はじめに
2016年の米国大統領選挙をはじめ、新型コロナウイルスの世界的蔓延、ロシアのウクライナ侵攻は、多くの国において、外国からの情報戦に対する脅威認識を高める契機となった。特に民主主義諸国は、偽情報との戦いの中で、民主主義の価値を共有するパートナーと偽情報対策分野における協力の拡大に向けて動き出している。
本稿では、外国からの偽情報の拡散などに対する情報戦対策1にについて、日本の取り組み状況を整理し、その課題を明らかにする。その際、他の民主主義国家の取り組みとそれが直面する共通課題について検討を加え、今後の日本が取り組むべき対策についても考察する。
日本政府による情報戦対策
外国勢力による偽情報の拡散を含む情報戦は、社会に既に存在する分断の要素や特定の分裂的なナラティブに焦点を当て、それを増幅することによって、社会を不安定化し、政府の政策決定プロセスにも大きな影響を与えるために用いられることが多い2。米国をはじめとする欧米諸国では、2016年の米国大統領選挙などを通じ、ロシアが情報戦において偽情報を使ったキャンペーンを展開していると広く認識されており、政府機関をはじめGoogleやFacebookなどのテック・ジャイアントやプラットフォーム企業などが対策を行い、偽情報が社会に浸透しないような情報環境づくりに腐心してきている。
日本では、情報戦がもたらす脅威への感度が低く、その対策についても遅れをとってきたが、2022年12月になって、「国家安全保障戦略」を含む「安全保障3文書」を閣議決定する中で、情報戦対策に政府全体として取り組む方針が打ち出された。「国家安全保障戦略」では、グレーゾーン事態や民間の重要インフラなどへの海外からのサイバー攻撃、ディスインフォメーション・キャンペーンなどを含めた情報戦が恒常的に生起しており、有事と平時の境目はますます曖昧になり、洗練されたハイブリッド戦が展開される可能性が高いと指摘されている。これに対応するため、日本政府は、認知領域における情報戦への対応能力を強化していく方針を打ち出し、具体的には偽情報に関する情報分析、対外発信や戦略的コミュニケーションの強化を行う考えを明らかにしている。また、関係省庁や民間の機関との連携強化を図り、偽情報収集・分析にはAIを導入すると共に、2024年度以降に、内閣官房内に情報戦対策に特化した組織を新設するとしている。このような日本政府の取り組み姿勢は時宜を得たものといえるが、多くの課題を抱えていることも事実である。
情報戦対策にかかる意思決定プロセス
これまで日本では、官民両面での情報戦対策が手薄だったことは否めない。また、政府内には情報戦対策の専門機関やタスクフォースがなく、外務省をはじめ、防衛省、総務省などが個別に対応してきた。
しかし、ここ数年、日本においても偽情報に対する認識が徐々に高まってきていた。特に新型コロナウイルスの世界的蔓延を機に真偽不明の治療法などが拡散したことや、台湾有事に対する危機感の高まり、ロシア・ウクライナ戦争において情報戦が戦局を大きく左右していることなどが、情報戦対策の重要性についての認識を大きく高めた。そして世界に目を向ければ、G7諸国やその他のNATO諸国においても積極的な情報戦対策が講じられている状況があり、これら諸国との協調を模索し、日本としての本格的な情報戦対策や戦略的コミュニケーション強化を図る必要性が認識されはじめ、政府が一体となって取り組む姿勢が打ち出されたといえる。
対策における民間セクターの役割
一方、偽情報の拡散を含む情報戦では、政府にとどまらず、民間企業や一般市民までもがターゲットとされる危険があり、情報戦対策においては民間セクターの役割も重要となる。効果的な誤報または偽情報対策として、まずはファクトチェック機能が重要となるが、この分野では多くの国において民間のファクトチェック団体が活発に活動している。しかし、ファクトチェックの対象となる題材は、ファクトチェック団体の利害関係者に依存することが多く、ファクトチェックの題材選定プロセスが不明瞭なことも少なくなく、コンテンツが中立的でないリスクも内在しており、ファクトチェック機能が万能ではないことは認識しておく必要がある。日本では、ファクトチェック文化が未熟で、方法論も十分に確立されていない。米デューク大学のDuke Reporters' Labによると、日本で活動しているファクトチェック団体は2023年3月時点でわずか4箇所のみとなっており、G7加盟国の中でも最低の数字だ。
そうした中、ファクトチェックをめぐって新しい動きも国内で見られるようになった。2022年には東京に新たなファクトチェック団体が設立されたほか、一部の大手メディアでは、組織内にファクトチェックを行う部門新設が検討されている。今後、日本においてファクトチェックの強化が図られるかどうか、その際、ファクトチェックについて、市民からの理解が深まるかどうか、さらには、ファクトチェック機関の資金やファクトチェッカーの確保など運営上の課題にどう対処していくかなど、多くの課題が残っている。
信頼性の高い情報戦対策のためには、ファクトチェック機関に限らず、大学やシンクタンクなどの研究機関をはじめ、メディア、テック企業、市民団体など、あらゆるアクターによる包括的な対策への関与が不可欠であり、日本が有効な情報戦対策を行いうるか否かは、このような多彩なアクターの積極的な協力にかかっているといっても過言ではない。
対策と検閲
同時に、民主主義国家が行う偽情報の拡散への対処や情報戦対策は、表現の自由の原則に抵触する可能性があり、慎重に行われる必要がある。米国では、バイデン政権の情報戦対策について、バイデン政権が好まない民間の言動を封じ込めるためにプラットフォーム企業に圧力をかけたとして、一部の共和党議員が批判しており、なかにはバイデン政権の取り組みが言論の自由を保障する米国憲法に違反しているとして反対する者もいる。
また、Twitter社が米国政府の情報発信・管理に関与していることを示す情報がTwitterの内部文書を公開する「Twitterファイルズ」を通じてリークされたが、このような動きを通じ、民主主義国家における検閲の是非が米国を中心に議論されてきている。
民主主義国家による情報戦対策において重要なことは、政府が規制や管理の権限を過度に拡大することで、むしろ表現の自由に代表される民主的権利を侵害する事態を招かないように留意することである。情報戦対策と表現の自由の適切なバランスを取るためには、国民が批判的思考を教育の早い段階から身につけ、メディアリテラシーあるいは情報リテラシーを高める必要がある。現在の日本の情報戦対策における議論では、情報リテラシー教育に関する視点が欠落していると言わざるを得ず、早急に国民の情報リテラシーを高める教育を強化する必要がある。
カナダの情報戦対策と国際協力
情報戦対策を強化するためには、国際協力を推進することも有効である。G7諸国をはじめ、民主主義の価値観を共有する国や地域は、情報戦対策を本格的に進めている。これら諸国の取り組みを学ぶとともに、さまざまなレベルで協力し、各々の国内事例やグッド・プラクティス、課題などの情報共有を行い、協力体制を構築することが効果的である。
G7諸国の中でも特にカナダは、官民ともに積極的に情報戦対策を講じてきている。ロシアの情報戦に主眼を置いた対策が多く、外務省、国防省、通信安全局、文化遺産省、安全情報局などさまざまな省庁がロシアのカナダに対する情報戦やロシア・ウクライナ戦争に関わるロシア発の偽情報に対し、情報分析や情報発信を含め積極的に対策を講じている。官民連携も進んでおり、各省庁が、情報戦対策に取り組む民間の研究機関や市民団体への研究助成などを行なっている。さらに、カナダの研究機関の中には、米国国務省内のグローバル・エンゲージメント・センターから、ロシアのプロパガンダや偽情報に対処することを目的とした事業の助成を受け研究活動を行なっている機関もある。
さらにカナダは、情報戦対策において国際連携の実現に向けて積極的な姿勢を示している。ロシアのウクライナ侵攻以降、ロシアによる偽情報についていち早く非難声明を発表したのはカナダであり、ウクライナに対しては、偽情報対策費として300万ドルを拠出した。また、昨年カナダが発表した「インド太平洋戦略」では、偽情報への対処において台湾と協力を推進する意向を表明しているほか、G7諸国内での偽情報に対するにする対応策として、迅速対応メカニズム(G7 RRM)構想を主導する。同メカニズムをめぐってはメンバー間でマンパワーを含め取り組み状況に差異がある中、実効性を確保できるかが鍵となる。そうした中、カナダは、2023年のG7議長国である日本が情報戦対策強化に向け舵を切ったことを意識し、この機会に、偽情報への対処を含めた情報戦対策協力の可能性を検討している。
おわりに
日本が情報戦対策を進めるにあたって、二国間あるいは他国間の円滑な協力体制を構築するためには、首相・閣僚級、情報戦対策本部、各省庁のハイレベル、実際にオペレーションを行うユニットレベルが、それぞれに対話の窓口とコミュニケーションの枠組みをパートナー国と保持することが望ましく、手始めに各階層においてカナダとの連携を進めることは有効な手立てであろう。
また、民間レベルでの国際協力も進めるべきだろう。情報戦対策をめぐる日本政府の意思決定に伴い、近い将来、日本国内でも偽情報に関する調査研究や、前述のファクトチェックが活発になることが予想されるが、同時に、研究者同士の交流や共同研究がさらに促進されることが望まれる。
多くのパートナー国が情報戦対策において国際協力の機会を模索する中、日本の取り組みがいかにして実行に移されるのかに注目が集まっており、日本がG7議長国である2023年は情報戦対策において国際協力を進める上で極めて重要な年となろう。
Hanchett, Jim. 2022. "Fact checks effectively counter COVID misinformation." Cornell Chronicle, February 16. Available at https://news.cornell.edu/stories/2022/02/fact-checks-effectively-counter-covid-misinformation.
Japan, Public Security Intelligence Agency. 2017. "Annual Report 2016 Review and Prospects of Internal and External Situations." Public Security Intelligence Agency, January. Available at https://www.moj.go.jp/content/001221029.pdf.
Myers, Steve Lee. 2023. "Free Speech vs. Disinformation Comes to a Head," New York Times, February 11. Available at https://www.nytimes.com/2023/02/09/business/free-speech-social-media-lawsuit.html.
Taibbi, Matt. 2023. "Capsule Summaries of all Twitter Files Threads to Date, With Links and a Glossary," Racket News, January 4, 2023. Available at https://www.racket.news/p/capsule-summaries-of-all-twitter.
1「国家安全保障戦略」の中では、「偽情報の拡散を含む情報戦対策」という表現が用いられている。一方欧米諸国では、関連の対策について、偽情報対策(disinformation countermeasures)と称されることが多い。
2 情報戦とは、自国の情報空間をコントロールし、自国の情報へのアクセスを防護しながら、相手の情報を取得・利用し、情報システムを破壊し、情報の流れを混乱させることで相手に対して優位に立つ作戦を指す。その中で虚偽または誤解を招く情報が用いられる場合もある。