はじめに
2019年12月のフォン・デア・ライエン欧州委員長の就任と共に打ち出された欧州グリーンディール、そして、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う経済停滞が、欧州加盟国を温暖化ガス削減政策の更なる推進に向け、ひとつにまとめ上げることになった。その結果、合意に至った欧州復興基金及び2027年までの多年度財政枠組みを受けて、2020年7月に「欧州水素戦略」及び「エネルギー統合戦略」が出され、域内の2050年までの正味排出量ゼロと脱炭素化に向けた動きが急速に加速している。そして、2020年9月には中国は2060年までの、日本は2050年までの正味排出量ゼロを宣言した。
水素という新たなエネルギーに対する関心が国際的にも高まり、ロシアにとってのドル箱市場である欧州でも関連する戦略が出された結果、ロシアの長期エネルギー戦略にも水素エネルギーが俄かに組み込まれることとなった。2020年6月、11年ぶりに改訂・承認された「ロシアにおける2035年までのエネルギー戦略」では、欧州での動きを敏感に反映し、「水素エネルギー」という新たな項目を追加している。7月下旬にはエネルギー省が2020年から2024年までの水素開発ロードマップを作成し、Gazprom及びRosatomが中心となって、それぞれ水素生産・燃料使用のパイロットプロジェクトを立ち上げる方針が打ち出されている。これらの動きを読み込んでいくと、ロシアは水素を石油天然ガスに置き換わる敵と見ているというよりは、欧州が望む気候中立な水素(ターコイズ水素やイエロー水素1)を生産するプロセスの研究(Gazprom及びRosatom)を進めて行き、当然天然ガスより高く売れる水素をプラスアルファの商機として、捉えようとしていると考えられる。また、水素の供給源として最も安価で安定的に供給可能である天然ガスという資源と、天然ガスや水素を欧州まで輸送できる天然ガスパイプライン網というインフラを有するGazprom、そして欧州が望む気候中立な水素となり得る原子力発電による電力を用いた水素生成の主体となるRosatomに光が当てられた。一方、その陰で、LNGを主業とする独立系ガス生産会社のNOVATEK、そして、RosneftやLUKOIL等主要石油会社は政府の政策からは取り残されている。しかし、彼らは独自の解釈で、この脱炭素の潮流に対応して行こうとしている。
石油ガス会社の脱炭素に向けた対応の現状
ロシア最大の石油生産者であり国営企業のRosneftは、政府の動きに敏感に反応し、2020年8月から年内発表に向け炭素戦略策定に着手した。しかし、秋口から長期的な石油生産とクリーンな生産技術開発の重要性を主張し始め、年末に出された炭素戦略も野心的とは言えるものではなかった。炭化水素生産の大幅削減を発表した大株主BPとの矛盾が指摘される中、BPと環境技術協力に関する協力を立ち上げ、批判をかわそうとしている。
業界第二位の民間石油会社であるLUKOILは、フェドゥン副社長を気候変動担当副社長に任命し、脱炭素に向けた情報公開は進める一方で、性急な脱炭素化には慎重な姿勢を貫いている。「ロシアの石油会社は代替エネルギー技術を開発するという高額で意味のないことに没頭するより、森林吸収とCCSに注力すべき」とも断言した(同副社長)。また、「二酸化炭素排出量を相殺することが、世界最大の森林地帯を有するロシアでは可能であり、2025年までに炭素取引システムを導入して欧州に対抗すべき」と、森林吸収ポテンシャルへの注目と欧州が進める国境炭素調整メカニズムへの対策として、炭素取引システムの早急な導入の必要性に着目している。
ロシアにおいてGazpromに次ぐ第二位のガス生産会社であるNOVATEKは、ロシア企業の中では、脱炭素、CCS、水素分野(アンモニア輸送を含む)への関心・実現に向けたベクトルが最も強い。その背景には水素エネルギー開発においては政府の枠組みからは良くも悪くも漏れたため、自由に、経済合理性に従ってカーボンニュートラルLNG及び水素を追求すべく、独自路線を矢継ぎ早に出し、プロジェクト実現に邁進している。
世界最大のガス企業体であるGazpromは、天然ガスからの水素生産では、新たなCAPEX投下が少なく、二酸化炭素排出量の少ないメタン熱分解(ターコイズ水素)に注目していることが目を引く。パイプラインという既存インフラの保有による優位性の一方で、天然ガスを輸送する現在のビジネスモデルを変更せず、水素生産は需要地近傍で行い、経済性が良いことも認識し始めている。サハリン-2プロジェクトの繋がりからShellとの新エネルギー分野での戦略提携を推進しており、大西洋貿易では初めてとなるヤマルLNGカーゴをカーボンニュートラルLNGとしてShell(英国)へ販売し、関係強化を図っている。
この他、Gazprom子会社の石油部門を担当するGazprom Neftは戦略を見直すことを表明するも化石燃料増産目標は継続している。タタールスタン共和国が保有するTatneftは、2050年までに炭素中立を目指す計画を2021年2月に発表し、ロシアではカーボンニュートラルを宣言した最初の石油ガス企業となった。しかし、中期的に化石燃料増産は否定しておらず、炭素中立に向けた具体的な方策も不明のままである。
石油垂直統合型会社だけで8社、ガス産業を専業とする会社2社、中小の石油生産会社が200社程度あると言われる中、現時点でロシアの石油ガス会社で気候変動対策や炭素戦略について表明を行った会社はこれら企業に留まっており、またほぼ全ての会社が化石燃料の増産目標を立てていることが特徴となっている。
ロシア政府の動き
プーチン大統領は「安価で豊富な石油ガスの開発は継続する一方で、ロシアの石油ガス会社はパリ協定に従い、さらに『グリーン』になるべく、脱炭素に向けた投資をせざるを得ない」と述べ、排出量削減ターゲットを規定した温暖化ガス排出量削減に関する法律(政令第666号)を制定した。しかし、ロシアは広大な森林による二酸化炭素吸収を計算に入れており、その実現ハードルは決して高いとは言えない目標設定となっているのが実際だ。プーチン大統領はロシア政府に2050年までにロシアが気候中立な形で社会経済を発展させるための戦略を策定する指示も出しており、ノヴァク副首相は2021年内に温暖化ガス排出削減戦略を発表する予定であることを表明し、また、現在ロシア政府が気候変動への対応と燃料エネルギー産業によって排出される炭素排出量の削減に焦点を当てる「新エネルギー(New Energy)」戦略を策定していることも明らかにしている。さらにロシアは2022年に温暖化ガス排出量規制を導入する予定であり、ロシア政府も矢継ぎ早に温暖化ガス排出量削減に向けた戦略を練りつつある。
カーボンニュートラルを目指す旗艦・宣伝的パイロットプロジェクトとして、当初サハリン州リマレンコ知事が立ち上げたサハリン州域内のカーボンニュートラルを2025年までに実現するプロジェクトが中央政府を巻き込むプロジェクトに昇華している。当初案では水素クラスターを創設し、Rosatom、仏エア・リキッド社、米エアープロダクツ社等と国際コンソーシアムを立ち上げるものだったが、ロシア初の炭素取引パイロットプロジェクトも加わり、経済発展省及びサハリン州政府が具体的なロードマップを作成中。今後実現に向けた方策、対象プロジェクト、そして課題が明らかになるだろう。
世界的な脱炭素の流れ、そして特に欧州が進める国境炭素税という産油ガス国に直接影響を及ぼす事象の発生を受けて、防衛本能としてロシア政府が急速に注目し始めているのが、既に持っている世界最大を誇る資産である森林(ロシア一国で面積では世界の5分の1を占める)である。ロシアという国単体で括るのであれば、ロシア領域に所在する森林による二酸化炭素吸収はロシアが享受するべき「排出権」に等しく、国境炭素税を課される筋合いはないというロジックを成り立たせようとしていると考えられる。
まとめ
2020年は新型コロナウイルスがトリガーとなり、欧州発で経済復興の原動力となることが期待された新たな産業として水素へのエネルギー代替に注目が集まり、それに引き摺られる形で世界各国が脱炭素に大きく舵を切った年だった。
水素産業の発展により、中長期的には化石燃料と同程度まで水素の価格が対抗できるようになるという楽観的な見通しもあるが、産油ガス国は世界の水素へのエネルギートランジションの動きを石油天然ガスに水素輸出という商品が加わる新たな商機と捉えて、その生産・輸送方法の開発に乗り出している。2020年6月、11年ぶりに長期エネルギー戦略を改訂したロシアも敏感に世界の動きに反応し、世界が志向し始めた新たな『水素ゲーム』に供給者として参戦すべく、Gazprom及びRosatomを中心に具体的なプロジェクトを立ち上げている。他方、原油生産を主体とする主要石油会社や業界第二位の天然ガス生産会社NOVATEKは、この『ゲーム』の蚊帳の外に置かれている。しかし、彼らは独自に炭素・水素戦略を練り、この潮流に対応しようとしているが、一部の欧米メジャーが進める野心的な脱炭素戦略とは異なり、石油ガスを抽出するための、より効率的でクリーンな方法を模索し、化石燃料の生産維持又は増産目標を立てていることが特徴となっている。また、世界最大の森林資産を有するロシアはその二酸化炭素吸収能力をロシアが享受すべき「排出権」として主張し始めており、欧州が導入しようと検討している国境炭素税に対抗しようとしている。
(了)