研究レポート

人の移動とエコノミック・ステイトクラフト〜マリエル危機を例に

2021-08-16
上英明(東京大学大学院総合文化研究科准教授)
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「経済・安全保障リンケージ」研究会 FY2021-3号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

近年、経済制裁から報復関税、投資規制にいたるまで、エコノミック・ステイトクラフトと呼ばれる外交術が注目を集めている。この「国家が自らの戦略的目標を追求するために、軍事的な圧力ではなく経済的な手段によって他国に対して影響力を行使しようとする」外交術については、古今東西、様々な事例が該当するという。では、近年ますます注目を集めつつある人の移動、そしてそれをめぐる国際紛争についてはどうだろうか。すなわち、ある国家が人の移動に関する危機を引き起こすことによって、経済的な圧力を他の国家にかけ、何らかの目標を達成することは可能なのだろうか。この問いについて、ここでは人の移動に着目する国際関係研究の動向を踏まえつつ、米・キューバ関係史、とりわけ1980年のマリエル危機の事例を用い、考察を加えるものとする。

もともと人の国際移動は、社会学・移民研究、文化人類学・民俗学、カルチュラル・スタディーズ、エスニック・マイノリティ研究などで主に扱われていたが、1980年代を境に、国際政治学者の間でも人の移動と安全保障の関係を同時にとらえる研究が進められてきた。

なかでもケリー・グリーンヒルの著作『大量移民という武器』(Weapons of Mass Migration)は、「移民危機を引き起こすぞ」という小国の脅しが大国に対して抜群の効果を持つという議論を展開し、大きな注目を集めた。第二次世界大戦後、このような外交術は相当の頻度において用いられ、そのうち何らかの成功を収めたものは7割にのぼるという。

外交は力によって支えられるときに最も効果的であり、国際政治において大国が有利になることは当然視されてきた。しかし、人の移動に関する国際紛争においては、最も力を持つはずのアメリカ合衆国が最もこの種の脅迫外交に脆弱なのだという。そもそも人の移動は大衆レベルで認知されやすい「入れる」・「入れない」の二項対立的な問題であり、政治争点化されやすい。ゆえに、特に民主主義的な意思決定の制度がある国においては、政策決定者に多大な政治的圧力がかかる。

この政治コスト(political cost)に加え、政策決定者は、偽善コスト(hypocrisy cost)というものにも直面する。すなわち、人権擁護・国際法遵守という理想を掲げる多くの国家は、実際に移民危機が起きると、その規模に圧倒され、難民認定を渋る傾向がある。すると、この言行不一致が人道・人権擁護団体の反発を招き、国内の論争・政治紛争に拍車をかけるのだという。こうして論争が続くと、政策決定者は、脅しに屈して要求を呑み、事態の沈静化を図る方が得策である判断する。

この興味深い議論を提示するにあたり、著者がモデル・ケースとして採用したのが、米・キューバ関係である。米・キューバ間では、1965年、1980年、1994年にそれぞれ移民危機が起きているが、著者はいずれもキューバの最高指導者フィデル・カストロが合衆国の移民政策の転換を要求して引き起こしたものだと断じた。しかもこの外交術は、三度にわたり、成功したのだという。なかでも衝撃的だったのが、1980年に起きたマリエル移民危機だった。これは1980年4月から10月まで、わずか半年の間に、12万5000人のキューバ人が直接アメリカ合衆国に流入した事件である。著者によれば、カストロはこの移民危機を引き起こして、カーターの側に政治コストと偽善コストを増幅させ、脅迫に成功したのだという。

しかし、国際関係史の視点、とりわけキューバ外交政策史の観点から見ると、この議論は一方的で、むしろ移民危機の性質をとらえる上で、重大な過誤を抱えていることがわかる。まず、キューバ側に言わせれば、そもそも革命政権の転覆を狙い、最初に人の移動を政治的道具として用いてきたのは合衆国であった。かつてCIAが主導したピッグズ湾侵攻事件の例に見るように、人の移動は、当初から人道的問題でありながら、外交・軍事政策上の道具であった。また、マリエル危機の直接の背景は、カストロが国交正常化交渉の開始を念頭に、人権外交を掲げたカーターに譲歩する形で行った政治囚(CIAによる秘密作戦に関与したものたち)の解放と出国、また家族再結合であった。これらは対キューバ経済制裁(その包括的性格ゆえにキューバ側では「経済封鎖」という用語が用いられる)の緩和を示唆した国務省の要請に応じてとられた措置であった。

ところが、新冷戦が始まり、米・キューバを取り巻く地政学的状況が一変してしまったことから、カーターは、約束されたはずの経済制裁を緩和するどころか、強化した。また、カストロが1978年9月以降、くりかえし元政治囚の出国について便宜を図るよう要請したのに対し、膨大な数のインドシナ難民の受け入れに奔走していたカーター政権は、辛抱を求めるばかりだった。その上、家族再結合に伴い、出国希望者の数が増えると、船舶のハイジャックや大使館への駆け込みが相次ぎ、とくに1980年4月のペルー大使館駆け込み事件については、カーター政権によって反共宣伝に利用されることになった。カストロはカーターに裏切られたと感じただろう。こうして起きたのがマリエル危機なのである。

つまり、米・キューバ関係史に照らすと、グリーヒル氏の危機の理解は中途半端であり、米側にとって都合のよい解釈をそのまま反映させたものに過ぎない。危機の本質は、その起源から窺えるように、再燃したグローバル冷戦を背景とした外交闘争であった。それは単に移民問題をキューバが合衆国に押し付けるというだけではなく、むしろどちらの側がより優位な形で危機を終結できるのかを競うものであった。

では、移民危機はどちらに優位に動いたのか。これについては、政治コストと偽善コストに加え、経済コスト、すなわち人の移動に関する経済的負担を考慮する必要がある。そもそも合衆国の移民問題を議論する際、見逃すべきでないのが、連邦と州のどちらが移民の受け入れに関わるコストを負担するのかという問題である。連邦の移民政策は、必ずしも州の財政能力を厳密に計算した上で、人を受け入れるわけではない。しかし、このことは実際の危機対応においては重大な過失を生みかねず、マリエル危機においては、移民が集中したフロリダ州、つづいてその負担を軽減するために一時的な収容施設を提供したウィスコンシン州やアーカンソー州などで、反移民運動や基地暴動が頻発し、結果的にカーターの立場を危うくした。

加えて、やはり重要なのは外交コストである。実はマリエル危機で一番問題になったのは、国内の政治紛争をどう決着させるのかとか、現実と理想のギャップをどう埋めるのかという点ではない。むしろ唯一移民危機を終結させる力を持つカストロと、いつ、どのように、どのような形で交渉すべきか、つまりどのような形で危機を終結に導くべきかという点であった。カーター政権の一次史料を分析すると、大統領とその側近たちは、危機勃発の直後から終結の直前に至るまで、この点を議論していた。そして、少しでも有利な形で交渉を実施するために、様々な経済的・外交的・政治的圧力をキューバにかけたわけたが、いずれも空転し、そうこうしている間に、カーターの側が、倍加するコストに耐えられなくなっていったのである。

最終的に、カーターは危機を終結させるために、カストロに特使を送り、大統領選後に米・キューバ関係全体を協議する場を設けることを約束した。カーターが落選したことによって協議それ自体が実現しなかったとはいえ、エコノミック・ステイトクラフトの枠組みでいえば、このことは人の移動をめぐる外交術の応酬がキューバ側に優位に動いたことを証明している。このようにマリエル危機の事例は、移民危機の分析において重大な示唆を持つ。それは単に政治制度の違いとか、国際法の遵守という問題にとどまらず、国内社会において生じる様々な政治的、経済的、社会的コストをどう管理するのか、そしてより大きな地平における外交戦略への影響をどう調整するのかといった問題と密接に絡むものなのである。




<参考文献>

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Arboleya, Jesús. Cuba y los cubanoamericanos: El fenómeno migratorio cubano. Havana: Fondo Editorial Casa de las Américas, 2013.

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Ramírez Cañedo, Elier, and Esteban Morales Domínguez. De la confrontación a los intentos de

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