTDA)からの支援も行われており、幅広い分野における経済支援活動が実施されてきた。
エジプトは確かにこうした経済・軍事援助を得たが、失ったものもあった。パレスチナ問題の解決の実現という「アラブの大義」を裏切ったことによるアラブ政治での孤立、エジプト人としての誇りの失墜、政権と国民の間の信頼の喪失である。キャンプ・デービッド合意に対するエジプト国民からの抵抗や不信感は、両国間の経済や観光にも影響し、和平合意から40年以上経っても両国間の人の交流は一方通行であった。エジプトの紅海リゾートを訪れるイスラエルの旅行者は増えたが、その反対の人の流れは圧倒的に少ない。
アラブ・ナショナリズムの二つの潮流――「アラブの統一」から「自国中心主義」へ
エジプトが「アラブの大義」ではなく自国の利益を優先して以降、イスラエルに対するパレスチナ問題解決への圧力は減少し、同時に「アラブ・ナショナリズム」は死語となった。アラブ・ナショナリズムには、大きく二つの潮流がある。「カウミーヤ(民族主義)」と「ワタニーヤ(愛国主義)」である。アラビア語で「カウム(qawm)」は民族を意味し、その派生形のカウミーヤは言語や文化の繋がりを重視し、その統一を求める思想や運動である。ナセルの「アラブ民族の統一」はこれに相当する。他方、後者はアラビア語の「ワタン(祖国や郷土)」から派生し、郷土愛や祖国主義を意味する。サダトのキャンプ・デービッド合意締結はいわばプラグマティックなワタニーヤ、「エジプト第一主義」による選択であった。今回の「アブラハム合意」も各々の自国第一主義に基づいており、「アラブはひとつ」という言葉はますます空虚に響く。
そもそもアラブとは「アラビア語を話す人々」という緩やかなアイデンティティである。イスラームは重要な要素ではあるが、アラブのユダヤ教徒やキリスト教徒も存在しており、アラブ=イスラーム教徒ではない。古代より様々な帝国と覇権が競合してきたこの地では、重層的歴史の上に多様な民族と宗派の人々が身を寄せ合い暮らしてきた。そうした多様な人々を包摂し得る「ひとつの」論理は存在し得ない。アラブ・ナショナリズムは死んだのではなく、そもそも幻影であり、「アラブの夢」であったのかもしれない。しかし、オスマン帝国が解体し「アラブの統一的独立」が帝国主義によって阻まれて以降、アラブ諸国体制が定着し、自国中心主義がひろがる中、市井に残る郷愁のカウミーヤがときに立ち現れる。例えば、シリア難民へのエジプトでの反応はその一例である。
「カイロより、ここはダマスクス」――シリア難民への支持と「アラブの連帯」への郷愁
「アラブの春」の余波を受け、シリアが紛争に突入してまもなく10年。地中海を渡り欧州に逃れる人々の流れが途切れることはないが、シリア難民を最も受け入れているのはトルコやレバノン、ヨルダン等の周辺国である。エジプトも多くのシリア難民を受け入れ、社会の摩擦も発生してきた。2019年6月、ツイッター上に「エジプトにシリア『難民』はいない」「シリア人はエジプトに光をもたらす(「歓迎」の意)」というキャンペーンが現れた。これは、あるエジプト人弁護士が「シリア難民はエジプト人の雇用を奪っている」と主張し法的措置を訴えたことに対する社会的反応であった。シリア人の勤勉さや優秀さ、シリア料理を称えるメッセージの背後に、1958年から3年間だけ「アラブ連合共和国」としてシリアとエジプトが一つの国であったことを思い起こす人々がいた。
同様に興味深い表現として、「カイロより、ここはダマスクス」がある。これは、先述のようなエジプトでのシリア難民への非難や差別を戒め、シリアへの連帯を促す文脈で使われる表現であるが、オリジナルはナセル時代に遡る。1953年、アラブ・ナショナリズムのプロパガンダ普及のためラジオ局「アラブの声(Voice of the Arabs)」の支局がアラブ各地に設立された。ラジオが人々を鼓舞した時代である。56年、ナセルのスエズ運河国有化宣言により、スエズ戦争(第二次中東戦争)が始まり、英・仏・イスラエルがエジプトに攻め入った。カイロからの放送が途絶えたとき、当時の「アラブの声」のシリア部局のアナウンサーは、エジプトへの連帯を示すため、「ダマスクスより、ここはカイロ」とラジオを通じて人々に呼びかけた。半世紀以上も前のこうした逸話が思い起こされ、人々に郷愁の念を呼び起こすのは、目の前の現実があまりに複雑で困難であるが故のことではあるまいか。
おわりに
エジプト出身のモハメド・エルバラダイ氏は、国際原子力機関(IAEA)の第4代事務局長を務め、2005年にはIAEAとともにノーベル平和賞を受賞した。長く故郷を離れていたが、2011年1月のエジプト革命時はカイロに戻り、一時リベラル派の指導者として期待された。同氏は、今回の「アブラハム合意」について次のように書く。
「1970年代後半、イスラエルとの和平交渉を開始した時、私たちエジプト人は理解できていなかった。個別の和平は真の和平ではなく、地域における力の不均衡を生み出すだけである、ということを。片方に有利ではあるが、公正で持続的な和平を実現する機会を失ったのだ。そして、その代償を皆が支払っているのである」
今回の合意で改めて顕在化したのは、現在の中東における力の現実である。米国とイスラエルの内政に中東和平が翻弄されること、アラブ諸国が一枚岩ではないこと、「アラブの大義」を強く訴えているのがいまや「非アラブ」のイランやトルコであるということ。二つの合意を経て変わらないのは、パレスチナの占領の継続だけであろう。
【参考図書】
板垣雄三「アラブ民族主義」『イスラム事典』平凡社,1996年.
伊能武次『エジプト 転換期の国家と社会』朔北社,2001年.
長沢栄治「アラブ主義の現在」木村靖二・長沢栄治編『地域への展望』山川出版社,2000年.
――――『エジプトの自画像 ナイルの思想と地域研究』東京大学東洋文化研究所,2013年.
Anas Alahmed. Voice of the Arabs Radio: Its Effects and Political Power during the Nasser Era (1953-1967). Paper Presentation Prepared for the Joint Journalism Historians Conference. Arthur L. Carter Journalism Institute, New York University, March 12, 2011.
William J. Burns. Economic Ais and American Policy toward Egypt 1955-1981. ALBANY: State University of New York Press, 1988.