はじめに
EU1は海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)を締結するとともに、地中海の海洋環境と沿岸地域の保護に関する条約(バルセロナ条約)や北東大西洋の海洋環境保護のための条約(OSPAR条約)等の地域的な海洋環境保護条約や大西洋のまぐろ類の保存のための国際条約に基づいて設置された大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICATT)等の地域的な漁業資源管理機関に参加することにより、海洋環境の保護に積極的に取り組んでおり、EUが締結する国際条約の締約国会合の場等を通じて、EUの海洋環境保護政策及び法はEU域外国にも様々な影響を与えている。海洋環境の保護の必要性がグローバルな課題として認識され、国連では国家管轄権外区域における海洋生物多様性(BBNJ)の保全及び持続可能な利用に関する新協定の交渉が行われていることから分かるとおり、海洋の利用に当たっては、海域を問わず、環境保護への配慮が求められる時代が到来している。とりわけ、漁業資源の減少に見られるような海洋生態系の破壊は、国々が協力して取り組むべき課題であるが、資源を保護するための国家間の合意形成は必ずしも容易ではない。また、漁業資源以外の海洋生物・生態系の保護については、生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)が存在するものの、同条約の適用範囲は限られており、海洋生物・生態系を保護するには必ずしも十分とは言えない。しかしながら、EUでは漁業資源の管理に持続可能性や予防原則と言った環境保護の視点を取り入れ、漁業資源の管理を行うとともに、それ以外の海洋生物・生態系の保護については、様々なEU法を制定することにより、保護対策を進めている。
EUの海洋生物保護政策
1970年代より、EUは共通漁業政策(Common Fisheries Policy)の一環として、漁獲対象となる漁業資源に関しては、漁獲量や漁業方法等EUレベルで規制してきた。共通漁業政策の当初の目的は、魚の価格や漁獲量をEUレベルで決定することによって、魚や水産加工品のための共同市場を構築することであり、純粋に経済発展を目的とした政策であった。しかしながら、EUは1979年に制定した野鳥指令2及び1992年に制定した生息地指令3に基づき、環境政策の一環として陸・海に保護区を設定し、保護区のネットワーク(Natura2000)を作ることによって、生態系及び生物の保護に取り組むようになった。その結果、当初は共同市場の形成という経済的な目的のために導入された共通漁業政策に加えて、海洋環境の保護という視点から、漁業資源を管理する必要性が加盟国間で共有されるようになった。現在では漁獲の対象となる魚類を含めた海洋生物の保護に関し、EUの共通漁業政策と環境政策が相互に関連するようになっている。
例えば、2013年に決定された第7次環境行動計画では、EUが世界最大の海域を有しており、海洋環境の保護を確実に実施するための重要な責任を負うことが明記されている。2020年までの具体的な行動目標として、共通漁業政策、海洋戦略枠組指令及び国際条約に基づいて健全な魚数を確保すること、Natura2000に基づく海洋保護区を完成すること等を挙げ、EUは漁業を始めとする経済活動に際しても生物及び生態系保護の観点を重視した政策を実施している。
漁業資源以外の海洋生物・生態系の保護については、1998年、欧州委員会は、生物多様性の保護を他の政策分野にも統合させることを提言した生物多様性戦略に関するコミュニケーション4及び生物多様性戦略5を初めて公表した。この戦略はEUが締結した生物多様性条約6条(a)に基づき、生物多様性を保全し保護するためのEUの政策枠組みを示すものであり、以後、およそ10年ごとに作成されている。さらに、2001年には、生物多様性行動計画を作成し、海洋生物多様性の保護についても詳細な政策6を策定している。EUにおける海洋生物・生態系保護の中心となる政策は、野鳥指令や生息地指令に基づくNatura2000のネットワークを構築することである7。2019年末時点で、陸の18%、海域の8%強が保護区に設定され、EU域内に生息する希少な種や存亡の危機に瀕している種の保存に貢献している。
生物多様性戦略2030
2020年5月、欧州委員会は2030年に向けた生物多様性戦略2030(Biodiversity Strategy for 20308)を公表した。これは対内的には、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長が提唱する欧州グリーンディール(European Green Deal)の一部をなす政策であるとともに、COVID-19による打撃からの回復への中心的な手段と位置付けられており、今後10年間のEUの生物多様性保護政策の基本指針を示すものである。対外的には、2021年後半に延期された生物多様性条約第15回締約国会議(昆明市、中国)で話し合われる予定である2020年以降の新たな生物多様性の世界目標に関するEUの提案を表明するという意義がある9。EUの生物多様性戦略2030は、直近の目標として2030年までに生物多様性を回復の途上に乗せることを明記するとともに、長期的な目標として2050年までに世界全体のエコシステムを再生し、回復力のある、適切に保護された状態にするという野心的な目標を掲げている10。
このような目標を達成するためには、自然保護の強化が必要であり、これまで目標としていた2010年の愛知目標(陸上での保護区を17%、海上での保護区を10%にする)では不十分であるとして、2030年までに陸上及び海上における保護区のEUネットワークを各段に広げることを目標とする11。具体的な数値目標として、EU域内の陸上及び海上のそれぞれ30%を保護の対象とすると規定する12。さらに、30%という目標を達成するためには、陸上及び海上のそれぞれ10%の区域を「厳格に保護される地域」として管理しなければならないとする13。なお、現在EUは「厳格に保護される地域」として、陸の3%、海洋の1%を指定しており、生物多様性戦略2030の目標に基づくと、陸上でも海上でも「厳格に保護される地域」を大幅に増やさなければならないことになる。
EU全体でこのような保護区設定目標を達成するために生物多様性戦略2030は具体的なロードマップを提示する。それによると、欧州委員会は保護区を設定するための新たな基準を2021年末までに作成し、加盟国は2023年末までに新たな保護区を法的拘束力のある形で設定するための実施措置を推進していなければならないとされている。なお、欧州委員会は2024年までに2030年の目標を達成できるか、加盟国の取り組みを評価することが予定されている14。
さらに、生物多様性戦略2030は、破壊されたエコシステムを再生するために「EU自然再生計画」を作成することを提言する。生物多様性の再生に焦点を絞ったEUレベルでの活動を生物多様性戦略2030に盛り込んだ背景には、生物多様性を「保護」するだけでは十分ではなく、2050年の長期目標を達成するためには、失われた生物多様性を取り戻す必要があり、そのためには自然を再生する必要があるという考えがある15。自然環境の再生については、野鳥指令、生息地指令、海洋戦略枠組指令等、既存のEU法に規定されている。しかしながら、欧州委員会は、これら既存の枠組みは効果的に実施されておらず不十分であるため、より強力な支援及び履行確保のための措置が必要であると述べる。具体的には、欧州委員会が法的拘束力のあるEUの自然再生目標を2021年中に設定すること、及び、保護の対象となっているすべての種について、保護対策を2030年まで後退させないことの確保を加盟国に求めることである16。海洋生態系の再生については、特に、海洋資源が持続可能な方法で摂取されることの確保、違法な手段による摂取を寛容しないと規定している点に注意が必要である。
このように、数値目標を設定し、期限を明記して目標達成にまい進するというEUの政策スタイルは、これまでもEUが環境保護のためにとってきた方法であり、新しいものではない。しかしながら、EUの生物多様性戦略2030の実施については、EUの他の政策とのバランスをどのようにとるのか等、注視すべき点がある。
例えば、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長が提唱する欧州グリーンディール(European Green Deal)では、再生可能エネルギー導入の促進が提言されており、そのための有力な手段の一つが洋上風力発電所の増設である。既に北海海域には多数の洋上風力発電ファームが存在しており、EU加盟国は野鳥指令や生態系指令等の環境保護措置との整合性を考慮した上で建設計画を進めてきたが、今後、生物多様性戦略2030に基づいて海洋保護区を大幅に増やした場合、洋上風力発電ファームの建設をどのように進めるのか、場合によっては、海洋環境保護とエネルギー政策との整合性確保が困難となる場合が生じる可能性や、これまで比較的広範に認められてきた加盟国の領海に関する権限がEU法によって制限される可能性もあり得る。
また、2021年末までに欧州委員会が作成するとされている保護区を設定するための新たな基準に関し、これまでEU法に基づいて制定された基準とどの程度異なるのか、国際的な海洋保護区の基準設定議論へも影響を与える可能性もあり、注視する必要があると思われる。