近年、韓国側の竹島研究には一つの傾向があるようである。本来なら争点とすべき論点を避け、独島(竹島)を韓国領とする前提で研究がなされているからだ。それは裏を返せば、独島は韓国領ではなかったとする不都合な事実を隠し、事実無根の主張を繰り返しているということでもある。
2009年、韓国海洋水産開発院では、金柄烈氏を中心に『独島研究60年の評価と今後の研究方案』をまとめ、1940年代後半から60年の独島研究の歴史を展望した。
だが金柄烈氏は1996年、『韓国論壇』誌上で私と論争した際の争点だった『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」には言及していない。韓国側にとって、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)は、古文献の中の于山島を独島とする際の唯一の文献であった。その「改竄説」では、これまで論拠としてきた『東国文献備考』(「輿地考」)の分註(「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」)が、原典の『東国輿地志』では「一説、于山欝陵本一島」と記されていた事実を明らかにしたのである。これは改竄されていた『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を根拠に、古文献の中の于山島を一律に独島とすることができなくなってしまった、ということなのである。
そのため『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」は、外務省が2008年2月に作成した小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』でも、「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」とする論拠として採用されたのである。
それを島根大学名誉教授の内藤正中氏は2008年10月、急遽、『「竹島=独島問題入門」日本外務省『竹島』批判』を刊行し、「ここだけ異説を取り上げた外務省の意図がわからない」として、その「改竄説」の排除に努めたのである。
これに同調したのが、韓国の「東北アジア歴史財団」であった。内藤正中氏の外務省批判書はその四ヵ月後、「東北アジア歴史財団」の協力で韓国語に翻訳され、『韓日間の独島=竹島論争の実体』と題して、韓国内の書店に並んでいた。
しかし拙稿を「異説」とした内藤正中氏だったが、反証することはできなかった。これは、私の論争相手だった金柄烈氏も同様であった。『独島研究60年の評価と今後の研究方案』を編著した金柄烈氏は、私との論争の事実には触れたが、その不都合な『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」には言及していない。
だが1656年成立の『東国輿地志』では、確かに「一説に、于山欝陵本一島」と記されていた。それが1770年編纂の『東国文献備考』(「輿地考」)に引用された『東国輿地志』では、「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」となっていたのである。これは『東国文献備考』(「輿地考」)が編纂される過程で、引用文が書き換えられていたということである。一般的にはこれを「改竄」というのである。
その「改竄」の痕跡は、分註の中にも残されている。それは「于山則倭所謂松島也」とした一文である。この倭(日本)の松島(現在の竹島)を于山島としているのは、1696年に鳥取藩に密航し、鳥取藩によって追放された安龍福の供述に依拠しているからだ。朝鮮に帰還した安龍福は、朝鮮政府の取調べに対して「松島は即ち于山だ」と供述していた。その供述が、すでに40年も前に編纂されていた『東国輿地志』の中に引用されているとすれば、それは不自然である。これも『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄されていたことを示す証拠である。
そのため『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」は、竹島を韓国領と主張する人々には不都合な事実だったのである。そこで内藤正中氏は、拙稿の「改竄説」を「異説」とすることでその排除に努め、『独島研究60年の評価と今後の研究方案』を編纂した金柄烈氏は、無視したのである。
この『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」は、鄭秉峻氏が2010年8月に刊行した『独島1947年』でも触れられることはなかった。そのかわり鄭秉峻氏は、朴炳渉氏の下條評に従って、私を「学問的厳密性や正確性が劣っているが、大学に勤めている研究者として、日本の外務省の主張に合わせ、大衆的な研究と活動を展開するほとんど唯一の人物」と評した(注1)。この下條評を記述することで、鄭秉峻氏は拙稿には一顧の価値もないとでも言いたかったのだろうか。私が1999年度から拓殖大学に奉職することになったのも、鄭秉峻氏が揶揄しているように、1996年に韓国の『韓国論壇』誌上で、金柄烈氏等との「論争を起こして名声を博した」からではない。当時、奉職していた市立仁川大学校(総長は後に「東北アジア歴史財団」の理事長となる金学俊氏)から突如、契約の更新を拒まれ、1998年末、帰国を余儀なくされたからだ。拓殖大学ではその私に同情し、2000年度に開設する国際開発学部の教員として、一年前倒しで採用してくれたのである。その意味でも『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が争点となり、その「改竄説」をめぐる論争が起こった1996年は、竹島研究の転換点でもあったのである。
近年、韓国側では鄭秉峻氏の『独島1947年』のように、「国際法」を中心とした竹島研究書の出版が続いている。韓国の「東北アジア歴史財団」が刊行した『独島の領土主権と海洋領土』(2018年)、『独島の領土主権と国際法的権原』(2019年)、『独島の領土主権と国際法的権原Ⅱ』(2021年)、『独島の領土主権と国際法的権原Ⅲ』(2022年)等がそれである。
だがいずれの場合も、独島の歴史的権原とも密接に関連している『東国文献備考』(「輿地考」)の「改竄説」とは無関係に著述がなされている。
そこで本稿では、韓国側には独島の領有権を主張できる歴史的権原がない事実を明らかにし、あらためて「竹島問題の総括」を行うものである。
1.再び『東国文献備考』を論拠にした「東北アジア歴史財団」
韓国の「東北アジア歴史財団」は、2021年5月から翌年2月にかけ、『資料が語る歴史の真実』(日・英・中国語版)と題する動画5本を断続的に公開した。それは洪聖根氏の「鬱陵島から眺める独島」と「混乱の中で守られてきた独島」、崔雲燾氏による「古文書と地図からみた独島」と「日本の文献からみた独島」、それに金栄洙氏の「日本の領土侵奪と大韓帝国の対応」の五本である。
しかしそこでは再び、『東国文献備考』の分註が古文献や古地図の中の于山島を独島(竹島)とする論拠にされており、于山島を独島とする前提で独島(竹島)を韓国領としているのである。
だが『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄されていた事実は、すでに1996年の時点で明らかにされている。そしてその「改竄説」に対する反証は、現在もなされていない。その『東国文献備考』の分註が、今また古文献や古地図の中の于山島を独島(竹島)とする論拠にしているのは、いかなる理由からであろうか。
韓国の「東北アジア歴史財団」では、今回も『東国文献備考』(「輿地考」)の分註(「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」)を根拠に、『世宗実録地理志』、『新増東国輿地勝覧』等に記された于山島を現在の竹島(松島)と解釈したのである。
だが『東国輿地志』の原典では、「于山欝陵本一島」としており、于山島と欝陵島を同島異名の島としているのである。
従って、「東北アジア歴史財団」が、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を根拠に于山島を松島(現在の竹島)とするのであれば、その前に『東国輿地志』の原典と引用文との違いについて説明し、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を論拠とする理由から明らかにしなければならないのである。それを「東北アジア歴史財団」では「改竄説」の存在を無視して、その改竄された分註に依拠し、『世宗実録地理志』や『新増東国輿地勝覧』等の于山島を独島(竹島)としたのである。
それに『東国輿地志』の「于山欝陵本一島」が、『東国文献備考』(「輿地考」)の編纂過程で「于山則倭所謂松島也」と書き換えられた経緯も、ほぼ明らかになっている。『英祖実録』等(注2)によると、『東国文献備考』の「輿地考」は、申景濬の『疆界誌』を底本として1770年に編纂されていた。だが申景濬の『疆界誌』は、他人の草稿を使って編述されていたのである。その顛末について、黄胤錫は『頤斎乱稿』(注3)の中で、次のように述べている。
「文献備考の役、申景濬、乃ち鄭安二家の私藁を取り、これを用いて功を安に帰せず。安此れを以て大いに愠(うら)む」
黄胤錫によると、『東国文献備考』の編纂事業では、鄭(運維)と安(鼎福)両家の私藁が使われたとしている。だが申景濬は、鄭運維と安鼎福の家の著述を使いながら、その功績を独り占めしたのだという。そのため私藁を提供した安鼎福は、「大いに愠(憤った)」というのである。
だが「大いに憤った」安鼎福は、『東国文献備考』そのものについてもその欠陥を指摘していたのである。編纂を終えた『東国文献備考』では「引用書目」を示すことなく、その編纂内容が杜撰だったというのである(注4)。これは『東国文献備考』の編纂が五ヶ月という短期間(注5)で行われたため、その史料の選択や文献の取り扱いにも問題があったからである。
これは『東国文献備考』の「輿地考」もまた、他人の著述を使っていたと見てもよいであろう。成海応の『研経斎全集』(「題安龍福傳後」)では、「安龍福傳、李孟休の著すところの春官志に載す」としているからだ。これは『疆界誌』所収の「安龍福事」は、李孟休の『春官志』に収載された「欝陵島争界」を底本としていたということである。事実、『疆界誌』の「欝陵島」は、『春官志』所収の「欝陵島争界」とはほぼ同文である。それに『春官志』は、その序文が書かれた英祖二十一年(1745年)七月の時点で、一応の完成を見ていたからだ(注6)。それは申景濬が『疆界誌』を編述する11年も前のことである。さらに『春官志』を編纂した李孟休は、英祖二十七年(1751年)九月、三十九歳という若さで没していた。これらの事実から、申景濬の『疆界誌』に「安龍福事」が収載されていれば、それは『春官志』の「欝陵島争界」を書写したものとしてもよいのである。
申景濬は、『春官志』の「欝陵島争界」については何も述べていないが、『東国文献備考』の編纂には李孟休の『春官志』が採用されていたのである。それは李孟休の同門である安鼎福が、『東国文献備考』の編纂に従事した洪名漢に送った書簡で、「亡友李醇叟(孟休)、嘗て春官考四巻を撰す。規模ことごとくよし。朝家、此の撰輯の役によって其の名を存す」としているからだ。この書簡の中の「朝家、此の撰輯の役」とは、英祖が命じた『東国文献備考』の編纂事業のことを指している。
それに『春官志』が李孟休の著述であった事実は、安鼎福の師で、李孟休の父親でもある李瀷が、「命を承けて春官志を撰す(中略)。四巻を纂成す」(注7)としていることからもいえるのである。
『東国文献備考』の「輿地考」の編纂では、黄胤錫が「文献備考の輿地考、即ち申景濬の修めるところ。而して実は柳馨遠、金崙、安鼎福を用いて、以て韓百謙の諸説に至るものなり」とし、「申景濬、乃ち鄭安二家の私藁を取り」と述べているように、先人の諸説を利用していたのである。黄胤錫が「これを用いて功を安に帰せず。安此れを以て大いに愠む」としたのは、英祖から「以備考之成。基於申景濬疆域志。特命加資」(備考の成るは、申景濬の疆域志に基づくをもって、特に命じて加資)されたのは申景濬だけで、私藁を提供した人々ではなかったからである。
その栄誉の対象となった申景濬の『疆界誌』(「欝陵島」)は、李孟休の『春官志』の「欝陵島争界」を謄写したものだったのである。その際、申景濬は、李孟休の「欝陵島争界」を「安龍福事」と「欝陵島」の二つの項目に分けるなど、安龍福の事蹟については特別な関心を示していた。
だが申景濬は、剽窃したと分かる部分では字句を書き換え(注8)、自説と異なる部分には按語を書き入れて私見を記し、自著を装ったのである。その私見を記した按語が、後に『東国文献備考』(「輿地考」)の分註となるが、申景濬は李孟休の『春官志』の「欝陵島争界」を写した際に、自説と異なる箇所には、次のように私見を書き入れていたのである。
按ずるに、輿地志に云う、一説に于山欝陵本一島。而るに諸図誌を考えるに二島なり。一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり。
この申景濬の按語が書き込まれた箇所には、李孟休の『春官志』では、欝陵島に対する李孟休の地理的認識が、次のように記されていたのである。
この島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては皆音号転訛して、然るなり。
李孟休は、欝陵島の島名について、竹があるので竹島といい、三峯があるので三峯島と称するのだとし、于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島については、音韻的に近いからだとして、于山島などはいずれも欝陵島の別称としたのである。于山島を欝陵島の別称とするのは李孟休に限ったことではなく、韓百謙の『東国地理誌』でも欝陵島に代えて、于山島と表記している(注9)。
だが申景濬は、于山島を欝陵島の別称とした李孟休とは異なって、于山島と欝陵島を別々の二島としたのである。さらに申景濬は、その二島の「一つは其の倭の所謂松島」で、さらに「二島ともに于山国なり」と自らの見解を述べている。申景濬は于山島を日本の「所謂松島」だとして、于山島と欝陵島を于山国に属すとしたのである。
だがこの申景濬の『疆界誌』(「欝陵島」)が、『春官志』の「欝陵島争界」を底本としていた事実については、これまで韓国側では明らかにされることがなかった。そのため韓国側では、按語の冒頭の「按ずるに」以外をすべて『東国輿地志』からの引用文と考えて、解釈していたのである。その代表的な研究が、宋炳基氏の『欝陵島と独島』(1999年刊)である。
しかし宋炳基氏は、2007年に刊行した改訂版の『欝陵島と独島』でも、申景濬の『疆界誌』(「欝陵島」)が李孟休の『春官志』の「欝陵島争界」を剽窃した事実については言及していない。それは宋炳基氏が『東国輿地志』を佚書として、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註のすべてを『東国輿地志』からの引用文とし、文献批判を怠っているからである。そのため宋炳基氏は、改訂版の『欝陵島と独島』(注10)でも、申景濬が『疆界誌』(「欝陵島」)に記した按語を次のように解釈しているのである。
私が按ずるに、『輿地志』がいうには、「一説には于山と欝陵は本来一つの島としているが、諸々の図誌を考えると二島である。一つは倭の所謂松島で、おおよそ二つの島をともに于山国の地である」
この宋炳基氏の解釈を読むと、申景濬の按語をすべて佚書とした柳馨遠の『東国輿地志』からの引用文としているのである。そのため『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄されていた事実や、『東国文献備考』の「輿地考」の基となった申景濬の『疆域誌』(「欝陵島」「安龍福事」)が、李孟休の『春官志』に依拠していた事実についても、明らかにできなかったのである。
しかしこの申景濬の按語は、李孟休の『春官志』(「欝陵島争界」)を謄写した際に、于山島を欝陵島の別称とする李孟休の地理的認識に対して、申景濬自らの見解を述べた部分なのである。そこで申景濬は、按語を記す際に、李孟休と同じく于山島と欝陵島を同島異名とする「于山欝陵本一島」の記述を柳馨遠の『東国輿地志』から引用し、その後に申景濬自身の見解を記したのである。
だが宋炳基氏は、1999年版の旧著のみならず、改訂版の『欝陵島と独島』(2007年刊)でも、申景濬の『疆界誌』(「欝陵島」)が李孟休の「欝陵島争界」を底本としていた事実には触れていない。それは『東国輿地志』を佚書とする宋炳基氏にとって、申景濬の按語に、『東国輿地志』から「輿地志に云う、一説に于山欝陵本一島」と引用され、「而るに諸図誌を考えるに二島なり」云々と記されていれば、それを全文『東国輿地志』からの引用として、疑うことがなかったからである。そのため『東国輿地志』が発見された現在でも宋炳基氏の解釈が無批判に踏襲され、韓国側の竹島研究に使われているのである。
だが申景濬が『東国輿地志』から「于山欝陵本一島」を引用し、「而考諸図誌二島也」と私見を述べたのは、書写した李孟休の「欝陵島争界」では、于山島と欝陵島を同島異名の島としていたのである。
この事実についても、宋炳基氏の『欝陵島と独島』では言及していないが、これも申景濬が引用した柳馨遠の『東国輿地志』を佚書としてしまったため、申景濬が何故その按語で、「而るに(しかるに)、諸図誌を考えるに二島なり」と記述していたのか、それ以上、研究を進めることができなかったのである。
さらに『東国文献備考』(「輿地考」)の底本となった申景濬の『疆界誌』の按語が、「輿地考」の分註では何故、「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」と簡約にされていたのか、この点についても韓国側の竹島研究では見落とされたままである。
だが申景濬の按語は、『東国文献備考』の「輿地考」が編纂される過程で別人の手によって修文がなされ、現状のような分註になっていたのである。それを示しているのが『承政院日記』の「英祖四十二年閏五月二日条」である。同条によると、申景濬の『疆界誌』が『東国文献備考』の「輿地考」として編集される過程で、「景濬、草創して、啓禧、潤色す」として、洪啓禧が『疆界誌』の記事を潤色したとしているからである。これは申景濬が『疆界誌』を著述して、洪啓禧が申景濬の按語を修飾していたということなのである。
だが『疆界誌』の文章を潤色した洪啓禧は、『東国文献備考』(「輿地考」)を修撰する際に、申景濬の『疆界誌』が李孟休の「欝陵島争界」を書き写して、その李孟休との見解の違いを按語としていた事実についてまでは、確認ができなかったのであろう。そこで洪啓禧は、長めの申景濬の按語を斟酌し、それを簡約して「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」としたのである。申景濬の私見は、こうして『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に竄入してしまったのである。
だがここにもう一つ、検証しておかねばならない課題があった。それは申景濬の按語ではなぜ、「諸図誌を考えるに二島なり」として、「一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」としていたのか、ということである。
ここで申景濬が「諸図誌を考えるに」としているのは、地図と地志のことを指している。当時の朝鮮には、確かに欝陵島と于山島の二島を描いた地図があり、その地図も大きく分けて二つの系統があったからだ。一つは『東国輿地勝覧』系統の「朝鮮地図」で、そこに描かれている于山島は、朝鮮半島と欝陵島の間に位置しており、その大きさは欝陵島の三分の二ほどである。もう一つの于山島は、欝陵島捜討使の朴錫昌が1711年に作図させた『欝陵島図形』に由来する于山島である。
この内、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の欝陵島図に描かれている于山島は、申景濬のいう「倭の所謂松島」とは全く関係がないのである。朴錫昌の『欝陵島図形』系統の地図には、欝陵島の東隣の小島に「所謂于山島/海長竹田」と表記されているが、この「所謂于山島」は欝陵島の東約2キロに位置する「竹嶼」のことだからである。それに朴錫昌の『欝陵島図形』には、「所謂于山島」とした竹嶼を含めて、六つの小島が描かれているという特徴があるのである。
一方、『新増東国輿地勝覧』所収の『八道総図』と『江原道図』に描かれていた于山島は、『新増東国輿地勝覧』を底本とした『輿地図書』や金正浩の『大東地志』等からもその姿を消しているのである。それは朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」が出現したことで、「于山島」は、欝陵島傍近の竹嶼のこととされたからである。
それは事実、金正浩の『大東輿地図』でも確認ができるのである。その『大東輿地図』に描かれた于山島は、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」に描かれた「所謂于山島」を踏襲しているため、欝陵島の六つの小島の一つとして描かれているからである。
さらに朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」は、鄭尚駿の『東国大地図』(18世紀中期)や『我国総図』(18世紀後期)等に描かれた欝陵島の基図ともなっていたのである。それは朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」が、『輿地図』、『広輿図』、『海東地図』等の地図帖の中に「慶尚道図」、「江原道図」、「京畿道図」等の「八道分図」とともに、「欝陵島図」として収録されていることがその証左である。
これは「朝鮮全図」が作図される際は、地図帖に収載された「慶尚道図」、「京畿道図」、「江原道図」等とともに、朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」を基に、欝陵島が描かれていたことを意味するからである。
さらに朴錫昌の『欝陵島図形』には、欝陵島の疆域が「周回僅可二百余里、自東至西八十余里、自南至北五十余里」と表記されているため、後世の「欝陵島図」では「周回二百余里東西八十余里南北五十余里」等としてその表記を踏襲し、于山島を含めて六つの小島が描かれることになるのである。
それは鄭尚駿の『東国大地図』(18世紀中期)や『我国総図』(18世紀後期)等に描かれた「于山島」が、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する于山島(竹嶼)であったことの証である。申景濬は、于山島を「一つは其の倭の所謂松島」としたが、それは申景濬の臆断だったのである。
確かに申景濬の時代には、欝陵島と于山島の二島を描いた地図があったが、その于山島は、申景濬が『疆界誌』の按語で記した「倭の所謂松島」ではなかったのである。
さらに申景濬が、「諸々の図誌を考えると」とした『新増東国輿地勝覧』や『世宗実録地理志』の「于山島」も、後述するように「所謂松島」ではないのである。
では「所謂松島」ではなかった「于山島」が、何故、申景濬の按語では「一つは其の倭の所謂松島」にされてしまったのであろうか。
これは結論から言えば、李孟休の『春官志』の「欝陵島争界」を剽窃する際に、申景濬が「松島、即ち于山島なり」とした安龍福の供述を盲信したからなのである。
事実、申景濬は、『疆界誌』の「安龍福事」でも、『春官志』の記述をそのまま「倭至今不復指欝陵為日本地皆龍福功也」(倭、今に至るまで、また欝陵を指さして日本の地となさず、皆、龍福の功なり)と書き写し、李孟休が欝陵島と同島異名とした于山島に対して、その按語の中で「一つは其の倭の所謂松島」としているからである。
申景濬は、安龍福が「松島、即ち于山島なり」とした供述を鵜呑みにし、当時、流布していた地図に于山島と欝陵島が描かれていると、その于山島を「一つは其の倭の所謂松島」と曲解したのである。
では安龍福は何故、「松島、即ち于山島なり」とし、松島を朝鮮領の于山島と証言したのであろうか。
2.安龍福の供述の問題点
竹島問題を論ずる際の最大の論点の一つが、安龍福の証言である。于山島を独島とする唯一の論拠である『東国文献備考』(「輿地考」)の分註も、その安龍福が供述した「松島、即ち于山島なり」に由来するからである。
だが安龍福の供述は、『粛宗実録』の「粛宗二十二年九月戊寅条」と『漂人領来謄録』等に記載されているが、その『漂人領来謄録』の「丙子九月三十日条」と「丙子十月十五日条」の冒頭には、それぞれ「犯越人安龍福事」、「犯境罪人安龍福論罪事」とした頭書がある。安龍福に関する事案が『漂人領来謄録』に収録されているのは、隠岐諸島に漂着し、鳥取藩で訴訟事件を起こしたとする安龍福に対して、朝鮮の廟堂ではその真偽を明らかにしようとしていた廟議の記録だからである。
それに『粛宗実録』の「粛宗二十二年九月戊寅条」では、その冒頭が「備辺司推問安龍福等」(備辺司、安龍福等ヲ推問)で始まっているのは、外交問題を司る専門機関である備辺司で、安龍福等を推問(取調)した際の供述調書だからである。それを一部の韓国側の竹島研究では、『粛宗実録』の「粛宗二十二年九月戊寅条」を歴史の事実と解釈しているが、それは誤解である。
この『粛宗実録』の「粛宗二十二年九月戊寅条」は、犯境罪人安龍福が供述した記録である。従って、その安龍福の供述を事実とするためには、その検証と論証が欠かせないのである。それは安龍福が「松島、即ち于山島なり」とした于山島についても、実際にそれが松島だったのか、論証しなければならないということである。それに日本に密航した安龍福を取り調べた際の日本側の記録である『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』が2005年に発見され、于山島に関する安龍福の地理的認識や日本での動向が明らかになったからである。
この『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』(以下『覚書』)には、元禄九年(1696年)、安龍福等十一名が隠岐諸島島後の大久村に着岸し、村役人らの取調べに対して、安龍福等が供述した内容が記録されている。その『覚書』によると、安龍福は、「朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持」し、密航してきたという。この事実だけでも、安龍福の密航は、計画的だったことが分かるのである(注11)。それに『覚書』には、「伯耆守様江御断之義在之罷越申候」(伯耆守様え、江御断の義これあり、罷り越候)と記録されており、鳥取藩で訴訟することが目的だったことも明らかである。そのため安龍福は、所持した「朝鮮八道之図」を証拠に、そこに描かれた于山島を松島と訴えるつもりだったのであろう。
この時、安龍福が持参した「朝鮮八道之図」は、当時、朝鮮で流布していた『新増東国輿地勝覧』(「八道総図」)に因む「八道分図」である。その「朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持」していた「朝鮮八道之図」で、于山島が描かれているのは「江原道図」である。それは『覚書』でも、安龍福が、江原道の「内、子山と申嶋御座候。是ヲ松嶋と申由。是も八道之図ニ記申候」と供述していた事実でも確認ができる。安龍福は江原道には子山という嶋があり、これを松嶋というのだとして、その証拠の「八道之図」を役人等に見せたのであろう。
この時、安龍福が于山島を「子山島」としたのは、当時流布していた朝鮮地図の中には、「于山島」の外に、「子山島」や「千山島」、「干山島」等と表記したものがあったからで、それらはいずれも于山島のことである。
安龍福はその所持した「江原道図」に描かれた「子山島」を「松嶋」として、松嶋を「八道之図ニ記」された朝鮮領としたのである。そのため『覚書』の附録では、その安龍福が供述したままを「此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之」と記して、江原道には竹嶋(欝陵島)と松嶋(現在の竹島)がある、と記録したのである。
だが安龍福が所持した「朝鮮八道之図」に、「子山島」(于山島)が描かれていたとしても、それを根拠に、その「子山島」を松嶋(現在の竹島)とすることはできないのである。なぜなら安龍福が所持していた「朝鮮八道之図」は、『新増東国輿地勝覧』の巻頭にある「八道総図」に由来する朝鮮地図だからである。
その「朝鮮八道之図」の中で、于山島が描かれているのは「江原道図」であるが、その「江原道図」では、于山島が欝陵島と朝鮮半島の間か欝陵島の下に描かれ、島の大きさも欝陵島の三分の二ほどである。その于山島の位置と大きさは、現在の竹島とも著しく異なっている。それにその于山島は、『新増東国輿地勝覧』(「江原道」)の「蔚珍県条」に記された次の記事とも不可分の関係にあったのである。
于山島、欝陵島〔分註〕二島は県の正東の海中に在り。三峯岌嶫として空を撐(支)え、南峯やや卑(低)し。風日清明なれば則ち峯頭の樹木及び山根の沙渚、歴々見るべし。風便なれば則ち二日到るべし。一説に于山欝陵本一島。地方百里。
この『新増東国輿地勝覧』(「江原道」)の「蔚珍県条」によると、分註では「二島は県の正東の海中に在り」としているが、于山島について言及している箇所は、「一説于山欝陵本一島」だけである。それもその「一説に于山欝陵本一島」は、一説では、于山島と欝陵島は、同島異名の島としている、という意味である。さらにここで于山島に対比されているのは欝陵島で、安龍福のいう「倭の所謂松島」ではないのである。
また分註の「三峯岌嶫として空を撐え」から「歴々見るべし」までは、欝陵島を管轄する江原道の蔚珍県から見た欝陵島の眺望で、于山島に関した記述ではない。続く「風便なれば則ち二日到るべし」は、『三国遺事』(「智哲老王」条)にも「東海中便風二日程、有于陵島」とあるように、朝鮮半島から于陵島(欝陵島)までの距離を示す常套句である。それに「地方百里」は、『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」に由来しており、欝陵島一島の疆域を表記しているので、その疆域には「倭所謂松島」は含まれていないのである。それは『三国遺事』の「智哲老王条」でも、于陵島(欝陵島)の疆域を「周回二万六千七百三十歩」としているように、『三国史記』と『三国遺事』では于山国を欝陵島一島としているからである。
それに『新増東国輿地勝覧』(「江原道」)の「蔚珍県条」の分註に、「一説于山欝陵本一島」と記載されていたのは、『新増東国輿地勝覧』が編纂された当時、于山島と欝陵島の区別ができず、その所在を明確にできなかったからである。
それは『東国輿地勝覧』の底本となった『世宗実録地理志』と同時代の『高麗史』(「地理志」)でも同じであった。そこでも于山島と欝陵島の区別ができず、『高麗史』の「地理志」では、本文には「欝陵島」のみ載せ、分註では「一云、于山武陵本二島」として、于山島と武陵島(欝陵島)を別の二島としているのである。
それも『世宗実録地理志』、『高麗史』、『東国輿地勝覧』の編纂には、いずれも梁誠之が参画しており、当時の朝鮮地図は梁誠之の地図が使われていたのである(注12)。その梁誠之が編纂に関与した『東国輿地勝覧』では「一説、于山欝陵本一島」とし、同じく『高麗史』(「地理志」)では「一云、于山武陵本二島」として、ともに于山島の所在を明確にすることができなかったのである。
安龍福が、「八枚ニシテ所持」してきた地図は、その所在不明の「于山島」が描かれた『東国輿地勝覧』由来の「朝鮮八道之図」だったのである。それにその「朝鮮八道之図」に「子山島」(于山島)が描かれていても、その「子山島」は、『東国輿地勝覧』の本文と分註からも明らかなように、欝陵島と対比された于山島で、松島(竹島)ではなかったのである。
安龍福は、松島とは全く関係のなかったその「于山島」を「所謂松島」と認めさせるため、鳥取藩に密航してきたのである。
だが皮肉なことに、所在不明だった「于山島」は、安龍福の密航事件を契機として、『新増東国輿地勝覧』を底本とした『輿地図書』や『大東地志』等の地誌の本文からも、その姿を消すことになるのである。
それは安龍福の一件を機に、朝鮮政府が欝陵島捜討使を三年に一度、欝陵島に派遣し、欝陵島を踏査させたことと関係していた。欝陵島捜討使達が復命する際は、『欝陵島図形』を描いて欝陵島の概況を報告することになったからである。その『欝陵島図形』の中で、後世の「欝陵島図」に影響を与えているのが、先に述べた朴錫昌の『欝陵島図形』である。朴錫昌の『欝陵島図形』では、欝陵島傍近の竹嶼に「海長竹田」、「所謂于山島」と表記されていたからである。
その朴錫昌の『欝陵島図形』が、後の「欝陵島図」の基本形として定着していく中で、『世宗実録地理志』以来、その存在そのものが不明確だった于山島は、「所謂于山島」または「于山島」として、欝陵島傍近の竹嶼の表記となったのである。
だが安龍福は、その所在不明の「于山島」を「松島」とするため、「朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持」して日本に密航し、朝鮮に帰還後、鳥取藩主と談判して欝陵島と松島(現在の竹島)を朝鮮領にしたと、証言したのである。その安龍福の供述を『疆界誌』の按語に書き込み、「一つは其の倭の所謂松島にして、蓋し二島ともに于山国なり」としたのが、申景濬である。
だが安龍福が「松島」とした「朝鮮八道之図」の中の「于山島」は、欝陵島に対比された「于山島」で、「松島」とは関係がなかったのである。申景濬はその松島ではない「于山島」を「倭の所謂松島」として『疆界誌』の按語に書き込み、それを「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」と潤色し、申景濬の私見を『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に竄入させてしまったのが、洪啓禧である。
では安龍福は何故、「松島、即ち于山島なり」と認識したのであろうか。それは安龍福の欝陵島での体験と、日本に連れ去られる際の経験が、深く関わっていたのである。
安龍福は1693年、江戸幕府から欝陵島での漁撈を許されていた大谷家の漁民等により、越境の生き証人として日本に連れ去られていた。その際、安龍福は、欝陵島から隠岐島に向う船中で、欝陵島よりも頗る大きな島を目撃していたのである(注13)。
さらに安龍福は、欝陵島で漁撈活動をしていた際も、欝陵島の北東に大きな島があるのを目撃して、そこまでの距離を一日程と見ていた。この大きな島については、仲間の朝鮮漁民から「于山島」と教えられていた(注14)。
その安龍福が、朴於屯とともに欝陵島で捕縛され、隠岐島に連れ去られて行く途中で、安龍福は特異な体験をすることになるのである。安龍福は、「一夜を経て、翌日の晩食後。一島の海中に在りて、竹島(欝陵島)より頗る大なるを見た」のである。
安龍福と朴於屯は、1693年に大谷家の漁師等によって鳥取藩に連れ去られるが、幕府の命を受けた対馬藩を通じて、朝鮮に送還されている。この時、朝鮮側での取調の際に、安龍福は、隠岐島に連れ去られる途中の海上で、「頗る大なる」島を目撃したと証言していたのである。
だが朴於屯は、備辺司からその「頗る大なる」島の存在について尋問されたが、「更に他島なし」(注15)と証言している。これは欝陵島と隠岐諸島の間で「頗る大なる」島を見たのは、安龍福だけだったということである。それも日本側の記録(注16)によれば、安龍福と朴於屯を乗せた大谷家の船は、四月十八日に欝陵島を出発し、隠岐島の福浦に着岸したのは二十日である。これは安龍福が「竹島(欝陵島)より頗る大なるを見た」地点は、十九日の「晩食後」、それは隠岐島に着岸する前日ということになる。
「松島、即ち于山島なり」とした安龍福が、「倭所謂松島」とした于山島は、隠岐島を近くにして見た「竹島(欝陵島)より頗る大なる」島だったのである。だがそのような島は、朴於屯が「更に他島なし」と証言したように、隠岐島以外には存在しない。
それを安龍福は三年後、隠岐島に密航した際の航程について、『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』の中では、「五月十五日、竹嶋出船。同日松嶋江着。同十六日、松嶋ヲ出。十八日之朝、隠岐嶋之内、西村之磯へ着」と供述していた。安龍福は、欝陵島から松嶋(現在の竹島)にはその日に着き、松嶋から隠岐島までは二日を要したというのである。
だが安龍福が供述したこの航程は、三年前、朝鮮の備辺司での供述内容とも違っていた。安龍福が日本に連れ去られた時は、欝陵島から隠岐島の福浦までは二日掛かったとして、隠岐島に着岸する前日には「竹島(欝陵島)より頗る大なる」を目撃した、と供述していた。それが三年後、みずから鳥取藩に密航してきた時には、欝陵島から松嶋には即日到着し、松嶋(子山島)から隠岐島までは二日を要したとしたのである。三年前の安龍福は「頗る大なる」島は隠岐島の近くにあるとし、三年後には、松嶋(倭所謂松島)は欝陵島から同日に着く距離にある、としたのである。
これは安龍福の松島(竹島)に対する地理的理解が錯綜していたというよりも、安龍福は、実際の松嶋については何も知らなかったからであろう。安龍福は、松嶋を「竹島(欝陵島)より頗る大なる」島と思い込んでいたが、実際の竹島は欝陵島より遙かに小さな岩礁で、人の居住も難しい無人島である。
それに安龍福は、欝陵島で目撃した大きな島の位置を、欝陵島の東北としていたが、実際の竹島は、欝陵島の東南に位置している。さらに安龍福は、鳥取藩に密航し、鳥取藩によって追放された後、朝鮮政府の取調に対しては、次のように証言していたのである。
(欝陵島には)倭人もまた多く来泊していました。仲間は皆恐れたが、私は声を上げ、「欝陵島は本より我が境域である。倭人は何故、越境侵犯するのか。お前ら皆縛ってしまうぞ」といって、さらに舟の先に進んで大喝すると。倭人が言いますには、「もともと松島に住んでいて、たまたま漁採のためにやって来たが、今ちょうど本所(松島)に往こうとしているところだ」。そこで私は、「松島は即ち子山島だ。これもまた我が国の地である。お前らどうしてそこに住めるのか」。ついに私は翌暁、舟を曳いて子山島に入りました。すると倭人達はちょうど大釜を並べ、魚膏を煮ているところでした。私は杖でこれをつき破り、大声で叱りつけますと、倭人たちは釜などを聚(集)めて舟に載せ、帆を揚げて帰っていきました。そこで私は、舟で追いかけましたが、急に強風に遭って隠岐島に漂着しました。(中略)。しかし前日。境を犯した倭人十五人は捕らえられて、処罰された。
「松島は即ち子山島だ」と証言した安龍福は、松嶋とした子山島には、倭人が住んでいるとしたのである。そこで安龍福は、欝陵島で遭った倭人を追い、翌暁には舟を曳いて子山島に入ったのだという。それにその子山島では、倭人たちが大釜を並べて、魚膏を煮ていたというのである。
だが松島(現在の竹島)には人が住めず、大釜を並べ、魚膏を煮ることのできる場所もない。それに岩礁の松島には、舟を曳いて入れる浅瀬もないのである。安龍福の子山島に対する証言は、実際の松島(竹島)とはまったく違うものであった。
これは元禄六年(1693年)4月に、欝陵島から隠岐島に連れ去られる途中の海上で、「頗る大なる」島を目撃し、欝陵島にいた時も、欝陵島の北東にある大きな島を2度見ていたことから、その「頗る大なる」島には人が住めるとでも想像したのであろう。
だが安龍福が、欝陵島の東北に大きな島を目睹した頃の欝陵島には霧が立ち込め、極めて気象状況が悪い時であった。韓国の「東北アジア歴史財団」では2008年から一年半をかけ、「独島可視日数調査」を実施しているが、その頃は月に一・ニ回しか独島は見えなかったとしている。それも「独島可視日数調査」は、欝陵島から独島が見える海抜200メートル以上の地点で行われていた。
だが竹島は、欝陵島の東南約88㌔に位置している。安龍福が欝陵島で見たとする大きな島は欝陵島の東北にあり、安龍福等が漁撈活動をしていたのは主に海上である。そこからは当然、独島は見えず、安龍福が二回見たとする大きな島は独島ではないのである。
さらに安龍福が、その「頗る大なる」島で、日本人が大釜を並べて、魚膏を煮ていたと証言したのは、大谷・村川家では実際に欝陵島の道洞附近で捕獲した葦鹿を煮沸して油を採っていたからである。1694年、欝陵島を踏査した張漢相も『欝陵島事蹟』の中で「三釜三鼎あり」、「我国の制にあらざるなり」と伝えている。
欝陵島の道洞には大谷・村川家の漁具等が置かれた小屋があり、安龍福と朴於屯が日本に連れ去られる直前まで、安龍福等は無断で大谷・村川家の据え舟や漁具を使っていたのである(注17)。
だが大谷・村川家の漁民達は、その後、欝陵島に残してきた漁具を使うことはなかった。江戸幕府は元禄九年(1696年)正月、竹島(欝陵島)への渡海を禁じて、鳥取藩米子の大谷・村川家に与えていた「渡海免許」を回収していたからである(注18)。
安龍福が鳥取藩に密航してくるのは、竹島(欝陵島)への渡海が禁じられて5ヶ月後の6月であった。これは大谷・村川家の漁民達が、欝陵島で安龍福と遭遇することもなかった、ということである。それ故、安龍福が供述したように、「倭人十五人は捕らえられ、処罰」された事実もなかったのである。
だが『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』の表題にも「朝鮮舟着岸」と記されているように、安龍福は隠岐島に漂着などしておらず、計画的な密航であった。それは『覚書』でも、「鳥取藩に訴訟のため」と供述していることでも明らかである。安龍福の密航は確信犯だったのである。それは「朝鮮八道之図」、官人を語った「号牌」、「官服」等の所持品が物語っている。
韓国側の竹島研究では、『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』が発見され、その中に渡海の目的を「鳥取藩に訴訟のため」としていると、『粛宗実録』に載せられた安龍福の供述を歴史の事実とする論拠としたのである。それは文献批判をすることなく、記事の一部を恣意的に解釈して、それを歴史の事実と錯覚しているだけのことである。
事実、鳥取藩によって追放された安龍福は、鳥取藩主と談判することもなかった。それは「東北アジア歴史財団」が2012年に刊行した『因幡国江朝鮮人致渡海候付豊後守様へ御伺被成候次第并御返答之趣其外始終之覚書』(注19)でも、確認ができる事実である。そこには鳥取藩に密航した安龍福等に対し、江戸幕府が執った措置が記されているからだ。鳥取藩では江戸幕府の指示に従って、安龍福等を加露灘から追放していたのである。
この歴史の事実は、朝鮮に帰還した後、朝鮮の備辺司での取調に対して、安龍福が鳥取藩主と交渉し、欝陵島と子山島(于山島)を朝鮮領としたとする供述は、偽証だったということなのである。
『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』が発見され、間もなくして内藤正中氏と朴炳渉氏は『竹島=独島論争』「歴史資料から考える」(2007年刊)を新幹社から出版した。それはその『覚書』に依拠して、下條批判を展開するためでもあった(注20)。
だがその『覚書』には、安龍福の証言が偽証であった事実を示す不都合な事実が記録されていた。その一つが、前述した安龍福が証拠として所持してきた「朝鮮八道之図」である。安龍福は、そこに描かれた子山島を「倭所謂松島」としたが、その子山島は『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」に由来する所在不明の于山島で、「倭所謂松島」ではなかったからである。その不都合な事実の確認を怠った韓国の国会図書館は2009年、その『竹島=独島論争』を英訳して『The Dokdo /Takesima Controversy』を刊行し、事実無根の翻訳本を世界の国会図書館に配付することになったのである。
3.「世宗実録地理志」の問題点
韓国の「東北アジア歴史財団」は2020年、動画『資料が語る歴史の真実』を公開した。その中で『世宗実録地理志』と関連づけ、「欝陵島から眺める独島」を担当したのは欝陵島出身の洪聖根氏である。洪聖根氏によると、欝陵島からは独島が「見える」ので、独島は韓国領だというのである。その論拠とされたのが、『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」に記載された「見える」(「可望見」)である。サブタイトルで「欝陵島から眺める独島」としたのは、その『世宗実録地理志』の「見える」に由来している。
洪聖根氏が『世宗実録地理志』の「見える」に関心を持ったのは、自らの欝陵島での生活体験と関係していた。『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」には次のような記述があるからである。
「于山武陵二島在縣正東海中〔分註〕二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)」
それは韓国の研究者達が、伝統的にこの分註を「二島は互いに離れていないので、よく晴れた日には望み見ることができる」として、一文として解釈してきたことに起因している(注21)。そのため独島研究の泰斗慎鏞廈氏は、日本海にある大きな島は独島(于山島)と欝陵島(武陵島)の二島なので、この記述は欝陵島から見た独島のことだ。独島は『世宗実録地理志』の時代から、韓国の行政区域の中に含められていた証拠としたのである(注22)。これは李漢基、宋炳基、梁泰鎮の各氏の見解も同様で、いずれも独島は、欝陵島から「よく晴れた日には望み見ることができる」と解釈している。
だがそれは、欝陵島からは実際に独島が見えるという、地理的与件によって『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」を解釈しただけのことである。この場合は、『世宗実録地理志』の「蔚珍県条」に記された于山島が独島だったのか、まずそれを論証しておかねばならなかったのである。
それに韓国側が、于山島を独島とする唯一の文献である『東国文献備考』(「輿地考」)の分註には「改竄説」があり、その反証もできていないからである。それもその「改竄説」は、1996年から始まる金柄烈氏との論争の中で明らかにされたのである。
今回、「東北アジア歴史財団」ではその「改竄説」の存在を無視して、動画『資料が語る歴史の真実』を公開し、その第一回目を「欝陵島から眺める独島」としているが、それはいかなる理由からであろうか。
その理由については、担当者の洪聖根氏が動画の冒頭部分で次のように語っている。それは1960年代、日本の川上健三氏が『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「可望見」を解釈する際に、欝陵島からは独島が見えるかどうかを計算式で論証しようとしたことがあった(注23)。その時、川上健三氏は、二百㍍以上の高所なら独島は見えるが、低所からは見えないとした。川上健三氏としては、当時の欝陵島は樹木で鬱蒼としていたので、その状況からも欝陵島から独島は見えなかったとしたのである。
だが川上健三氏の計算式は、「欝陵島からは独島は見えない」と曲解され、韓国側にとっては格好の攻撃対象にされてきた。それは実際に欝陵島からは独島が見えるからである。その川上健三氏の計算式に対しては、李漢基が『韓国の領土』(1969年)の中でも反論(注24)しているが、今回、洪聖根氏が「欝陵島から眺める独島」と題して、「見える」としたのにはもう一つの理由があった。
『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「見える」について論じていれば、『東国文献備考』の「改竄説」を無視して、于山島を独島だと主張することができるからだ。現に洪聖根氏は『東国文献備考』を論拠とせず、『東国文献備考』を引用した『萬機要覧』を根拠として、于山島を独島とするなど、詭弁を弄しているのである。
そこで洪聖根氏は、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)では、「二島相去不遠。風日清明則可望見」とした記述だけなので、それに欝陵島からは独島が見えるという地理的与件を加えて読めば、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の于山島についても、恣意的に解釈ができるからであろう。
だが『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」では、その恣意的解釈ができないのである。『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」では、次のように欝陵島の様子がかなり正確に記されていて、于山島に関する記述も限られているからだ。
于山島、欝陵島〔分註〕二島在県正東海中、三峯岌嶫撐空、南峯卑。風日清明則峯頭樹木及山根沙渚、歴々可見。風便則二日可到。一説于山欝陵本一島。地方百里」
この『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」には、欝陵島を管轄する蔚珍県から見た欝陵島の眺望が記され、于山島に関しての記述は「一説、于山欝陵本一島」とあるだけである。これに対して、『世宗実録地理志』の「分註」には「二島相去不遠。風日清明則可望見」と記されているので、「晴れた日に見える」の一文については、朝鮮半島から欝陵島が見えるのか、欝陵島から于山島が見えるのか、いかようにも解釈ができるからである。
それに欝陵島からは実際に独島が見えるので、『世宗実録地理志』の「見える」を欝陵島から于山島が「見える」と解釈すれば、その于山島は、欝陵島から見た独島になるのである。そのためこの『世宗実録地理志』の「見える」と、『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「歴歴可見」(歴歴見える)をめぐって金柄烈氏と論争した際も、金柄烈氏は次のように反論したのである(注25)。
『新増東国輿地勝覧』は、陸地から欝陵島の樹木を歴歴見えると解説できるが、『世宗実録地理志』と『高麗史』「地理志」は二つの島だけ、島の形体だけを近くに見ることができるとしか解説ができない、極めて正確な記録だということだ。
この『世宗実録地理志』の「見える」について論争した際も、金柄烈氏は何ら論拠を示すことなく、その于山島を独島のこととしたのである。だがその時、拙稿では『世宗実録地理志』の編纂と関連して、地志編纂の際には編纂の方針を示した「規式」が存在し、地志を読む際には、その「規式」に従って読まねばならないとして、地志の読み方を示したのである。
それは『世宗実録地理志』の一部となる『慶尚道地理志』(注26)が編纂される際も、管轄する島嶼については、次のような方針に従って資料が収集され、記述されていたからである。
一、諸島陸地相去水路息数、及島中在前人民接居、農作無閞写事
これは『世宗実録地理志』の底本の一つとなった『慶尚道地理志』が編纂された際は、地方官庁が管轄する諸島の場合、陸地からの距離を示して、島嶼の概要を記すことになっていたのである。この事実は『世宗実録地理志』に記載された島嶼を解釈する際は、当然、「規式」を念頭に置いて解釈しなければならない、ということなのである。この「規式」は、『東国輿地勝覧』が編纂される際も当然、採用されていた。『東国輿地勝覧』が編纂される際は、別途、「地理誌続撰事目」が定められていた。その中で「海島」に関しては、次のような「規式」に準じて、『東国輿地勝覧』が編集されていたのである(注27)。
一、海島、在本邑某方、水路幾里。自陸地去本邑幾里。四面周回相距幾里。田沓幾結。民家有無。
『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』が編纂された際は、その海島や諸島の場合、管轄する官庁からの方角と距離を記載する規則(規式)があり、それに沿って資料が収集され、記述がなされたのである。『世宗実録地理志』ではそれを「在県正東海中」とし、『東国輿地勝覧』でも「在県正東海中」として、まず欝陵島を管轄する蔚珍県からの方角が記されたのである。さらに陸地からの距離は「水路息数」、「水路幾里」を記載することになっていたが、欝陵島は朝鮮半島から遠く離れている。そこで「可望見」、「歴々可見」として、「見える」距離にあるとしたのである。従って「可望見」と「歴々可見」は、欝陵島を管轄する蔚珍県から「見える」と解釈しなければならないのである。
そのため『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)では、「風日清明」の日には、朝鮮半島の蔚珍県からは「欝陵島」の眺望が歴々見えるとしたのである。これは『東国輿地勝覧』の底本となった『世宗実録地理志』でも同じなのである。『世宗実録地理志』が、『東国輿地勝覧』と同じく「規式」に準拠して編纂されている以上、『世宗実録地理志』の「見える」もまた、朝鮮半島の蔚珍県から見た欝陵島と解釈しなければならないのである。
それを「東北アジア歴史財団」では、2008年から一年半をかけ、欝陵島で「独島可視日数調査」を実施することで、欝陵島からは独島が見えることを実証しようとしたのである。それが2020年、「欝陵島から眺める独島」と題した動画の作成にも繋がっているのである。
だが欝陵島での「独島可視日数調査」は、地理的与件で『世宗実録地理志』の「見える」を解釈するのと同じで、意味の無い調査であった。『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』が、朝鮮時代の地志編纂の方針(規式)に従って編纂がなされていた以上、その編纂方針を定めた「規式」に沿って読解しなければならないのである。従って、慎鏞廈氏や洪聖根氏のように、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の「見える」を恣意的に解釈し、規式の存在を無視することは許されないのである。
それにこれは朝鮮史研究の基本であるが、『世宗実録地理志』のような実録は、朝鮮時代を通じて史庫に納められており、曝書の時以外は人目に触れることはなかったのである(注28)。これは何を意味するのかというと、『世宗実録地理志』のような実録は披見ができず、未定稿だったということなのである。そのため朝鮮時代の『東国輿地志』、『春官志』、『大東地志』等では、引用書目として『世宗実録地理志』を記載していないのである。
それに代わって、朝鮮時代の地誌として重きが置かれていたのが、官撰の『東国輿地勝覧』である。それは『東国輿地勝覧』こそが、朝鮮時代の最も権威ある地誌だったからである。
だが史庫に収蔵されていた『世宗実録地理志』が注目を集めるのは、次の王朝が前王朝の歴史を編纂する時である。それが日本による『朝鮮史』の編纂事業である。その『朝鮮史』の編纂は、1922年に「中枢院」の中に「朝鮮史編纂委員会」が設置され、「朝鮮史編修会」によって1925年から始められていた。その時に使われたのが、長く史庫に秘蔵されていた実録である。『世宗実録地理志』が陽の目を見たのは、『朝鮮史』の編纂事業が始まったからである。
その史庫に収められていた『世宗実録地理志』には、梁誠之がその編纂に関わっており、さらに梁誠之等が勅命を受けて編纂した『東国輿地勝覧』では、梁誠之の『八道地誌』がその底本として使われていた。梁誠之は、『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』の編纂にも従事していたのである。
これは『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「見える」と『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「見える」は、同一人物によって記述されていたということである。それを韓国側の独島研究では、『世宗実録地理志』の「見える」を、欝陵島から独島が「見える」といった地理的与件に依拠して、文献を解釈していたのである。だがそれは恣意的解釈というのである。
それは『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理志』は、いずれも朝鮮時代の地志編纂の伝統である「規式」に従って編纂されていたからである。それに『世宗実録地理志』は、未定稿であった。だがその未定稿に属す『世宗実録地理志』が陽の目を見たのは、日本の植民統治時代になり、閉ざされていた史庫が開けられて、史書編纂に使われることになってからのことである。
従って、『世宗実録地理志』を論拠とする際は、当然、文献批判をしなければならなかったのである。それを韓国側の竹島研究では、戦後、1960年に申奭鎬氏が『思想界』で「独島の来歴と題して論稿を発表して以来、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「見える」を欝陵島から独島が「見える」と解釈し、地志が「規式」に従って編纂されていた朝鮮史研究の伝統を忘れて、今日に至っているのである。
かつて池内敏氏は、『竹島‐もう一つの日韓関係史』(注29)で下條批判をした際に、あえて『世宗実録地理志』を使ったが、それは韓国側の竹島研究の悪習に無批判に従ったからである。
だがそれは池内敏氏に限ったことではなく、李漢基『韓国の領土』(1969年)。慎鏞廈『独島の領有権に対する日本の主張批判』(2001年)、『韓国の独島領有権の研究』(2006年)。宋炳基氏『欝陵島と独島』。内藤正中氏・朴炳渉氏『竹島=独島論争』「歴史資料から考える」(2007年刊)。内藤正中氏・金柄烈氏『史的検証竹島・独島』(2007年刊)等の著書でも一般的に見られる現象で、それが今回、「東北アジア歴史財団」の動画でも繰り返されていたのである。韓国側の竹島研究では、文献批判を怠り、文献や古地図を恣意的に解釈する傾向があるのである。
おわりに
今回の『中間報告』では、「竹島問題の総括」と題して、韓国側の竹島研究の問題点を明らかにした。それは1996年、『韓国論壇』誌上で金柄烈氏と論争した際の『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」にはじまって、安龍福が証拠として所持してきた「朝鮮八道之図」には松島(竹島)が描かれていなかった事実。『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「見える」を欝陵島から独島が「見える」と解釈し続けることの誤り。それは地志編纂の際の編纂方針であった「規式」の存在を無視したことに起因する悪習で、朝鮮史研究の基本を忘れ、文献を恣意的に解釈し続けてきた結果である。
また朝鮮時代の実録が、朝鮮史研究の中でどのような位置にあるのか、これは竹島問題を論ずる際には、改めて検討しなければならない課題なのである。これは結論から言えば、『世宗実録地理志』には、『東国輿地勝覧』と並列できるような資料的価値はないからである。
韓国側の文献で、唯一、于山島を「倭所謂松嶋なり」としていた『東国文献備考』の分註は、その編纂の過程で「于山欝陵本一島」を改竄したものだった。
以上、明らかにした事実は、韓国側には、竹島の領有権を主張することのできる「歴史的権原」がなかった、ということなのである。
その韓国側では、近年、国際法に偏重した関連図書を刊行している。これは歴史研究では失地回復ができないと見て、国際法の分野で挽回しようとしたのであろう。
だが竹島に対する「歴史的権原」のない韓国側が、「国際法」によって、独島の不法占拠を正当化することはできないのである。それは「国際法」を冒涜することにもなるからだ。
今回、「竹島問題の総括」と題して、韓国側の竹島研究の問題点を指摘した理由もここにある。