尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領による2024年12月の「非常戒厳」宣言とその後の大統領弾劾訴追は、大きな社会問題である韓国の政治的分極化をさらに深めた。中でも深刻な影響を残しそうなのが、同年4月の総選挙に不正があったのではないかという疑惑が弾劾審判の場でも大きな論点として語られたことだ。次期大統領選を含む今後の選挙では、中央選挙管理委員会への不信を強めた保守派による激しい選管批判が展開されそうである。
今回の非常戒厳で特異だったのは、軍の部隊が即座に中央選管の庁舎に投入されたことだ。背景には、保守系与党「国民の力」の惨敗に終わった国会議員選挙(総選挙)の結果に対する疑念があった。2025年2月25日に憲法裁判所で開かれた弾劾審判での最終弁論でも尹錫悦は、選挙後の訴訟で大量の偽造・不正投票用紙が出てきたし、統計学や数理学的にも納得しがたい結果だったとして「中央選管の電算システムに対する透明な点検の必要性がずっと言われてきた」と主張した1。
弾劾に反対する熱狂的な支持者は、数万人規模の集会を開いて「不正選挙で当選したニセ国会議員を追い出せ」などと叫んできた2。そして、尹錫悦擁護の姿勢を強める与党幹部からも理解を示す発言が出てくるようになった。与党の実質的なトップである権寧世(クォン・ヨンセ)非常対策委員長は、2月17日の記者会見で「大統領も投票プロセスに疑問を抱くほどなら、この点についての徹底的なレビューが必要だ」と述べた3。
こうした主張は、与党支持者に大きな影響を与えている。保守系の韓国紙『朝鮮日報』が1月下旬に実施した世論調査によると、不正選挙疑惑に「共感する」と答えた人が43%に上った。与党支持者に限ると「共感する」人は78%に達した。一方で、最大野党・共に民主党支持者は「共感しない」が88%だった4。
保守派の間に募っていた不信感
韓国では1987年の民主化以降も、選挙で負けた側が不正疑惑を持ち出すことが多かった。同年の大統領選では、盧泰愚(ノ・テウ)に敗北した金大中(キム・デジュン)を擁した平和民主党が「不在者投票と開票のプロセスで不正があった」と主張し、2002年大統領選では自党候補(李会昌(イ・フェチャン))が盧武鉉(ノ・ムヒョン)に敗れたハンナラ党(現・国民の力)が当選無効を求める訴訟を起こした。朴槿恵(パク・クネ)が当選した2012年大統領選についても、不正疑惑が語られた5。選挙に負けると不正疑惑を持ち出すのは、どちらの党派も同じということになる。
近年は特に、保守派が不正疑惑を語ることが増えていた。朝鮮日報系列の週刊誌『週刊朝鮮』は、2023年10月の世論調査で「過去の選挙で外部勢力のハッキングによって投開票が操作された可能性があると思うか」と聞いた。これに対し、進歩派である共に民主党支持者の63.6%が「ないと思う」と答えた反面、国民の力支持者は63.6%が「あると思う」と答えた6。「外部勢力」は、北朝鮮を意味している。同年春に中央選管への北朝鮮によるハッキング攻撃が明らかになったのだが、中央選管は国家情報院に非協力的であると問題視されていた7。
とはいえ、不正選挙の訴えは「負け犬の遠吠え」に近いものでしかなく、実際の政治は粛々と進められてきた。極端な主張で人気を集める政治系ユーチューバ−が訴える定番メニューにはなっても、現実の政治に影響を及ぼすようなものではなかったのである。
にもかかわらず今回は、現職の大統領が不正疑惑を正面から主張した点で異例であった。そして前述した二つの世論調査を比べると、1年半前に63.6%だった与党支持者の不正選挙への疑念が78%にまで跳ね上がっている。質問の仕方が異なるので単純な比較はできないものの、尹氏の姿勢が与党支持者の選挙への不信を強めたか、不信を口にしやすい環境を作ったと考えられそうだ。
選挙への不信を強める若年層
さらに深刻なのは、選挙への信頼が若年層で全般的に落ちていることだ。朴槿恵(パク・クネ)の罷免を受けた2017年大統領選(文在寅が当選)に関する韓国政治学会の世論調査と、非常戒厳を受けて2025年1月に韓国の民間シンクタンクである東アジア研究院が実施した2022年大統領選(尹錫悦が当選)と2024年総選挙(共に民主党が圧勝)についての世論調査を比較すると、選挙に対する信頼度は年を追うごとに落ちていたのである8。
若年層の政治性向については近年、男性が保守派で女性は進歩派という違いが明瞭だと指摘されるが9、選挙に対する不信には男女の違いがそれほど大きくないようだ。2017年、2022年、2024年に実施されたそれぞれの選挙への信頼度は、18〜29歳の男性が90.8%→69.9%→65%、30代男性が91.1%→65%→64.3%、18〜29歳の女性が86.5%→51%→60.9%、30代女性が78.7%→64.4%→70.2%だった。2024年総選挙への信頼度は、30代以下と保守層の多い60代以上で低い傾向が見られたという10。
だが保守派の論客である趙甲済(チョ・ガプチェ)は「2024年の総選挙で、手作業の開票を念入りにして誤差がなかった。これ以降、陰謀論者は静かになっていた。蒸し返して火を付けたのは尹大統領だ」と語る11。北朝鮮による選挙介入を常に警戒せざるをえない分断国家という制約を考慮に入れたとしても、現在の選挙不正疑惑に根拠があると見るのは難しい。
権威主義政権が長く続いた韓国では、国民の直接投票で大統領を選ぶ選挙制度の実現こそが民主主義を体現するものだとされてきた。1987年の民主化後、選挙を通じた平和的な政権交代を繰り返す中で民主主義は韓国社会に定着したと考えられてきただけに、民主主義の根幹である選挙への不信の高まりは極めて深刻な問題だと言えるだろう。
(2025年3月4日校了)