新政権発足の背景
2020年6月に、イラクではムスタファ・カーズィミ率いる新政権が発足した。2019年10月から首都のバグダードや南部各地で反政府デモが勃発し、連日多数の死傷者が発生する事態に直面して、アブドゥルマフディ前首相が辞任したことを受け、2003年以降のイラクでは初めて、総選挙以外のタイミングで首相が交代した。
イラクでは、2010年代半ばから何度となく政府への抗議デモが繰り返されてきた。当初、そのきっかけは電力や飲料水といった最低限の公共サービスがまともに提供されないことや、失業問題など、経済的な側面での不満が大きかった。しかし、2019年からの大規模デモでは、そうした経済的要求ももちろん存在するが、それ以上に、汚職対策や政治システムの変革など、政治・行政面も含めた国家の構造改革を求める声が強まっていった。それは、デモ隊が"nurīd watan (we want a homeland)"というスローガンを掲げていたことからもうかがえる。
イラクの政治構造は、議会選挙により選ばれた議員が首相を指名し、首相が閣僚を人選して議会の承認を得ることで組閣し、行政を統括するという議院内閣制の形式を備えている。しかし、イラクの場合、宗派民族間の融和を図るという目的で、ほぼすべての主要政党が与党となって大臣ポストや一定の権益を得る仕組みが形成されてきた。権力を監視する野党が不在ということもあり、主要政党は政界で得られる資源を既得権益として確保しているのが実情である。権力の中枢を牛耳るシーア派政党の力はとりわけ大きいが、その政党の数が主要なものだけでも5つ以上あり、さらにその多くは実際には政党連合であるため、下部に様々な別政党組織が存在する。こうした多くの政党による支持者へのばらまきが、公務員給与額の膨張という形で石油収入を食いつぶす一因となっている。のみならず、各党が経済復興のためのプロジェクトから利益を得るために様々な介入を行い、効率的な行政機能を損なっていることも、経済発展を阻害している。
また、主要政党の多くが武力を保持しているという問題もある。彼らは形式上、警察組織や治安部隊の一部であったとしても、実態はかなり自由にその軍事力を行使しており、首相や国防相、内務相がそれらを抑える力を持っていない。統治構造や権力の所在という点において、建前と現実の乖離が大きく、それゆえ、様々な政策決定において特定の利害関係者の意向が大きな影響を持ち、国家として機能的な意思決定ができていない。その積み重なった結果が、長年の紛争被害からの復興の遅れであり、改善が図られない経済・社会・雇用環境であるといえる。
直面する課題
新政権発足から半年ほどが経ったが、その間にもイラクの課題は山積みである。世界を席捲する新型コロナウイルスの流行はもちろん、イラクも例外ではない。初夏から増え始めた感染者は9月ごろをピークに高止まっており、10月末時点では世界ワースト17位を記録している。さらに大きな問題は、このコロナ禍に端を発した原油価格の下落である。政府歳入の9割以上を原油輸出収入に頼るイラクは、ダイレクトに価格下落の影響にさらされており、OPEC第二位の産油国でありながら、公務員給与の遅配が続く事態に陥っている。
対「イスラーム国」戦が終結して3年近くが経つが、まだ居住地に戻ることができていない国内避難民も少なくない。テロ攻撃自体はかつてより減っており、全体的な治安状況は間違いなく改善傾向にあるのだが、かつてISが支配していた地域では、比較的小規模なテロ事件が今も頻発している。反政府抗議デモは、コロナ禍もあって鎮静化する傾向にあるが、彼らの勢いを削いだ一つの要因が、活動家やそれを報じるジャーナリストへの脅迫や暗殺、さらには暴力を煽る勢力のデモ隊内部への浸透だと言われている。7月には、著名なイラク人研究者が暗殺されたり、ドイツ人教師が拉致されたりする事件も発生した(その後救出されて出国)。また、米軍や米国大使館などを標的としたロケット攻撃や簡易爆弾による攻撃も、1月から9月までの9か月間でそれぞれ60回前後発生しており、3月には英米軍兵士3名の死者も発生した。これら一連の犯行への関与が強く疑われているのが、シーア派を中心とする軍事組織である人民動員部隊である。中でもとりわけ、イランと深い関係を持ち、「抵抗運動」の看板を掲げるヒズボッラ旅団やバドル組織、AAH(アサーイブ・アフルルハック)などの複数の中核組織の関与が濃厚である。こうした人民動員部隊は、治安組織としてだけでなく、政界や経済界でも大きな力をもち、既存の体制における既得権益層を代表する存在となっている。
新首相のイニシアティブ
反政府抗議デモが、既存システムの抜本的な変革を要求し、政党や人民動員部隊といった既得権益層が既存システムの維持を求める中、カーズィミ首相は体制内の改革派として、既存システムの改善を目指していると言える。首相は、閣僚をテクノラート中心の布陣で固め、就任当初から既得権益に切り込んでイラクに改革をもたらす意思を明らかにしてきた。実際、就任以来、治安機関を中心に政府高官の人事を多数行ったり、関税収入を国庫に入れるためにも国境管理を徹底すべく、治安部隊を派遣し、自らも頻繁に視察を行ったりしている。また、汚職捜査を指揮し、これまでに投資委員会の委員長や首相顧問などがすでに逮捕された。さらに重要なことは、米国権益への攻撃を行っているとして、複数の人民動員部隊の事務所を捜索して関係者を逮捕するなど、毅然とした実力行使に出ていることである。しかしながら、そうした実力行使に対しては反発も大きく、結局は逮捕者を釈放するなど尻すぼみに終わることも多い。前首相と比べても、改革に向けたカーズィミ首相のイニシアティブや人民動員部隊を抑え込もうとする意図は明らかではあるものの、劇的な変化をもたらすことは難しいと言わざると得ない。