アラブ諸国の大敗に終わった1967年の第3次中東戦争直後、アラブ首脳はイスラエルと「和平せず、交渉せず、承認せず」を決議した。アラブの「三つのノー」として知られるこの宣言が今、アラブ世界で言及されることはほとんどない。それどころか8月から9月にかけてアラブ首長国連邦(UAE)とバハレーンが相次いでイスラエルと国交を樹立したが、それに対するアラブ諸国の反応はおおむね支持か好意的なものだった。パレスチナ問題を棚上げにしたまま、アラブ諸国のイスラエルへの姿勢は何故これほどまでに大きく変わったのだろうか。この変化はパレスチナ問題にとって何を意味するのだろうか。
安全保障から経済や技術まで
9月15日にホワイトハウスで行われた調印式でUAE、バハレーン、イスラエル3か国はそれぞれに関係する条約や宣言に調印し、外交関係の正常化に公式に踏み出した。式典でトランプ大統領は「新しい中東の夜明け」と自らの外交的成果を自賛した。しかし、27年前の1993年9月に同じホワイトハウスで行われたイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との間のオスロ合意(暫定自治合意)の調印式のような歴史的な高揚感はまったく感じられなかった。合意は現状の追認であり、錯綜した中東の戦略環境に重大な変化をもたらすものではないからだろう。
UAEとイスラエルが水面下で接触を重ねてきたことはよく知られている。背景として両国にとっての「共通の脅威」イランの存在がよく指摘される。だが2010年にモサドがドバイでハマース幹部を暗殺した際、いったんイスラエルとの関係を絶ったUAEがほどなく接触を再開した理由は、イスラエルの技術を必要としたからだった。経済の多様化をはかり、高度な監視社会を構築しつつあるUAEにとって、イスラエルの技術は必要不可欠のものだ。
イスラエルにとってもUAEとの関係拡大は安全保障上のメリットだけでなく、輸出や投資など多くの経済的利点を伴っている。イスラエルとUAEのいくつかの企業は、早くも新型コロナウイルス分野での共同事業の開始に合意している。一方、サウジアラビアとの関係が極めて強いバハレーンの場合、関係正常化はサウジアラビアの意向を反映したものかもしれない。両国は9月初めに相次いで、アブダビやドバイを発着する「すべてのフライト」、つまりイスラエル機の領空通過を認めている。
これでイスラエルと国交を樹立したアラブの国は、エジプトとヨルダンを合わせ4か国となった。だが4か国を同列に論じることはできない。エジプトとヨルダンの場合、過去にイスラエルとの全面戦争を経験しており、戦争状態終結のための和平合意だった。他方、UAEもバハレーンもイスラエルと戦争をした経験はなく、アラブ世界の一員としてイスラエルとの対決姿勢に歩調を合わせていたに過ぎない。
イスラエルと国境を接していないアラブ諸国のほとんども同じような立場にある。それでもアラブ諸国が長年、イスラエルを拒否してきた背景は、米国の中東学者マイケル・バーネットがいうアラブの「象徴政治」だった。
対イスラエル全面拒否から関係拡大へ
1970年ごろまでアラブ諸国は国家として十分な正統性を持たず、指導者は「アラブの統一」を求める大衆の圧力にさらされていた。そのため各指導者たちは競い合って「アラブの大義」の守護者を演じることで、国民の支持動員を図った。その際、最もアラブ大衆にアピールしたのはパレスチナ問題を取り上げることであり、アラブの指導者たちはイスラエル敵視、パレスチナ支援の看板を下ろすことはできなかった。だからこそ1967年の戦争で屈辱的な敗北を喫したアラブの指導者たちは「三つのノー」を宣言し、イスラエルへのより強い対決姿勢を示したのである。
しかし1980年代に入るとパレスチナ問題をめぐる状況に変化が生じた。イスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を樹立し、イスラエルと共存するという二国家解決案が次第に国際的な支持を獲得した。PLOも「全パレスチナの解放」という原則論から、二国家解決案という現実論に傾き、イスラエルとの和平交渉の可能性を模索し始めた。一連の変化が1993年のオスロ和平合意となり、その後のイスラエル・パレスチナ和平プロセスにつながったことはいうまでもない。
このころになるとアラブ各国の国家基盤も次第に固まり、象徴政治の必要性は減少した。その結果が、サウジアラビアが提唱し2002年のアラブ首脳会議で採択されたアラブ和平案だった。イスラエルが全占領地から撤退し、西岸とガザを領土とするパレスチナ独立国家の樹立を容認すれば、アラブ諸国はイスラエルと和平し関係を正常化するというものだった。つまりアラブ諸国は二国家解決案を追認する形で「三つのノー」という全面拒否の姿勢を棄て、条件付きながらイスラエルとの関係正常化へと舵を切ったのである。
だがこの時にはすでに、いくつかのアラブ諸国がイスラエルと非公式の接触を開始していた。UAEがイスラエルと接触し始めたのはオスロ合意直後ごろからといわれ、1990年代後半にはカタールとオマーンがイスラエルと通商代表部を相互開設している。2000年代に入ると第2次インティファーダの勃発や和平プロセスの停滞で接触は下火になった。それでも関係は途切れず、2010年代に入ると再び活発化した。イランやイスラーム過激派の脅威、「アラブの春」以降の混乱、待ったなしの経済発展の必要性などに直面した多くのアラブ諸国が、イスラエルへの接近にさまざまなメリットを見出したからである。
口実を提供したトランプ和平案
UAEとの合意でイスラエルが西岸併合計画の「一時停止」を約束したことを根拠に、UAEは併合計画を阻止したと主張している。だがネタニヤフ首相が「領土問題で一切の妥協をしていない」と誇らしげに述べているように、イスラエルは占領地からの撤退をまったく約束していない。結局、今年1月にトランプ和平案が発表されたことを機にイスラエルで西岸併合計画が急速に現実味を帯びたことが、皮肉にも「併合阻止」という名目をUAEに提供したといえる。
オマーン、スーダンなどがいずれ後に続く可能性は高い。2002年のアラブ和平案提案国であるサウジアラビアがイスラエルと関係を正常化するには、新たな「口実」が必要かもしれない。それでもムハンマド皇太子(MBS)への権力集中は、イスラエル接近の動きをさらに加速するだろう。 アラブ各国がイスラエルに急接近する中、パレスチナの孤立はますます深まっている。UAEとイスラエルとの国交樹立合意が発表された直後、PLOのアッバス議長(パレスチナ自治政府大統領)は「アラブの大義への裏切り」とUAEを激しく非難した。だがその後、アラブ世界でのいっそうの孤立を警戒し批判のトーンを和らげている。実際、9月9日に開催されたアラブ連盟外相会議は、パレスチナ側が用意していたUAE非難決議案の採択を見送り、二国家解決案支持という従来からの原則を確認しただけだった。
現実味を失った二国家解決案と終わりのない占領
ではアラブ諸国との新しい関係をイスラエルは手放しで喜べるのだろうか。占領地を含むイスラエル支配地域全体の人口バランスは微妙だ。統計にもよるが、ユダヤ人人口とパレスチナ人人口はほぼ同数か、後者が前者を若干上回っている。しかも西岸、ガザに住む約500万人のパレスチナ人は、「自治」という名の下で政治的権利をはじめとする基本的人権をほとんど奪われている。特にガザの約200万人は、パレスチナ人自身が「世界最大の屋根のない刑務所」と揶揄するように、すでに13年以上もイスラエル(およびそれに手を貸すエジプト)の封鎖下に置かれている。
PLOが二国家解決案を受け入れたころ、イスラエルでも「占領のコスト」がさかんに議論された。この場合のコストとは軍事的な負担よりも、力による他民族支配の結果、シオニズムが目指してきた民主主義的な価値観が根底から掘り崩される危険を意味している。イスラエルから見れば、オスロ合意とその後の和平プロセスは、「占領のコスト」という重荷から自らを解放する取り組みのはずだった。だが和平交渉が長引く間に西岸の入植者数は増え続け、今や40万人を優に超えている。しかもイスラエル社会はますます右傾化し、占領地保持を絶対視する宗教民族主義的なイデオロギーが台頭している。西岸併合案は再び蒸し返されるだろう。
こうした現実を前に、過去10年ほどの間に占領地のパレスチナ人の意識は大きく変わった。「明日にも独立」といった熱っぽい議論は消え、世代を超えてでも占領地に留まり、人権問題などを訴え続けるという主張をよく耳にする。二国家解決案に基づくパレスチナ問題の解決が現実味を失った以上、イスラエルはこれからもずっと、自分たちの土地に根を生やして闘争を続ける占領下のパレスチナ人と対峙し続けなければならない。
国際刑事裁判所(ICC)でもイスラエルの戦争犯罪が裁かれる可能性がある。昨年12月、ICC検察官は予審部に対し、イスラエル占領地にICCの管轄権が及ぶか否かの判断を求めた。その要請文に検察官は、イスラエルによる戦争犯罪が行われていると信じるに足る根拠があると記している。西岸、ガザに管轄権が及ぶと判断されれば、イスラエルはICCに戦争犯罪で起訴される公算が強い。
40年近く前に、著名なガザの指導者が私に次のような話をしたことがある。「この土地には古代から、十字軍をはじめさまざまな外部勢力がやって来て国を作った。しかし時間がたつにつれ、彼らもレバント化(地元化)するか、去っていった。イスラエルのユダヤ人もいずれそうなるだろう」と。