大国間競争の「アリーナ」としての東南アジア
米国の東南アジア政策は、しばしば「曖昧な関与」(ambivalent engagement)、「体系的な軽視」(systemic neglect)などと言われてきた1。ベトナム戦争後の歴代米国政権にとっての東南アジアは、戦略的優先度が低い地域にとどまり、展開された対外政策もおおよそ受動的で一貫性に欠けていた2。米国の首脳・閣僚級の東南アジア訪問は疎らであり、米国とASEANとの首脳級協議が定期化されたのも、オバマ政権になってからのことである。
「米国の高官は東南アジア諸国に数時間ばかり滞在し、米・ASEAN関係の重要性を小気味よく語り、すぐに帰っていく」といった描写は、東南アジアでは長く語り継がれてきた3。地政学的な潜在性は疑う余地はないが、地政学的対立の「アリーナ」となるには、なお時間的猶予があったからである。
バイデン政権が向き合っている現代の東南アジアは、中国の急速な台頭に伴う政治・経済・軍事的な影響力の拡大の主戦場の一つとなっている。南シナ海での中国と沿岸海域国との緊張関係、メコン流域開発をめぐる主導権争い、インフラ開発と融資をめぐる競争、サプライチェーン構築、デジタル経済の普及など、その多くが地域秩序の性格を変動させ、ひいては米国の影響力を揺るがしかねない問題として浮上した。
今日の東南アジアは米中の戦略的競争の「アリーナ」としての重要性を増している4。そこにはかつてのような大国間競争を回避する距離と時間の猶予が存在せず、米中両国と共に関係を良好に保つ余地も狭まっている。しかし、東南アジア諸国の中で米中いずれかと排他的な関係を選ぼうとする国も、依然として存在しない。バイデン政権は、このような東南アジアの新たな戦略的重要性と、東南アジア固有の複雑性に向き合っているのである。
基盤としてのインド太平洋アウトルック(AOIP)
前哨としてのトランプ政権の東南アジア政策は、米中競争の熾烈化に伴うアリーナとしての戦略性の認識と「体系的な軽視」が、いわば渾然一体となって展開された時期だった。トランプ政権の「インド太平洋戦略」(2017年11月〜)では、インド太平洋地域が「自由と抑圧を隔てる世界観で展開される地政学的競争」の場と位置付けられ、そこで強調されたのは中国の軍事的脅威や一帯一路構想への対抗、公平で互恵的な二国間貿易の推進、二国間同盟や日米豪印(QUAD)協力の推進などであり、東南アジアへの言及は僅かに過ぎなかった。米議会においても対中競争を念頭においたイニシアティブが積極的に展開され、「開発につながる投資有効活用」(BUILD)法によるインフラ投資や、「アジア再保証推進法」(ARIA)による開発支援や軍・治安機構に対する能力構築が謳われた。
こうした中、東南アジア諸国の一部には米国の地域関与のあり方にあからさまに違和感を表明する事例も目立つようになった。例えばシンガポール首相のリー・シェンロンは、2019年5月の演説で地域の不安定化の原因として米中の戦略的信頼の欠如を挙げ、中国の台頭を現実として認め、中国との経済的相互依存による恩恵を直視すべきだ、と発言している5。リー・シェンロン演説の核心は、米国の対中戦略に対する異議申し立てと捉えることができる。
2019年6月にASEAN首脳会議で行われた「インド太平洋に関するASEANアウトルック」(AOIP)の発表は、東南アジアを取り巻く戦略環境の変化の中でのASEANの地域秩序の役割の再定義に深く結びついていた6。AOIPはインド太平洋の連結性・包摂性を重視し、大国間対立の抑制を唱え、自らの中心性と仲介者としての戦略的役割を重視する内容となった。米中の戦略的競争を強く意識する米国と、大国間対立の抑制を主眼とするASEANにインド太平洋概念の「同床異夢」を指摘することは容易である。しかし、漂流を深めたように見える米・ASEAN関係に、インド太平洋という共通基盤を見出したことは、その後の政策展開を考える上で軽視することはできない。
バイデン政権の東南アジア政策
2020年春以降のコロナ禍は対面外交の機会を大幅に制約したが、バイデン大統領はオンライン外交を活発に展開し、2021年7月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)非公式首脳リトリート会合、同年10月の米ASEAN首脳会議及び東アジア首脳会議、11月のAPEC首脳会議に参加した。
その中で注目すべきは、2021年7月から8月にかけてオースティン国防長官がシンガポール、ベトナム、フィリピンを訪問し、その後ハリス副大統領がシンガポールとベトナムを訪問したことである。閣僚クラスの米高官の訪問地が短期間に重複することは異例である。こうした訪問の意図や演説を分析することによって、バイデン政権の東南アジア政策の輪郭を探ることは可能であろう。
オースティン国防長官のシンガポール演説では、米国のアジアへの永続的な関与を強調しつつ、中国の台頭によって南シナ海等の現状が変更していることに危機感を表明した。そして、米国がASEAN諸国を含むパートナー国との安全保障協力によって、米国防省の推進する「統合抑止」(integrated deterrence)を推進することが謳われた。
オースティン国防長官は、「中国との対立は望んでいない」、「我々は中国か米国のどちらかを選べとは言っていない」と述べ、ASEAN諸国の戦略的立場への配慮を滲ませた。その一方で、「東南アジアとインド太平洋全域の安全保障上の挑戦に見合う、協力、能力、抑止ビジョンに投資しなければならない」と強調している。東南アジア諸国の自律的な安全保障能力の向上を促す発言と解釈できよう7。
もっとも米国の同盟国であるフィリピンとタイとの関係が停滞したままでは、米国と東南アジアとの安全保障協力は覚束ない。「統合抑止」の推進にしても、厳しい安全保障環境における米軍の戦力投射にしても、東南アジアに確固たる戦略拠点を持ち、東南アジア諸国の自律的な能力と相乗させることが不可欠となる。そのために、訪問先のフィリピンでドゥテルテ大統領が表明した「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)の破棄通告が撤回されたことは、最低限の同盟の基盤回復だったといってよい8。
2021年12月にインドネシアを訪問したブリンケン国務長官は、インド太平洋戦略に関する包括的な演説を行った。同演説ではバイデン政権で推進されるインド太平洋戦略が、①自由・透明・国民に呼応したガバナンスを持った自由で開かれたインド太平洋、②域内外の強固な結びつき、③広範囲にわたる繁栄の推進、④強靭なインド太平洋の構築の支援、⑤安全保障の強化の5つの柱から成り立っていると主張した9。
ここでも強調されるべきは、「ASEANを中核に据えることは、域内構造の土台となる。強固で自立したASEANは喫緊の課題と長期的な課題に取り組む上で必要不可欠」という認識を示していることである。米中関係の対立の可能性を最小限に抑え、制御し、最終的に抑止していくためにも、力強い地域諸国の役割が求められるという認識は共通しているのである。
ウクライナ危機後の米・ASEAN関係
2022年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、米・ASEAN関係に再度の緊張をもたらしている。ASEANは外相声明を通じて「深い懸念」と「最大限の自制と平和的解決を追求する最大限の努力」(2月26日)、「即時停戦とウクライナの平和につながる対話の継続」(3月3日)を求めている。しかし、同声明でロシアの国名には言及せず、ロシアに対する直接的な批判を避けている。
ASEAN諸国の中でもベトナムとラオスは、国連総会におけるロシア非難決議に対して棄権票を投じている。インドが棄権に回った理由と同様に、両国は旧ソ連時代からの関係が深く、ロシア製兵器がその装備体系の中核を占めている。ベトナムはロシアが主導する「ユーラシア経済同盟」と自由貿易協定(FTA)も締結している。
ASEANがロシアに対して断固とした姿勢を示せないもう一つの理由は、ロシアの参加する国際枠組みのホスト国を担っているという事情である。インドネシアがG20首脳会議(11月)、タイがAPEC首脳会議(11月)、ASEAN議長国のカンボジアが東アジア首脳会議を含む関連会議を開催する。本稿執筆時点ではインドネシアはG20首脳会議にロシアを招待する意向で、プーチン大統領も出席を応諾したと報じられている。米欧諸国や日本と比較しても、シンガポールを例外としてASEAN諸国の対ロシア姿勢には及び腰が目立っている。欧州諸国が国際刑事裁判所(ICC)への捜査付託を主導し、ロシアの戦争犯罪を追及する姿勢さえ示す中で、これらの国際会議におけるロシアの地位をどう位置付けるのか、早期の結論が出る様相はない。
ロシアの軍事侵攻という未曾有の国際危機、米中の戦略的競争、ミャンマーの軍事政権への対応、米国が主導する新たな経済枠組み、経済安全保障とサプライチェーン見直しなど、米・ASEAN関係をとりまく戦略的課題は多い。米国のASEAN諸国に対する期待は増す一方で、ASEAN側は戦略的自律性を蝕まれ、大国間競争の下で外交的選択肢を失う懸念を深めている。