ロシアの政治体制が権威主義体制であり、その中でもウラジーミル・プーチン大統領を中心にした個人支配体制であるとはしばしば指摘されるところである。では、なぜ・どのようにプーチンの個人支配体制が成立したのだろうか。本稿では、国際的な要因に焦点を当てて考えてみたい。
高度個人支配体制
近年の権威主義体制研究では、権威主義体制をラテンアメリカで見られたような軍部独裁、ソ連や中国を代表とする政党独裁、そしてアフリカ諸国や今日の中央アジアに見られる個人独裁の三つに分類することが多い1。また集団指導体制の独裁と個人独裁で分類する立場もある2。いずれの分類にしても、個人独裁が権威主義体制の一つの典型例を成している。とはいえ、個人独裁にはその度合いが低いものから、独裁者に高度に依存したものまで想定されよう。ここでは、高度個人支配体制を、個人独裁の中でも突出して個人支配化が進んだものと考える。大テロル以後の個人崇拝が進んだスターリン体制はその典型例を成すものである。この体制下では、指導者の恣意による支配がまかり通るので、公式の制度の形骸化と非公式な意思決定が一般化する。スターリンに関する研究は、意思決定が極度に個人化されていた様を描き出してきた3。
プーチン下のロシアにおいて、個人支配化が進展してきた点に関しては、近年優れた研究が行われてきた。バトゥーロとエルキンクは、計量分析を駆使して、プーチンの人脈がエリツィン時代からの生き残りの人脈などを排除していく過程や、その人脈による政治制度の形骸化(脱制度化)の過程などを明らかにした。それによると、2004年頃からプーチン人脈が他の人脈を排除するような傾向が強まり、2008年ごろにはプーチン人脈が圧倒的となった。そしてプーチンが大統領に復帰する2012年頃には、プーチンは自身の人脈にも拘束されない圧倒的な支配者になったという4。
では、このような個人支配化が進展する要因として、何が挙げられるだろうか。多くの場合、もっぱら国内の政治力学によって説明されてきたといえよう。国内の政治派閥間の闘争での勝利、独裁者の行動を制限する制度の脆弱性などである5。
個人支配体制成立の国際的起源
とはいえ、個人支配体制の成立に国際的な要因の影響はないのだろうか。スターリンの高度個人支配体制の確立の大きな契機となった大テロルの背景として、ナチス・ドイツの成立による戦争に対する恐怖心があったとはしばしば指摘された。しかし、体制変動の国際的な波及の研究では、従来、欧米などの民主制の国と関係が深い国は民主化しやすいという単純化された関係が想定されてきた6。こうした定式化の下では、ロシアや中国といった権威主義体制の中核にある諸国は、権威主義体制を拡散する主体であって、中核自体の権威主義化は国内の政治力学によって説明されるほかない。
こうした議論に対し、異なった観点から権威主義化の波を理論化したのが、主にラテンアメリカ諸国を研究するウェイランドである。ウェイランドは、1970年代のラテンアメリカ諸国における軍事政権成立の波を、キューバ革命の波及に脅威感を覚えた既存エリートの国内秩序維持に起源を求めた7。この際、当該国で客観的に共産主義革命が生じる条件がそろっているかは問題ではない。むしろ、政治エリートが共産主義革命を脅威だと主観的に認識していることが重要である。ラテンアメリカ諸国では、客観的に見てキューバ革命に追随する革命が生じる可能性は低かったが、軍部をはじめとした政治エリートたちは主観的には脅威感を抱き、客観的な必要以上に抑圧的な体制が成立した。
ここで、キューバ革命を旧ソ連諸国の「民主化革命」と置き換えた場合、ロシアの政治エリートが「民主化革命」に覚える脅威感がロシア国内政治に与える影響を理解できる8。2000年代のいわゆる「色の革命」や2011-12年の「アラブの春」、2011年末から12年にかけてのロシアでの抗議運動、2014年のウクライナのユーロマイダン革命に至るまで、プーチンをはじめとする政権エリートは「すべてアメリカの策謀によって生じた」という認識を持つに至った。この認識が真実であるかどうかはここでは問題ではない。政権エリートが、主観的に信じ込み、その認識に基づいて行動した点が重要である。例えば、「色の革命」に対抗して、2005年に愛国主義的若者組織の「ナーシ」を組織した9。また、2012年には外国から資金を受けて政治活動をしているNGOを「外国のエージェント」として登録する法整備がなされた。その後も抗議活動の規制強化などが行われた。こうして、民主化促進に脅威を覚えた政権エリートが抑圧的な政策を強化する傾向がみられた。
もっとも、民主化促進がロシアでは権威主義化を招いたとしても、どのような権威主義体制になるのかを決定するわけではない。ラテンアメリカに見られたような軍事政権でもなく、共産党体制のような政党支配でもない、個人支配体制に接近した理由の一つは、ロシアの政治エリートが抱いた安全保障恐怖症にあると考えられる。1930年代のソ連においてスターリンをはじめとした指導部が対独恐怖症を抱き、それが大テロルとスターリンの個人支配誕生の一因になったことにも見られるように、安全保障恐怖症は、高度に個人支配化された権威主義体制を生み出しがちである。
ソ連解体後、西側に対するロシアの安全保障環境はジグザグをしながらも悪化していったといえよう。1999年のNATO(北大西洋条約機構)によるコソヴォ空爆は、ロシアのNATO認識に大きな影響を与え、1999年と2004年のNATOの東方拡大、特に第二次拡大は、ロシアに大きな脅威感を植え付けた。「色の革命」を経験したジョージア(グルジア/サカルトヴェロ)とウクライナがNATO加盟を目標としたことは、西側による民主化促進をロシアに対する安全保障上の脅威としても認識する傾向に拍車をかけた。2022年に始まるウクライナ侵攻の直前にロシア側がウクライナのNATO非加盟を書面によって保証せよと要求していたのはよく知られている。客観的に見ればウクライナのNATOへの正式加盟の可能性は当時ほとんどなかったので、観察者にはこの要求は奇異に見えたが、ロシアの指導部は主観的には真剣であっただろう10。
加えて、国民世論一般の間でも、対外脅威に対抗できる指導者としてプーチンへの支持が高まったことで、彼の個人支配の様相を強めた。ロシア国民がプーチンの功績として最もあげてきた点は、「ロシアを大国として復活させた」ことである。クリミア併合を機に、大国としてのロシアの譲れない一線を示したとして、国民の多くはプーチンを強く支持した。そしてプーチンは組織されざる人々へもアピールし、「全人民の指導者」として立ち現れることとなった11。
こうして対外脅威感を背景に国民からプーチン個人が強く支持される一方で、政権内部での個人支配化も進んだ。独裁体制はしばしば集団指導体制から個人支配へ移行する傾向を持つ12。ロシアでもプーチン個人への権力集中が2004年以降、段階を経て徐々に進んだことが主張されている。それによれば、特に2012年に大統領に復帰して以降、プーチンは他のエリートから抜きんでた存在になったという13。高度個人支配体制が成立したといえよう。
個人主義的政策決定過程の検討:軍事侵攻の決定過程から
この高度個人支配体制が安全保障恐怖症と関連していたのかどうか、ロシアの対外軍事行動をめぐる政策決定過程を事例に簡単に検証してみたい。ロシアでは、個人主義的な政策決定過程と、官僚的な手続きを含めた公式のメカニズムが中心となる制度化された政策決定が交錯してきたことは、政策過程の研究者によって指摘されてきた14。仮に、安全保障により直結する分野で個人主義的決定がなされているとすれば、安全保障恐怖症と個人支配体制に関係性があると想定できよう。
そこで、シリアに対する軍事介入、クリミア半島併合、ドンバス戦争、そして2022年の対ウクライナ戦争をごく簡単に考察してみよう。シリアへの軍事介入では、外務省、軍、諜報機関などの公式の制度が意思決定に影響を与えており、上院からも軍事活動の承認を得た。クレムリンでは、2015年5-8月上旬に正式決定したとされる15。他方、クリミア併合は2014年2月22から23日にかけて、プーチン、パトルシェフ安全保障会議書記、ボルトニコフ連邦保安庁長官、ショイグ国防相、イワノフ大統領府長官(当時)の5人で決定したといわれている16。ここにはラブロフ外相も、メドヴェージェフ首相(当時)もいない。また、ドンバス戦争への関与の決定過程の詳細はいまだにはっきりしないが、安全保障会議などの公式の制度が影響した形跡はない。そもそも、ロシアは関与を否定してきたので、公式の制度が機能する余地がないともいえる。最後に、2022年2月の対ウクライナ戦争では、プーチン、パトルシェフ、ショイグ、ゲラシモフ参謀総長の4人のみで決定したとの説がある17。このうち、ショイグとゲラシモフは意思決定者というより、決定の遂行者として関与した可能性が高いように思われる。すると、肝心の決定はプーチンとパトルシェフのみで行われたことになる。テレビ中継された安全保障会議では、ナルイシキン対外諜報庁長官がプーチンに叱責され動揺する様やラブロフ外相が決定の蚊帳の外に置かれている様を見せつけた。安全保障会議のようなトップ・エリートの間でさえ、合意が存在しておらず、プーチン体制が高度に個人支配化されていることを示した。
いうまでもなく、軍事介入の決定は、どの国でも多かれ少なかれ個人主義的決定がなされがちな分野ではある。しかし、以上の中では、シリアへの介入ではそれなりに制度化された意思決定過程が見られた点には留意する必要がある。これはシリアがロシアにとって安全保障上の脅威ではないのに対して、ウクライナは、少なくともロシアの指導部の主観的には、直接の安全保障上の脅威であったことに関連していよう。直接の安全保障上の脅威に関して決定する際には、「第五列(内部の敵)」を避ける強い誘因が生まれる。これが極度に非公式な意思決定過程となったと推測される。こうして、安全保障恐怖症と個人支配体制には一定の関連性があると想定できよう。
とはいえ、このように高度に個人主義化された決定は、指導者個人の思い込みや偏見、さらには指導者に忖度した情報を直接に反映してしまう可能性が高い。これはロシア・ウクライナ戦争の初期に如実に示された。ウクライナ側の抵抗の強さを読み誤ったばかりでなく、軍事作戦としても極めて杜撰であったことは軍事専門家が主張する通りであろう18。ロシア側がこのような状態を修正するのに、半年以上を要した。
まとめと政策的含意
本稿では、プーチンの高度に個人主義化した支配体制の成立に、国際的な要因が作用している可能性を指摘した。この国際的要因には、旧ソ連諸国における「民主化革命」がもたらした脅威認識やNATO拡大による安全保障恐怖症が含まれる。いうまでもなく、もっぱら国際的要因のみでロシアの権威主義化を説明することはできない。それでも、これまで軽視されがちだった国際的要因を説明に取り込む必要性はあろう。本稿はそのほんの第一歩であり、課題も多い。政策決定過程に関する事例研究は不十分であるし、政策決定過程の研究には資料の量や信憑性の問題も常に付きまとう。にもかかわらず、個人支配体制の特質を明らかにするためには、このブラックボックスに少しでも光を当てなければならない。
本稿の主張通り、仮に「民主化革命」と安全保障恐怖症が、ロシアの高度個人支配体制を生み出すのに貢献したとすれば、ここには政策的含意もあるかもしれない。すなわち、民主化促進といった西側の政策は、時と場合によっては、他国の権威主義化やその強化を促してしまう場合もあるかもしれない。これは、「民主主義国の連帯」の重要性が声高に語られる今日の先進諸国の外交政策に、一定の慎重さが求められることを示唆している。
1 Barbara Geddes, "What Do We Know about Democratization after Twenty Years?" Annual Review of Political Science, Vol. 2 (June 1999), pp. 115-144; エリカ・フランツ『権威主義:独裁政治の歴史と変貌』白水社、上谷直克、今井宏平、中井遼訳、2021年。
2 Milan Svolik, The Politics of Authoritarian Rule (New York: Cambridge University Press, 2012).
3 オレグ・フレヴニューク『スターリン:独裁者の新たなる伝記』白水社、石井規衛訳、2021年。
4 Alexander Baturo and Johan A. Elkink, The New Kremlinology: Understanding Regime Personalization in Russia (Oxford: Oxford University Press, 2021).
5 Henry E. Hale, Patronal Politics: Eurasian Regime Dynamics in Comparative Perspective (New York: Cambridge University Press, 2015); Vladimir Gel'man, Authoritarian Russia: Analyzing Post-Soviet Regime Changes (Pittsburgh, Pa: University of Pittsburgh Press, 2015).
6 Steven Levitsky and Lucan A. Way, Competitive Authoritarianism: Hybrid Regimes After the Cold War (New York: Cambridge University Press, 2010); Valerie J. Bunce and Sharon L. Wolchik, Defeating Authoritarian Leaders in Postcommunist Countries (New York: Cambridge University Press, 2012).
7 Kurt Weyland, "Patterns of Diffusion: Comparing Democratic and Autocratic Waves," Global Policy, Vol. 7, No. 4 (November 2016), pp. 557-562; Kurt Weyland, Revolution and Reaction: The Diffusion of Authoritarianism in Latin America (Cambridge: Cambridge University Press, 2019).
8 アメリカの民主化促進をはじめとした対外的脅威感がロシアの権威主義化を促したと主張する論文として、Keith Darden, "Russian Revanche: External Threats & Regime Reactions," Daedalus, Vol. 146, No. 2 (Spring 2017), pp. 128-141.ウェイランド自身、ロシアの権威主義化が民主化革命へのリアクションであった可能性を論じている。Weyland, Revolution and Reaction, pp. 237-239.
9 西山美久『ロシアの愛国主義:プーチンが進める国民統合』法政大学出版局、2018年。
10 本稿はロシア・ウクライナ戦争の原因を論じるものではない。筆者はロシア・ウクライナ戦争の原因は地政学的な対立と、ドンバスの分離主義運動が交錯したところで生じたと考えている。簡単なアウトラインとして、大串敦「ウクライナ:ロシア・ウクライナ戦争への道」溝口修平、油本真理編『現代ロシア政治』法律文化社、2023年、193‐195頁を見よ。
11 大串敦「全人民の指導者:プーチン政権下のロシア選挙権威主義」『国際問題』2018年11月号(676巻)、5-14頁。
12 Svolik, The Politics of Authoritarian Rule.
13 Baturo and Elkink, The New Kremlinology.
14 Stephen Fortescue, "Institutionalization and Personalism in the Policy-making Process in the Soviet Union and Post-Soviet Russia," in Stephen Fortescue ed., Russian Politics from Lenin to Putin (London: Palgrave Macmillan, 2010), pp. 21-50.
15 松里公孝「シリア戦争とロシアの世界政策」『スラヴ研究』第68号(2021年)、71-105頁
16 Mikhail Zygar', Vsia kremlevskaia rat': Kratkaia istoriia sovermennoi Rossii (Moscow: Intellektual'naia literature, 2016), pp. 336-338.
17 大串敦「ロシアの政策決定過程とウクライナ侵攻:ブラックボックスの中」『ロシアNIS調査月報』第67巻第6号(2022年6月)、20-29頁。
18 小泉悠『ウクライナ戦争』筑摩書房(ちくま新書)、2022年。