領土・歴史センター

60万人の生きた証―「シベリア抑留」の歴史

2024-11-01
小林昭菜(多摩大学)
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「シベリア抑留」は、2022年12月に二宮和也主演の映画「ラーゲリより愛を込めて」で若い世代に一気に知られるようになった。この映画は辺見じゅんの小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文藝春秋、1989)がもとになっており、長期抑留を強いられた山本幡男を主人公に、ソ連での捕虜生活を描いた実話である。これまでテレビドラマや漫画などでストーリーは知られてはいたが、映画化されたことでより広く知られる歴史となった。

「シベリア抑留」はなぜ起こったのか?

「シベリア抑留」が起こったのは戦後である。第二次世界大戦の末期、ソ連は日ソ中立条約を破棄して中国東北部や朝鮮半島、南樺太に侵攻した。全体として対抗しうる戦力がなかった関東軍のほとんどは、数日から十数日の間に各戦闘地域で武装解除ののち、ソ連軍の捕虜となった。その数、計61万1237人であった。日本の敗戦直前に突如敵国となったソ連に、戦争行為が終了したのち送られた大量の日本人将兵は、その後長期間にわたって建設作業等に従事させられることになった。ソ連は後から追認、署名したとはいえ、ポツダム宣言第9項「日本軍は武装解除後に各自の家庭に復帰する」(英文では、shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive livesであり、「帰国を許可されるものとする」との意)の項目に抗う行為であった。ヨシフ・スターリンは、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した後の1945年8月23日、ソ連国家防衛委員会決定第9898号「日本軍捕虜50万人の受け入れ・配置・労働使役について」に署名し、日本人将兵の抑留を決定した。この文書は、50万人の労働に適する日本人捕虜を、ソ連・モンゴルのどこでどのような労働作業にて使役するか、受け入れ担当者は誰で、収容後の生活環境はどうするべきかといった指示を、詳細に出していた。武装解除ののち集結させていた中国東北部の鉄道沿線付近からソ連への移送は、すぐさま9月には開始された。1000人大隊を貨車に乗せ、極東を経由してシベリア、モンゴル、中央アジア、モスクワまで捕虜を移送した。10月末までに約7割の移送が完了するほどのスピードで、多くは中国東北部から最も近いソ連極東やシベリアに配置された。日本社会ではこの歴史を社会的に「シベリア抑留」と表現するが、これはシベリア、「シベリア帰り」という言葉が非常にインパクトを持って戦後の日本社会に拡大したためであって、実際の彼らの抑留地は、既述の通りソ連全土やモンゴルなど広範囲に渡っている。つまり、より正確に表現するならば、この歴史はソ連・モンゴル抑留とすべきであろう。

ソ連はなぜポツダム宣言を無視して、このような「仕打ち」を日本人捕虜に強いたのか。それは、先の独ソ戦争において、2660万人のソ連兵や市民の犠牲があったためである。この損失は連合国内最大規模で、人口の13.5%に相当した。戦後ソ連は、隣国の欧州と同様に復興に向けて動き出すが、若い労働力が不足していた。そこで戦勝国の権利として、独ソ戦争で捕らえた250万人のドイツ人をはじめ、ナチドイツに加担したポーランド、ハンガリー、ルーマニア、オーストリアなどの外国人捕虜を、労働力として配置し続けた。これは1943年のテヘラン会談においてスターリンが放った「戦後の数年間ドイツ人捕虜400万人を労働使役するつもりである」との発言を、人数の差こそあれ、体現したものだった。つまり、日本人のソ連移送、「シベリア抑留」は、この流れの中で発生したのである。極東・シベリア方面は主に日本人が、ヨーロッパロシア方面はドイツ人が主に配置され、ソ連経済を裏で支える構造だった。

日本人埋葬碑

抑留の実態

「シベリア抑留」は、「シベリア三重苦(飢え、寒さ、重労働)」という痛ましい労苦を抜きにしては決して語ることができない。食糧配給は、黒パン300グラム、肉50グラム、魚100グラムの基準で定められ、さらに1946年には黒パン350グラムへ配給量が改定された。しかし抑留当初から基準通りに食料が行き渡ることはほとんどなく、少ない食料をめぐって将官らによるピンハネが横行して飢えに耐えかねた者たちが、道端に生えた草を湯がいて食べたり、ネズミを捕って食べたりすることで空腹をしのぐことも多々あった。日本人たちは、特に冬を乗り越えることが大きな山場であった。シベリアや極東の冬は長く、氷点下を大きく下回る中での労働は、肌が痺れまつげが氷るほどで、粗末な服装で屋外にいれば凍傷の危険さえあった。映画「ラーゲリより愛をこめて」では、寒さに耐えながら過酷な労働に従事する痛ましいシーンが描かれていたが、場所にもよるものの、シベリアや極東の冬季はマイナス30~40度前後まで冷え込み、収容所内の寝床でもペーチカ(暖房)の周り以外は寒く、もともと衰弱していたことも重なって、翌朝目が覚めると隣の寝床で寝ていたはずの仲間が亡くなっているということが、毎日のように起こった。最初の冬季に最も多くの捕虜が亡くなっていて、その死因の半数は栄養失調で、肺炎、結核、発疹チフスも蔓延していた。抑留期間全体でみると、残念なことに、およそ6万人もの日本人が異国の地で帰らぬ人となった。健康な者であっても体力を奪う労働環境に加え、衛生面の劣悪さは大きな問題で、多くの収容所ではシラミや南京虫の繁殖に悩まされた。

そのような環境下で日本人に課された労働作業は、建築や土木作業、森林伐採、道路建設、炭鉱や鉱山、鉄道建設といった重労働が主であった。日本人捕虜は、体力や体格によって4つのグループに分けられた。第1グループ:重労働に適した健康な捕虜、第2グループ:限定的な肉体労働に適した捕虜、第3グループ:軽い肉体労働に適した捕虜、第4グループ:労働に適さない捕虜、である。しかしながら、発熱や下痢の症状があっても、軽い作業に移行することは稀で、熱のある状態でも屋外作業に駆り出された。

「シベリア三重苦」に加えて彼らをさらに苦しめたのは、ソ連による政治教育であった。1945年9月15日から、日本人捕虜に対して『日本新聞』との名で、日本語でプロパガンダ紙が定期的に配布された。最初はトイレのちり紙などに使われる程度の扱いだった新聞は、のちに輪読会や日本新聞友の会といったサークル活動が開かれるほど、政治教育の中で重要度を上げていった。編集長は極東ソ連軍の通訳を務めたイワン・コワレンコで、日本人編集者は、学歴があり左翼的思想のある者が選ばれた。「民主運動」と呼んだ共産主義の優位性を宣伝する運動が、ハバロフスクからソ連各地の収容所に広がっていったのは1946年の春以降であるが、当初この運動は日本軍国主義を批判する反軍闘争として拡大し、『日本新聞』が積極的にこれを宣伝した。反軍闘争は、ソ連に抑留されても日本軍の階級を理由に横暴な態度を取り、下級兵士たちから食事のピンハネ等をしていた上官たちに矛先を向けていった。ソ連の管理の下で運動は拡大したが、日本人同士の行き過ぎた「吊るし上げ」、いじめ、密告、リンチが発生した。日本軍国主義批判の潮流は、閉鎖的なソ連の収容所に現われた新しい思想であったが、徐々にソ連流の「民主化」(共産主義)に賛同していることが「進歩的」であるとの思想に取って代わり、軍国主義者から「民主主義者」(共産主義者)になって帰ることが、彼らに課された任務と思い込むようになった。戦時中の軍歴や職歴に、反ソ的なものがあれば密告し、反動として大衆の前で「吊るし上げ」、同胞をそのように扱う姿をソ連当局に見せることで、収容所での立場が有利になったり、帰国が早まったりすることがあった。

抑留の中の人間らしさ

そのような殺伐とした雰囲気をもたらした政治教育は、一方で日本人の間に独自の人間的活動をもたらした側面があったことも確かである。初等教育を修了せず軍隊に入隊した読み書きのできない者たちのために、『日本新聞』を使ったカタカナサークルが作られたり、自作の俳句、短歌、小説が「民主的」であるかどうかと品評会を開いたり、芸術の才能に恵まれた者たちによって結成された楽劇団が、各収容所で「民主的」な音楽の作曲、手作りの楽器などを使った「ロシア民謡」の演奏、芝居の脚本書きや上演を行い、同胞たちを「慰問」したりした。楽劇団にいた吉田正、三波春夫、青木光一、スマイリー小原(栗原照夫)などは、無事に帰国したのち、日本の音楽界を代表するスターになっていった。政治的な活動ではないものの、将棋の駒を手作りして仲間と勝負をしたり、手作りしたアルミ製のスプーンの完成度を競ったり、帰国の時期を「こっくりさん」で占うといったひと時の生きる糧も見つけていた。

過酷な抑留生活を癒したであろう文通についても、少し書いておきたい。映画「ラーゲリより愛をこめて」では、収容所の日本人たちが家族から届くハガキに歓喜する場面が描かれていたが、家族との通信が許可されたのは、抑留から1年以上経過した1946年10月ごろであった。ハガキは、2枚1組の見開きで、赤十字はがきを使用した。1枚はソ連にいる日本人が書き、もう1枚は日本からの返信用に使われた。ソ連から送るハガキ、ソ連に到着するハガキは、それぞれ検閲を受けた。検閲は1949年までは軍事秘密都市であったウラジオストクの郵便局で、1950年以降はハバロフスクの郵便局で行われていた。ハガキには死亡した捕虜の名前、死亡者の数、病気の捕虜の名前や病院名、労働作業の内容、収容所場所を書くことが徹底して禁止された。すべて検閲済みのスタンプを押されたものだけが、知らせを待つ家族や縁者、ソ連の日本人まで届けられた。大量のハガキが検閲に不合格となり、ソ連の郵便局で焼却処分された。「元気でやっています。」「そちらも元気でやっていますか。」「みな健康で過ごしています。」といった当たり障りのない内容のハガキだけが宛先に届けられたが、届いた自筆のハガキを読んだ時は、シベリアでも日本でも双方で皆が一喜一憂したであろう。

永徳丸での引揚

ナホトカからの帰還と長期抑留

日本への帰還が開始されたのは、1946年12月の「ソ連地区引き揚げに関する米ソ協定」の締結後であった。当時日本は米占領軍の統治下におかれ、日本人捕虜や民間人抑留者の引き揚げや帰還の交渉は、アメリカとソ連の間で決められた。引き揚げ援護庁(局)の史料によると、一般邦人の抑留者も含め、樺太や千島を除くソ連地域から帰還した者は、1946年:5,000人、1947年:200,774人、1948年:169,619人、1949年:87,416人、1950年:7,547人いた。日本人捕虜・抑留者の帰還に関する米ソ協定では、毎月5万人を送還すると定めていたが、それが遵守されることはなかった。最初は民間人抑留者が帰され、労働力として使われていた日本人捕虜たちの多くは、1947年の後半から引揚船で徐々に帰国の途についた。しかし、ようやく念願の故郷にたどり着いた彼らは、政治教育に感化された者たちを中心に新しい日本で「異様」で「異質」な集団とみなされたり、米占領軍の警戒態勢の影響もこれに拍車をかけたりしたことで、日本社会の中で「シベリア帰りはアカ」と差別されるようになった。そのため、不当な差別や就職拒否にあわないように、「シベリア帰り」であることを隠して生活する者も多数いた。

ソ連は1949年12月をもって日本人捕虜の送還完了を宣言した。映画に描かれた通り、山本幡男は1949年までに帰国を果たせず長期抑留を強いられる中で亡くなったのであるが、彼らのような長期抑留者をソ連の定義で「戦犯」や「政治犯」と呼んだ。ソ連は、戦時中の活動を同胞である日本人同士で密告させ、諜報機関、憲兵隊、関東軍の参謀、731部隊員、反動的な者などを日本への帰還者リストから外す手はずを整えていた。アメリカがイニシアチブをとる東京裁判に対抗する意識を持っていたためと考えられる。一方的に呼び出され、禁固刑や自由はく奪を言い渡された者もいたが、「正式」に1949年12月のハバロフスク裁判にて、ソ連の国内法で反論の機会なく裁かれた山田乙三や瀬島龍三らの軍幹部もいた。ソ連が抱えた長期抑留者は、1000人を超していた。1956年10月、日本とソ連が国交を回復すると、「恩赦」を受けた関東軍の将官ら残された長期抑留者すべては、同年12月26日、最終帰還船興安丸にて京都舞鶴港へ入港した。ただし、悔しくも帰国目前の12月21日に脳梗塞で死亡した川越重定(元関東軍第5軍参謀長)、ソ連国籍を取得して残留した袴田陸奥男や旧軍属の蜂谷彌三郎といった人たちもいた。このように「シベリア抑留」は、数奇ともいえる60万人分のそれぞれの生きた証を背負った歴史なのである。




参考文献

小林昭菜『シベリア抑留米ソ関係の中での変容』岩波書店 2018

辺見じゅん『収容所から来た遺書』文藝春秋 1992

森谷理紗『シベリア抑留下の芸術と人間』桜美林大学叢書 2024