1:フォン・デア・ライエン欧州委員会の発足
2020年は新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の世界的蔓延が生じたため、それ以前の事象を忘れがちとなるが、EU政治研究において2019年12月1日は、新欧州委員会発足の日であった。ルクセンブルク出身のユンカー(Jean-Claude Juncker)から欧州委員会委員長のバトンを手渡されたのは、ドイツ出身のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)であった。
新欧州委員会が発足すると、まず注目されるのはその優先政策である。
ちなみに、経済発展優先の色彩の強かったユンカー欧州委員会の優先政策は、①雇用、経済成長および投資の促進、②単一デジタル市場、③エネルギー同盟、④統合された公正な域内市場、⑤統合された公正な経済通貨同盟、⑥合理的でバランスのとれた対米自由貿易協定、⑦司法・基本的人権の領域、⑧移民政策、⑨国際舞台での強力な役割、⑩より民主的な欧州連合(EU)、であった。
これに対して、フォン・デア・ライエン欧州委員会の優先政策は、①欧州グリーンディール、②欧州デジタル化対応、③人々のための経済、④世界におけるより強い欧州、⑤欧州生活様式推進、⑥欧州の民主主義をさらに推進する、となっている。ここで注目したいことは、欧州グリーンディールが優先政策群の筆頭に挙げられていることである。欧州グリーンディールでは、2050年のカーボンニュートラル(温室効果ガスの実質排出ゼロ)を目標とし、それを達成しつつ経済成長も実現する様々な措置が検討された。
2:欧州グリーンディール概要
この欧州グリーンディールについては、2019年12月11日に欧州委員会から提出されたコミュニケ1に詳しい。結論を先んじて述べると、欧州グリーンディールは環境問題にのみ焦点をあてた政策ではなく、気候変動・生物多様性などの環境分野への施策を通じた経済・社会・環境戦略であると捉えるべきだ。
同コミュニケによると欧州グリーンディールとは、①EUが公正で繁栄した近代的な社会、資源の効率的利用を伴う社会、および競争力のある経済を伴う社会に移行するための戦略であり、そこでは②2050年までにカーボンニュートラルが達成され、③経済成長と資源利用のデカップリング(切り離し)が達成される(p.2)、とする。つまり、環境政策(とくに気候変動政策)のみならず、経済戦略の側面も色濃く反映されているのが大きな特徴である。
また、欧州グリーンディールの目的に目を移すと、①EUの自然資本を保護・保全・促進し、②環境関連のリスクや負の影響から市民を守るために、その健康と福祉を守ること(p.2)、とされる。ここにおいて、欧州グリーンディールは社会政策の側面も持つことになる。つまり、欧州グリーンディールにおけるキーワードとしては、経済、社会、環境(持続可能性)を挙げることができ、いわゆるトリプル・ボトムラインの考え方に基づいた政策であるといえる。
3:EUが野心的な気候変動目標を達成するために
EUが野心的な気候変動目標を掲げる地域であることは一般的に知られていることであろう。これはパリ協定締結時のEUのプレゼンスを見れば明らかである。欧州委員会はすでに、2050年までにカーボンニュートラルを達成するべく明確なビジョンを設定している。しかし、欧州グリーンディール発表時、EUにおける現状の政策では、2050年までに1990年比で60%の温室効果ガス排出削減を達成するのが関の山であると考えられた。そこで欧州委員会としては、さらに一歩踏み込んだ経済・社会・環境を統合した戦略を立てる必要に迫られていたと言える。
欧州グリーンディールによれば、欧州委員会は2020年夏までに、2030年までの温室効果ガス排出削減のための責任ある計画を提示することとした。そこでは、少なくとも1990年比で50%、可能であれば踏み込んで同55%の削減が期待された(p.4)。
そのために、いくつかの手法をより精緻化していくことが求められた。そこで提案されたのが以下の三点である(p.5)。
第一は、経済全体を通じたカーボン・プライシング(Carbon Pricing)の導入である。これにより、①温室効果ガス排出の外部費用を内部化することが可能となり、②消費者および企業の気候変動問題への対応・態度に変容を与え、③持続可能な公的・私的投資を促進すること、が期待された。
第二は、EUと同様の野心的な気候変動目標を、可能なかぎり多くの国際的パートナーと共有することである。これにより、気候変動目標の高いEUから気候変動目標の低い他国へと生産拠点が移動することを防ぐことが可能となり、また、気候変動目標の低い国からの製品輸入も防ぐことが可能となる。
そして第三には、第二の点とも関係するが、炭素リーケージ2(Carbon Leakage)への対策である。欧州委員会は欧州グリーンディールに基づき「炭素国境調整メカニズム(a Carbon Border Adjustment Mechanism)」の提案を検討しており、これにより輸入価格がより正確に当該商品の炭素排出量を反映したものになることが期待された。
この三つの手法は、欧州グリーンディールの目的に則して、少しかみ砕いて理解することが必要である。
第一の手法は、環境と社会の両側面を反映している。カーボン・プライシングによって低炭素なライフスタイルや企業経営が合理的なものとなることで、環境負荷および温室効果ガス排出を低減することが可能となる。これは究極的には、経済成長と資源利用のデカップリングをもたらし、持続可能な社会の実現に貢献することになるだろう。また、温室効果ガス排出を明確にコストとして把握することにより、消費者および企業の行動様式の変容にも寄与しよう。より環境にやさしい行動様式が、より高い付加価値をもたらすことに繋がり、大量消費社会から持続可能な社会への移行がもたらされる。
第二の手法は、社会と経済の両側面を包摂していると考えられる。EUが世界に先んじて低炭素社会さらには脱炭素社会への歩を進めることで、他の国や地域の気候変動問題への対応に影響を及ぼすことが可能となる。また、他の国や地域がEUと同様の気候変動目標を共有することになれば、EU域内産業が他の国や地域に移転することで生じる産業の空洞化にも一定の歯止めがかかるであろう。さらに気候変動目標の低い国からの製品輸入を防ぐことで、他の国や地域はEUの気候変動目標に適合した気候変動目標を達成しなくてはならなくなり、そのための政治的・経済的コストを負うことになる。これは、EUの産業にとっては競争力の源泉となるだろう。
第三の手法は、経済の側面を強く有する。EUはこれまで、自らに高い気候変動目標を課すことで、将来にわたり先行者利得(First Mover Advantage)を得ることを企図してきた。つまり、EUが先んじて高い気候変動目標を達成するための技術やノウハウを蓄積し、その後、他の国や地域が高い気候変動目標を達成しようとする際に、EUの低炭素・脱炭素技術およびノウハウを輸出することが可能となると考えてきたのである。今回、欧州委員会はかなり明確な形で、この先行者利得を得る道筋を提示したと考えてよい。それが上述した「炭素国境調整メカニズム」である。このメカニズムに抵触しないようにEUの巨大マーケットに製品を輸出するためには、他の国や地域はEUの技術やノウハウを導入する必要に迫られる。ここにおいて、EUの環境産業(とくに低炭素・脱炭素産業)は国際的競争力をもつこととなる。
4:欧州グリーンディール—何が人々の耳目を集めるのか—
これまでの議論で、欧州グリーンディールの射程の広さと、その戦略の深さに言及してきた。これまでも日本をはじめとしてEU域外国はEU環境政策を観察してきた3が、欧州グリーンディールはこれまでの政策と比較すると、①その射程が広く(環境政策のみならず社会政策・経済政策の色彩を色濃く反映している)、②その戦略が深い(いかにしてEU気候変動政策が他の国や地域に影響力を与え、EU域内産業が国際的に経済的競争力をもつかという点に注力している)。
日本も第二次安倍政権から菅政権に代わり、パリ協定の内容に則した2050年までのカーボンニュートラルを掲げ、さらには2020年11月19日には衆議院本会議で「気候非常事態宣言決議」を自民党・立憲民主党・公明党・共産党など各党の賛成多数で可決した。さらに、2020年11月3日に行われたアメリカ大統領選挙において民主党のバイデン(Joe Biden)の勝利がほぼ確定的となり、温室効果ガスの主要排出国のアメリカもパリ協定への復帰がとりざたされる。
このような国際的趨勢の下で、いざ各国の政治・経済・社会が2050年までのカーボンニュートラルに取り組もうとしたとき、欧州グリーンディールは一つの模範となりうる包括的政策であり、戦略であろう。また再生可能エネルギー産業をはじめとして、EUの低炭素・脱炭素産業は国際的な経済競争力を持つことに気づかされる。
EUでは、1990年代には各部門政策に環境政策を統合するという環境政策統合が図られ、その後、2000年代に経済・社会・環境のバランスのとれた持続可能な発展が目指され、2010年代のユンカー欧州委員会時代にはEU経済の国際競争力向上に注力されてきた。いわば環境と経済の間で大きく振り子が動いているのは他の国や地域と同様である。しかし、EUはその政策立案手法の中でも特徴的なパッケージング(Packaging)によって、今回、経済・社会・環境を包摂した欧州グリーンディールを提示し、それを優先政策の最上位とした。これは2020年に欧州を震撼させたコロナ禍からの復興においても変化していない。
欧州グリーンディールは他の国や地域がベンチマークとすべき政策であるのみならず、EUの今後の世界秩序デザインである点で、人々の耳目を集めうる重要政策であるといえる。
2 厳しい排出削減を設定する国や地域で温室効果ガス排出が削減された結果、排出削減目標の緩い別の国や地域で温室効果ガス排出が増加すること。
3 たとえば、庄司克宏(2009)『EU環境法』慶應義塾大学出版会、大島堅一(2010)『再生可能エネルギーの政治経済学』東洋経済新報社、臼井陽一郎(2013)『環境のEU、規範の政治』ナカニシヤ出版、などが挙げられよう。