はじめに
2020年6月2日、プーチン大統領は「核抑止の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎について」と題された大統領令に署名した1。ロシア政府は2010年版「ロシア連邦軍事ドクトリン」(1993年版、2000年版に続く3つ目の「軍事ドクトリン」)の採択と同時に「核抑止の分野における2020年までのロシア連邦国家政策の基礎」という文書を採択しているが、その内容は一切非公開とされていた。これに対して今回の大統領令では、その付属文書として「核抑止の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎」(以下、「核抑止政策の基礎」という)全文が公表されている。
そこで本稿では、その主要な内容について紹介するとともに、主な論点を整理してみたい。
1.核兵器の役割
「核抑止政策の基礎」は、「I.総則」、「II.核抑止の性質」、「III.ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件」、「IV.核抑止の分野における国家政策の実施に関与する連邦政府機関、その他の政府機関及び組織の機能及び任務」の計4章から構成される。
このうち、第1章「総則」は、核抑止に関するロシアの基本的な考え方を示した箇所である。その第4パラグラフによると、「国家の主権及び領土的一体性、ロシア連邦及び(又は)その同盟国に対する仮想敵の侵略の抑止、軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」ことが「核抑止の分野における国家政策」の目的であるという。つまり、核兵器は抑止が破れたのちにも紛争のエスカレーションを防ぎ、最悪の事態に至る前にこれを終結させる手段である位置づけられていることになる。
他方、第5パラグラフでは「ロシア連邦は、核兵器は専ら抑止の手段であり、その使用は極度の必要性に駆られた場合の手段であると見な」すとされている。これは米国のオバマ前政権が掲げた「唯一の目的(sole purpose)」論、すなわち核兵器の目的を敵の核攻撃抑止に限定して通常攻撃抑止は通常戦力を用いるという姿勢を想起させるが、仮に第5パラグラフがロシア版「唯一の目的」論であるとすれば、抑止が破れたのちにも核兵器の役割を規定した第4パラグラフとは矛盾をきたすことになろう。
ただ、「核なき世界」を掲げるオバマ政権といえども、核兵器の役割を抑止に限る「唯一の目的」化は見送られ、同政権の核戦略文書である2010年版「核態勢見直し」(NPR2010)では、「唯一の目的」化は今後の「目標」とするに留められた。ロシアとしても、米国との関係が悪化する中で核兵器の役割を極度に低減させることは現実的ではあるまい。さらに現トランプ政権下で公表された、2018年版「核態勢見直し」(NPR2018)では、「唯一の目的」論は明確に否定され、非核攻撃を含む広範な事態に対して先行使用を含めた核兵器の使用が検討されるとしている2。
第4パラグラフの内容とNPR2018とを補助線として読めば、第5パラグラフのいう「専ら抑止の手段」という文言は、核攻撃に限らない広範な脅威の抑止を意味しているのであり、核兵器が使用される「極度の必要性」にも実際はかなり広い幅が想定されることになろう。第4パラグラフでいう「軍事活動のエスカレーション阻止」が敵の核攻撃に限定されていないこともこのような見方を裏付ける。
2.核抑止に関する原則的な考え方
第2章「核抑止の性質」は、核抑止に関するロシア政府の一般的な見解をまとめた箇所であり、その冒頭の第9パラグラフ(パラグラフ番号は原文に振られたものであり、第1章から続き番号となっている)では「核抑止とは、ロシア連邦及び(又は)その同盟国を侵略すれば報復が不可避であることを仮想敵に確実に理解させるようとするものである」ことが明らかにされている。ロシアの核抑止力は同盟国に対する拡大抑止(extended deterrence)を含むものであり、これらに対する侵略はロシアによる確証報復(assured retaliation)を招くということである。
後者については、第10パラグラフにおいて「核抑止を担保するのは、核兵器の使用による耐え難い打撃をいかなる条件下でも確実に仮想敵に与え得るロシア連邦軍の戦力及び手段の戦闘準備並びにこの種の兵器を使用することについてのロシア連邦の準備及び決意である」とされており、「いかなる条件下でも」(例えばロシアの核戦力を狙った武装解除打撃を敵が企図しても)なお確実に耐え難い報復を行う準備と意思がロシアにはあることが示されている。さらに第11パラグラフでは「核抑止は、平時、侵略の危険が差し迫った時期及び戦時を通じ、実際の核使用が始まる直前まで切れ目なく実施される」として、通常攻撃による戦闘が始まってもロシアの核抑止力は機能する(核抑止下での限定通常戦争は可能である)ことも明示された。
第2章第12パラグラフは、核抑止によって中立化されるべき軍事的危険性(軍事ドクトリンでは「軍事・政治的及び戦略的環境の変化によってロシア連邦に対する軍事的脅威(侵略の脅威)に発展しかねない要素」とされ、「核抑止政策の基礎」でもこの定義が踏襲されている)を次のとおりとしている。
- ①ロシア連邦及びその同盟国の領域及び海域に隣接した地域において、核運搬手段をその構成要素に含む仮想敵の通常戦力グループが増強されること
- ②ロシア連邦を仮想敵と見做す国家がミサイル防衛システム、短・中距離巡航ミサイル及び弾道ミサイル、精密誘導兵器及び極超音速兵器、攻撃型無人航空機、指向性エネルギー兵器を配備すること
- ③宇宙空間にミサイル防衛手段及び攻撃システムが設置・配備されること
- ④諸外国が核兵器及び(又は)その他の大量破壊兵器並びにそれらの運搬手段を入手し、ロシア及び(又は)その同盟国に対して使用され得ること
- ⑤核兵器、その運搬手段、その製造に必要な技術及び設備が管理されずに拡散すること
- ⑥非核保有国の領土に核兵器及びその運搬手段が配備されること
このように、ロシアが核兵器によって抑止を目論む対象は幅広い。通常戦力であっても核運搬手段を含むもの(例えば核巡航ミサイルを発射可能な艦艇や航空機)、核兵器に限定されない各種兵器、ミサイル防衛システム、宇宙兵器はもちろん、核拡散も抑止の対象である。ただし、その主眼が米国やその同盟国に置かれていることは明らかであり、第13パラグラフではこれを「ロシア連邦の核抑止は、ロシア連邦を仮想敵と見做し、核兵器、その他の大量破壊兵器、非常に大きな通常戦力ポテンシャルを有する特定の国家及び軍事的連合(ブロック、同盟)に対して実施される」と表現している。
興味を惹かれるのは、第15パラグラフに掲げられた「核抑止の原則」に「核抑止に関する戦力及び手段の構造及び構成を合理的なものとすること並びにこれらが与えられた任務を達成する上で最小十分な水準に保つこと」という文言が見られる点である。これは一種の最小限抑止戦略と読めなくもないが、「最小十分」の具体的な内容については言及がない。第13パラグラフに示されているとおり、核抑止の主眼が米国及びその同盟国であることを考えれば、「最小限」といってもその規模はかなり大きなものとならざるを得ず、実際に現在のロシアが保有する核戦力は米国に次いで世界第2位(戦術核戦力に限れば世界最大)の規模である。
3.核使用基準
第3章「ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る基準」はさらに興味深い点を多々孕んでいる。これまでほとんど明らかにされていなかったロシアの核兵器使用基準がかなり具体的に示されているためである。第17パラグラフ及び第18パラグラフは現行の2014年版「軍事ドクトリン」と全く同一であるが、第19パラグラフ及び第20パラグラフではこれまで明らかにされていなかった内容が示された。
第19パラグラフ
ロシア連邦による核兵器の使用の可能性を規定する条件は以下のとおりである。
- ①ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域を攻撃する弾道ミサイルの発射に関して信頼の置ける情報を得たとき
- ②ロシア連邦及び(又は)その同盟国の領域に対して敵が核兵器又はその他の大量破壊兵器を使用したとき
- ③機能不全に陥ると核戦力の報復活動に障害をもたらす死活的に重要なロシア連邦の政府施設又は軍事施設に対して敵が干渉を行ったとき
- ④通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家の存立が危機に瀕したとき
ロシア連邦大統領は必要に応じ、ロシア連邦による核兵器使用の準備、核兵器使用に関する決定の採択、その使用の事実に関して外国政府及び(又は)国際機関に対して通告することができる。
このうち、第19パラグラフ②及び④は第17-18パラグラフの内容を繰り返したものであり、したがって既知の2014年版「軍事ドクトリン」と同様である。他方、①及び③は、従来の宣言政策よりも踏み込んだ内容を含んでいる。
①はいわゆる警報下発射(LoW: Launch on Warning)ドクトリンと読むことができるが、誤認発射などの危険性があることから冷戦期の米ソもLoWは採用していなかったと言われる。パーヴェル・ポドヴィグがソ連軍需産業委員会の重鎮であったゲンナジー・フロモフのメモを基に詳細に論じているとおり、ソ連の核報復の発動要件はOU=otvetnyi udar(核弾頭が着弾した後の発射)またはOVU=otvetno-vstrechnyi udar(一部の核弾頭が着弾し、さらに核弾頭が飛来しつつあるとの警報が発せられている中での発射)であって、LoWに相当するVU=vstrechnyi udar(警報のみによる発射)は採用されていなかった3。
それが今次「核抑止政策の基礎」に盛り込まれた理由について、カーネギー財団モスクワ・センターのドミトリー・トレーニン所長は、武装解除打撃に対する懸念の高まりを感じたロシア政府指導部が西側に対して発したメッセージであるとしている4。すなわち、INF(中距離核戦力)条約を脱退した米国がロシアの近隣地域に中距離攻撃手段を配備し、なおかつMD能力を一層充実させる可能性や、米国による低威力SLBM(LY-SLBM)の配備、さらにドイツの戦術核兵器をポーランドへと移設するという議論に鑑みれば、ロシアの核抑止力(特に戦略核部隊の指揮所)が先制的な武装解除打撃を受ける可能性が高まり、脆弱性が増すため、LoWで抑止の信頼性を確保しようとしている(武装解除打撃を試みても着弾前に報復される)という見方である。特にトレーニンはロシア近隣に対するINF配備の可能性を重視しているが、前述のプーチン発言が米国によるINF条約脱退宣言(2018年10月20日)の直前であったことからしても、この見立てには一定の説得力があろう。
③については、これが核攻撃や、通常兵器による攻撃でさえなく、「干渉(vozdeistvie)」とされている点が多くの論者の注目を集めた。物理的な損害を生じさせる軍事行動だけでなく、「干渉」が核使用の要件となるならば、例えばサイバー攻撃であっても核兵器が使用されるとも読めるためである5。ただ、ロシアが本当にサイバー攻撃に核兵器で報復するかと言われれば、その蓋然性は薄いように思われる。唯一考えられるのは、米露が通常兵器による戦争状態に陥り、米国による武装解除打撃が差し迫っていると判断される状況でサイバー攻撃を受けるといった状況であろう。
他方で、第19パラグラフには、第1章第4パラグラフで謳われている「エスカレーション阻止」のための核使用が含まれていない。戦場での優勢を確保するためだけではなく、敵に戦闘の継続を諦めさせたり、あるいは第三者の戦闘参加を諦めさせるために限定的な核使用を行うという核戦略(西側では「エスカレーション抑止」や、エスカレーション抑止のためのエスカレート(E2DE)という語が用いられる)をロシアが持っているのではないかという議論は、西側の軍事専門家の間で度々交わされてきた。特に懸念されたのは、ロシアが旧ソ連地域内で軍事介入(グルジアやウクライナに対するそれのような)に踏み切り、西側がこれを実力で阻止しようとした場合に、西側との戦闘が始まる前に予防的な核使用をロシアが行う可能性である。米国の2018年度版「核態勢見直し」では、こうした状況に対応できる低威力核兵器としてLY-SLBMの開発と配備が盛り込まれた。
他方、E2DEがロシアの核運用政策に含まれているとは考えがたいという懐疑論は根強い。例え低出力かつ限定的なものとはいえ、予防核攻撃を行った後に西側がどう反応するかは不確実であって、エスカレーションのリスクがあまりにも大きいためである。
この意味では、「核抑止政策の基礎」は、西側における議論に決着をつけるものとは言えない。「核抑止政策の基礎」にはたしかに、エスカレーション「阻止」という文言は盛り込まれているが(第4パラグラフ)、この文言は具体的な核使用の基準を列挙した第19パラグラフには含まれていないためである。結局、「エスカレーション抑止」がロシアの核戦略であるかどうかは依然曖昧なのであるということになろう。米CSIS(戦略国際問題研究所)のロシア専門家であるオリガ・オライカーは、この曖昧性は核兵器による抑止戦略と核使用戦略を意図的に混同させた、戦略的なものであるとしている6。つまり、西側に対するメッセージとしての「エスカレーション抑止」は核抑止の性質に関して述べた第4パラグラフに記載しておくが、具体的な核使用基準を定めた第19パラグラフには含めなかった、というのがオライカーの見立てである。言い換えれば、ロシアの「エスカレーション抑止」は一種の戦略的コミュニケーション戦略(非公式な形の宣言政策)なのだということになろう。これは前述のLoWや「干渉」に対する核報復についても当てはまる。
ただ、以上を以てロシアには「エスカレーション抑止」戦略など存在しないのだと断じるのも早計である。米国のNPRと同様、「核抑止政策の基礎」は宣言政策と対になる運用政策そのものではない。運用政策とは、これら概念文書の指し示すところにしたがって策定される具体的なターゲットやその攻撃手段のリスト(かつての米国のSIOP=単一統合作戦計画や、現在のOPLAN=作戦計画のようなそれ)なのであって、基本的には公表されない最高機密文書である。米国の場合、そうした計画の存在や名称、改訂の時期程度は公表しているが、ロシアがそうした情報を公表したことは一度もなく、おそらくは今後も同様であろう。