冷戦後米国の対中外交は、オバマ政権末頃までは一貫して協調的な「関与」政策をとっていると考えられ、トランプ政権が「関与」を脱却して反中政策に転換したとされた。その後の進展はバイデン政権の動向を確定する重要な視点の一つである。ところで、本来「関与」政策とは何を意味し、どう展開したのか。本稿は、この問題を解明するための初歩的作業である。
先ずその概念を確認しておく。一般的な言葉である「関与」は、単なる接触や、それまで無かった関係を作ること、という意味しかない。しかし、エヴァンス(P. Evans)*が指摘したように、政策として特別に言及される「関与」は何らかの「高度政策」であり、何らかの「相互作用の枠組み、構想の理念、個人関係の起動力」等を含意している。現在の戦略論によれば、「関与」は国際システムへの脅威となる台頭国への対応方法である。この方法は、宥和や他の対応(封じ込め、バンドワゴン、降伏、責任転嫁等)とは違い、脅威や武力でなく、漸進的な報奨と動機に基づく。また、「関与」には多様な形容詞の付加が可能である。アドホック、敵対的、強制的、建設的、統制的、複雑、条件的、深い、等である。"con-gagement"(「封じ込め」と「関与」の折衷)はその概念的限度を示す。
対中「関与」戦略の成立
米国の対中関与の源流は冷戦後期、すなわちニクソン大統領訪中から外交関係樹立を経て対ソ準同盟に至る時期である。ただ、この期間の「関与」政策は、それ自体が独立した政策というよりも、基本的に対ソ戦略(「封じ込め」政策)の一環であった。また、レーガン政権が、カーター政権の南アフリカ政府非難に対する有効性を否定し、対応策として「建設的関与」政策を提示したことが、もう一つ源流であると思われる。この二つの源流がG.H.W.ブッシュ政権(1989~1993)により合流したことから、対中「関与」政策の展開が始まった。
G.H.W.ブッシュ政権は、冷戦体制の地殻的変動と天安門事件以降の対中関係動揺から、対中政策の再検討が不可避であった。同政権はアジア・太平洋地域に対しては、「太平洋共同体」の構想の下、APEC(アジア・太平洋経済協力)に参加すると共に、安全保障に関しては放射状型の「ハブ・アンド・スポーク(中心と輻、H&S)」イメージを提示した。中国に対しては、20年に渡って注意深く築きあげた「建設的な」関係の維持を主張し、APEC参加に同意し、H&Sとの関係では、スポークに続く位置に置かれ、人権と自由、核兵器・ミサイル、貿易等の問題解決のために「関与」が必要であるとした。米国内の最大の争点だった最恵国待遇(MFN)更新について、大統領自ら「建設的関与」の重要性を指摘し、経済、戦略的だけでなく道徳的な理由があり、自由と民主主義の対中輸出は正しく、中国孤立は間違いであると主張したのである。
クリントン政権(1993~2001年)は発足後に大統領選挙戦中の対中発言を変更し、基本的に前政権の方向性を推進した。初年はMFN更新を翌年に延期し、APECにおける第1回非公式首脳会議に江沢民国家主席を招待し、翌年には人権問題と分離して、MFNを更新した。しかし、この政策は、中国の兵器輸出への不満もあり、政権内外に激しい論争をもたらした。論争は「封じ込め(containment)から「関与(engagement)」まで広範に展開され、両者の「折衷策(con-gagement)」を主張するものもいた。
クリントン政権内部の議論は「関与」政策に収斂した。同時に政権内部では冷戦中の「封じ込め」に代わる戦略(+標語)を模索しており、その結果1994年7月に『関与と拡大の国家安全保障戦略(NSS-EE)』が提示された。対中関与政策はその中に取り込まれた。ただ、NSS-EEは政策の3本柱(安全保障、繁栄、価値)と「関与」の重要性や、個別的政策への言及は指摘されるが、具体的行動の方針は明確ではなく、具体的指摘は否定形の「孤立主義」、「保護主義」だけであった。対中関与政策は、その後1995年頃から「全面的」という形容詞によって、その重要性が強調されるようになり、NSS-EE(1996年2月)には中国が「全面的関与」に言及され、個別的政策への言及があるが、具体的な行動方針は示されなかった。
1997年5月に戦略文書の標題が『新世紀の国家安全保障戦略』(NSS-NC)と変わったが、依然として冒頭で「関与」の重要性を指摘している。具体的な行動方針は依然として不明確であるが、中国関係では「深い対話」の必要性を指摘している。1998年10月のNSS-NCは、前年の江沢民主席の訪米と同年のクリントン大統領訪中における「対話」とその成果が具体的に記述される。1999年12月のNSS-NCは、対中「関与」の重要性として、副大統領・首相フォーラム(気候・発展)、定期的な閣僚・副閣僚間対話(政治・軍事・安全保障・軍事管理・人権問題)、軍事的海洋安全の協議メカニズム設置、人道的援助・災害救援と環境安全に関する討議、法律実施協力の作業部会設置等に言及した。
2000年12月には戦略文書が『世界時代の国家安全保障戦略』(NSS-GA)と再度変わるが、その後も冒頭で「関与」の重要性に言及し、「関与」の指導原理が利益の保護と価値の推進であるとし、特に軍事力との対比で、模範力の重要性を示し、「関与」の有効性を主張した。中国部分では、先ず「法の支配」の尊重と平和の責任の重要性を指摘し、中国の国際共同体的責任に対するアジアの依存度を強調する。対中協調の具体的成果とともに、中国台頭の潜在的挑戦を示し、軍事力や国際的レジーム遵守への懸念を指摘する。対話について、不拡散と軍備管理に関する1999~2000年の国防長官、国務長官、副長官レベルの交流や成果、朝鮮半島、台湾海峡に関する対話に言及している。
対中「関与」戦略の深化と制度化
G.W.ブッシュ政権(2001―2009年)は、大統領選挙中に中国を「戦略的競争相手」と呼び、政権発足後の2001年4月に中国軍機による米国偵察機衝突事件および大規模な台湾向けの兵器輸出により、対中関係が悪化した。ところが、9.11同時多発テロにより、米国政権は中国を「反テロ大連合」に包括し、広範な協力関係に転換した。10月にはブッシュ大統領が上海のAPEC首脳会議に参加し、対中「建設的関係」に合意し、同年12月のABM制限条約離脱の際には、戦略的対話を提案した。2002年2月のブッシュ大統領訪中で対テロ協力も含む「建設的、協力的関係」が成立し、6月の国防次官訪中で戦略対話が実施された。しかし米国の中国に対する懸念はその後も存在した。9.11直後に刊行された『4年毎の防衛力見直し』(QDR)は、東アジアにおける「巨大な資源的基盤を持った軍事的競争相手」の可能性を指摘した。また、政権は引き続きウイグル人弾圧等の人権問題を非難し、2002年の『核態勢検討』(NPR、非公式)は台湾戦争での核使用の可能性を指摘し、議会報告は大量破壊兵器拡散を強調した。
ブッシュ政権の『米国国家安全保障戦略』(NSS-USA、2002年9月)は、対中関係の方向性として、アジア・太平洋地域戦略の重要な一部に位置付け、「強く、平和的で、繁栄する中国」の台頭を歓迎し、民主主義発展の期待を示した。共産党の遺産、高度軍事力追求による地域的脅威、民族的大国主義の問題等を指摘したが、建設的関係については、対テロ、朝鮮半島、アフガニスタン、環境問題等における具体的な協力を示した。貿易問題については、WTO加盟、両国の利益、制度における中国の公開性と法支配、商業と市民の基盤的保護確立等への期待を示していた。しかしその間も中国警戒感が高まり、2005年の国防省『中国軍事力』は、中国が「戦略的岐路」にあるとし、台湾対応を超えた軍事力増強を指摘した。翌年の『4年毎の防衛力見直し』(QDR)は、中国を「軍事的に米国の競争相手となる最大の潜在力」とし、軍事力の巨大な投資や秘密主義を指摘した。
ブッシュ政権は対中対話の拡大と制度化によって、これらに対応しようとした。最初の具体的行動は2005年8月の上級対話(ゼーリック国務副長官・戴秉国外交部副部長)である。対話後ゼーリックは対話開始の目的として、曖昧なクリントン的「関与」政策ではなく、「戦略的かつ概念的枠組」を議論し、「定期的な関与」を超え、争点横断的かつ統一的な相互理解を追求することとした。そして、両国は国際システムの「共通利害関係者(common stakeholder)」であると指摘した。翌月ゼーリックは国内演説でより明確に対話の戦略的方向性を示した。彼は文革直後と現在を比較して、中国が世界への参加、すなわち国連から世界貿易機関(WTO)へと参加を拡大し、また問題領域での役割もオゾン減少から核兵器まで拡大したことを指摘し、その上で、中国が国際システムの単なる「会員」でなく「責任ある利害関係者(responsible stakeholder)」となるべきであり、それを米国が促進すべきであると主張した。
それ以降米国は中国に対して全面的かつ活動的な対話を展開した。ブッシュ大統領訪中(2005年11月)、胡錦濤国家主席訪米(2006年4月)の首脳レベル対話をはじめ、上記「上級対話」(中国では「戦略対話」)はその後2005年12月、2006年11月、2007年6月と回を重ねた。2006年12月には「戦略経済対話」が始まり、翌年5月にその2回目が実施された。軍首脳も、国防長官が2005年10月に訪中し、透明性欠如を批判しつつ、軍事交流拡大で合意し、2007年11月の訪中ではホットラインの設置で合意した。
ブッシュ政権第2期の『米国国家安全保障戦略』(NSS-USA、2006年3月)は、不完全性を指摘しながらも、中国をアジアの劇的経済成功の縮約として称え、世界的行為主体であり、「責任ある利害関係者」として、国際システムを推進すべきであるとの期待を示した。中国の行動については、指導者の「平和的発展という転換過程を歩む決定」との宣言を言質として、平和的・繁栄的・協力的な中国の台頭を歓迎する。平和的台頭との矛盾に対しては、言及するだけで、具体的な危険性は指摘されていない。
オバマ政権(2009―2017年)は当初、基本的に「建設的関与」を継続した。2009年2月に訪中したクリントン国務長官は、中国の重要性を「死活的」とし、共通の「利益と責任」を有する関係と呼んで、前政権の「上級対話」と「戦略的経済対話」を統合して格上げした「戦略・経済対話」(S&E)を提案した。7月に実施されたS&E では「気候変動・エネルギー・環境分野協力覚書」が成立した。軍事面でも、米国の国防次官、中国の副総参謀長と中央軍事委員会副主席との交流や、海上軍事協議が進展した。
ところが、リーマンショック以降の経済的低迷を脱却し、世界第2の経済大国へと台頭しつつある自信を基盤に、中国の対外姿勢が強硬的自己主張の傾向を示すようになり、米国の懸念が高まった。2010年2月のQDRは中国の「反接近(anti-access)」能力の問題性を指摘した。その頃クリントン長官は国内演説で大国になった中国が「全面的な利益関係者」となることを要求し、いわゆる「トゥキディデスの罠」問題を提起した。
折から中東の兵力撤収を進めていた米国政府は、2011年秋頃か対外戦略の中心をアジア・太平洋に移動する「リバランス」を始めた。中国はこれを対中敵視の強化と見なし、第4回S&E(2012年5月)で胡錦濤国家主席が「新型大国関係」を提案し、トゥキディデスの罠からの脱却を主張し、翌年6月には習近平主席が訪米し、非公式首脳会談で「新型大国関係」を呼びかけた。しかしオバマ大統領は消極的で、コトバでなく具体的行動を要求し、その後公式表現に「新型大国関係」というコトバを使わなかった。
中国はその後も東シナ海での防空識別区設置、西沙諸島沖の石油掘削、南シナ海の仲裁裁判無視、南沙諸島の埋め立て、米国に対するサイバー攻撃等、強硬的自己主張を続けた。米国は、これらの行動を非難しつつ、2014年の『4年毎の防衛力見直し』(QDR)で中国の「接近阻止、領域拒否(Anti-Access/ Area Denial: A2/AD)」とサイバーおよび宇宙空間政策に対する警戒を示し、同盟国・パートナー国の安全保障、普遍的価値、国際秩序等を含む自国の「核心利益」を表明した。また、国務長官および大統領も明確に中国の「太平洋2分」論を否定し、2015年には南シナ海において「航海の自由」作戦を実施した。
しかしオバマ政権は、特に第2期において、以上の対立と併行的に協力・対話を推進した。既述のS&E対話の第4回(2014年7月)では、「新型大国関係」議論の他、戦略部会について116件の「成果」を記録している。オバマ大統領と習近平主席の公式会談は、同年11月と翌年9月に実施された。2014年会談では気候変動問題合意が成立し、中国がCO2排出削減に同意した。ただし、翌年の首脳会談は、成果が少なかった。また首脳会談では軍当局間の①「主要軍事活動の通報」と②「空中及び海上における遭遇の際の安全のための行動規則」という2項目の信頼醸成措置が合意された。軍事交流については、2013年の高官(米国2回、中国3回)、各種協議(6回)、その他(9回)という記録がある。翌年6~8月には米国の環太平洋合同演習に中国海軍を招待した。しかしこれらの進展にも拘わらず、オバマ政権末期には中国への不満が高まり、政権内外に失望感が高まった。
対中失望後の「関与」政策
トランプ政権(2017年~21年)も、大統領選挙中の中国非難にも拘らず、発足当初は積極的な「関与」姿勢を示した。2017年4月には習近平主席の訪米を歓迎し、高級対話制度と軍事対話に合意した。前者は外交・安全保障、経済、法執行・サイバー安保、社会・人文という広範な領域を含んでいた。後者には、国防長官・部長対話、アジア・太平洋安保対話、参謀長対話を含んでいた。11月にはトランプ大統領が主要企業30社の経営者を伴い北京を訪問した。しかし、その後12月の『米国国家安全保障戦略(2017年)』(NSS-USA 2017)は関与政策を明確に否定した。すなわち、数十年間定着していた米国政策の、中国の台頭と戦後国際秩序への統合を支持することにより中国が自由主義化するとの確信に対して、中国が期待に反して他国の主権を犠牲にし、力を拡大したと指摘したのである。以後、中国非難と対抗措置が続くことになる。
ただし、政権内に残る関与的要因は確認しておきたい。国防省の『インド・太平洋戦略』(2019年6月)は、中国を「修正主義的大国」と規定しながらも、「危険低減」を目的に「関与」すべきことしている。すなわち、中国軍との「戦略的対話」及び安全と国際法に一致する専門的行動が必要であり、中国と中国軍が国際的規範と水準に一致する行動をとることにより誤算と誤解の危険を低減すると指摘している。そのため、上級レベルの訪問、政策対話、機能毎の交流を含む、具体的な両国間「軍事的関与」により、それが危険を低減し、危機を防止・管理する手続きを建設し、強化していると指摘している。また、関与否定の極限である「分離(decouple)」については、2019年のペンス演説が「鳴り響く『No!』」と否定していた。また、関与政策の否定的側面として、中国の対米直接行動(いわゆるシャープ・パワー)に対する警戒を示す、副大統領発言、大統領指針、安保補佐官および国務長官の演説等には、今後も注目する必要がある。
バイデン政権は発足後まだ3カ月も経たず、前政権の政策再検討が進行中であるが、早くからインド太平洋政策の重要性を指摘し、3月中にQUADのリモート首脳会談、国務長官・国務長官らの日本・韓国訪問による「2+2」,アラスカ州アンカレッジの国務長官・大統領安保補佐官と中国の党政治局委員・外交部長の会談、とたて続けに政策行動を示した。特に対中国政策については、アンカレッジ会談におけるウイグル、香港、台湾に関する非難、初の大統領記者会見の対「専制主義」闘争の意思等、対抗的な方向性を示している。しかし、同時に気候変動や北朝鮮問題に関しては、協力を追求している。いずれにせよ、トランプ政権でさえ完全には否定されていなかった、「関与」をどのように具体化させるのかは、バイデン政権の興味深い側面であろう。
* Paul Evans, Engaging China: Myth, Aspiration, and Strategy in Canadian Policy from Trudeau to Harper, University of Toronto Press (2014), p. xiii; pp.12-13.