論稿「尖閣諸島領土編入経緯における英国海図の考察」の中でとりあげた、英国海図第1262号について、(1)中華人民共和国釣魚島デジタル博物館で掲示されているもの、(2)中華民国中央研究院デジタル文化センターで掲示されているもの、2点の記載内容を確認したが、両図の相違点については、あまり詳しく触れなかった部分があるので、このメモで補完しておきたい。
両図共に英国海軍水路部が刊行した1262号図である(釣魚島図は推定だが)にもかかわらず、その表記内容には見過ごせない相違点が、大きいものだけで2点ほどある。
1.島嶼群の名称
釣魚島デジタル博物館図(※以下「釣魚島図」とよぶ)では、いわゆる沖縄諸島や先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)について、以下のように記載されている。
沖縄諸島:「OKINAWA GUNTŌ」
先島諸島:「SAKISHIMA GUNTŌ」
上記諸島を包括する意味か、大きく「NANSEI SHOTŌ」という記載も確認できる。
・釣魚島デジタル博物館図(1877と説明されるも真偽は不明)
一方、中央研究院デジタル文化センター図(※以下「中央研究院図」とよぶ)を見ると、
沖縄諸島:「LU-CHU GROUP OR LIU-KIU」
先島諸島:「MEIACO-SIMA GROUP」
となっていて、「NANSEI SHOTŌ」の記載は見当らない。
・中央研究院デジタル文化センター図(1870)
率直な感想として、釣魚島図の南西諸島部分の記載は、近代以降の日本的な名称が採用されている印象を受ける一方で、中央研究院図の記載は「琉球」に対する当時の欧米諸国の認識が色濃く反映されているようにうかがえる。
このような両図における名称の記載の相違点を見るに、釣魚島図は中央研究院図より近代日本の知識及び情報が取り入れられた、おそらく後年に改訂された1262号図の可能性が高いと考える。
・上は、日本水路部が1888(明治21)年に刊行した英国海図2412号の覆版、海軍海図第210号『自鹿児島海湾至台湾』(1891年改訂版)1。「先島群島」「八重山列島」「宮古列島」など、もととなる英国海図にはない日本側の名称を書き入れている。
2.「Tia-u-su」の標高
釣魚島博物館図の尖閣諸島部分には「Hoa pin su」(魚釣島)、「Tia-u-su」(久場島)、「Raleigh R.k」(大正島)の3島が記載されている。
久場島部分を見ると、<「Tia-u-su」(384)>という記載が確認できる。(標高384フィート)
・釣魚島図
一方、中央研究院図の久場島部分を見ると、<「Tia-u-su」(600)>の記載が確認できる
・中央研究院図
両図に記載された、久場島の標高、すなわち観測された数値は異なっている。東大史料編纂所所蔵の2412号図(1865)でも久場島の標高は600フィートであり、その後に日本で刊行された覆版の多くも600フィートと記載されていることから、英国水路部が当初観測した標高(600)2の後年に、別の観測者によって更新された標高が、釣魚島図には記載されていると考える。
・東大史料編纂図(英国海図第2412号)
久場島を新たに観測して標高を測定したのは何者なのか、筆者の知る限りになるが、日本海軍水路部が1915(大正4)年3月から5月にかけて実施した「尖頭諸嶼測量」がそれにあたると考える。
明治維新後にはじまった、近代の日本近海測量と海図作成は、すでに東アジアで多くの海域を測量、製図をおこなっていたイギリス水路部が作成した英国海図を参考にするとともに、その覆版を作成することが多かったが、1882(明治15)年、水路部の前身である水路局、その局長、柳楢悦は日本全国沿岸測量の長期計画に着手3、この壮大な測量計画は柳の没後も歴代水路部に引き継がれた。1906(明治39)年に水路部より海軍大臣へ提出された、「明治四十年度以降測量計画区域」には、1914(計画では明治47年)度以降の測量区域に「...八重山列島北方約百二十浬ニアル島嶼及与那国島...」が言及されている4。
水路部による実際の測量は1915(大正4)年度の測量で計画(同年2月下旬~4月、先島群島:魚釣島附近及宮古島東方海面、八重山列島南方海面5)・実施された。
久場島(黄尾嶼)に上陸した測量班は報告書「尖頭諸嶼附近見聞記」の中で、島の最高峰が「三八〇呎(フィート)」になることを報告している6。
(※下図は同報告書に添付された、尖頭諸嶼附近の図面より、久場島(黄尾嶼)部分を切り抜いたもの。中央付近に「380」の評測値が記載されていることが確認できる)
つぎに数値について、380(日本水路部)と384(釣魚島図)、両者には4フィートの違いがある点を考えてみたい。
1915(大正4)年、日本水路部の測量調査が実施されてのち、同水路部は1919(大正8)年7月に、「日本水路誌第6巻」を刊行した。同書は既刊の「日本水路誌第2巻下」の改称版であり、1914(大正3)年以降の新資料により前版の記載を改訂増補したものだが、この書には久場島の標高は380フィートと記載されている。同年代(大正8年前後)における関係海図の記載については、現在のところ見出すことはできなかった。
なお、1919(大正8)年に開催された国際水路会議で各国水路図誌におけるメートル法の採用が決議され、翌1920(大正9)年にはわが国海図図式においてもメートル式海図の作成が水路部によって決定、告示された7。以降、これまで刊行された水路誌・海図における表記はメートル法での記載に順次切り替えられていくこととなる。
以下、官報より尖閣諸島に関する記載がある改版水路図誌を以下に見ていくと。
・1930(昭和5)年12月、『台湾南西諸島沿岸水路誌』(旧版『日本水路誌第6巻』)刊行8。
・1931(昭和6)年8月、メートル式海図第210号「長崎至厦門」刊行、旧210号廃版9。
・1932(昭和7)年5月、メートル式海図第1203号「沖縄島至台湾」刊行、旧版廃版10。
・1934(昭和9)年7月、メートル式海図第381号「黄海、東海及附近」刊行、旧381号「香港至遼東海湾」廃版11(※英国海図1262号の覆版)。
1930年から1934年にかけて、メートル式に切り替えられた改訂版の海図について、第210号、第381号などは画像が確認できないが、『台湾南西諸島沿岸水路誌』(1932年改訂版)12の久場島部分の記載を見るに、その標高は「高サ117m」とある。また、海図第1203号『南西諸島沖縄島至台湾』(1960年改訂版)には尖頭諸嶼として「黄尾嶼(久場島のこと)」の標高が117(メートル)と記載されていることが確認できる。
117mをフィートに換算すると、383.858ft、およそ384フィートになる。釣魚島図に記載された「Tia-u-su」の標高(384)は、英国水路部が日本で刊行されたメートル式海図誌、海図第210号、1203号、381号および「台湾南西諸島水路誌」を参考にして、改訂したものと考える。
・上の画像3点は『南西諸島沖縄島至台湾』(1960)の部分、黄尾嶼(久場島):117、魚釣島:36213、メートル法による標高の記載が確認できる14。
3.小結
以上、釣魚島デジタル博物館が掲示する英国海図第1262号について、海図に記載された内容から、その改訂・刊行時期について検討した。南西諸島部分の記載内容、久場島部分に記載された標高を検討した結果、同図は日本水路部が1915(大正4)年に実施した実地測量のもと、昭和期に刊行されたメートル式海図および水路誌の記載内容を参考にして、英国水路部が改訂した1262図の可能性が高いことを確認した。
その時期は、少なくとも1930年12月~1934年7月以降のことになると考えられる。
最後に、筆者の個人的な感想になるが、創設当初は、英国海図や水路誌の覆版・翻訳に頼ることの多かった日本水路部だが、近海測量を積み重ね、編製した海図がやがて英国海図の記載内容に影響を与えたことは、興味深いものがある。
また、釣魚島デジタル博物館が掲示する英国海図1262号は、1895年の閣議決定以降日本国による尖閣諸島に対する平和的かつ継続的な行政権の行使が行われる中で、日本国の発行した海図・水路情報を参照して英国水路部が刊行した海図と言えるだろう。
2 600フィートという数値は、1845年にイギリス海軍サマラン号が久場島に上陸して観測したものである。サマラン号艦長ベルチャーが出版したサマラン号航海記には「...この島(※Tia-u-su)は、約60フィートから約600フィートの頂上まで、緩やかな低木で覆われていますが、大きな木はありません...」(...The capping of this island, from about sixty feet to its summit, which is about six hundred feet above the level, is covered with a loose brushwood, but no trees of any size....)との記載がある。『Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang during the years 1843-1846. Vol.1』 。https://archive.org/details/b29351030_0001/page/n9/mode/2upを参照(航海記第1巻本文p319の後半部分)
3 水路部 編『水路部沿革史』明治2-18年,水路部,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10304435 (参照 2024-10-08)、明治15年の項を参照。
4「測量」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091839700、明治39年 公文備考 巻77運輸交通通信水路地理(防衛省防衛研究所)https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C06091839700
5「測量」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08020708600、大正4年 公文備考 巻115 水路地理気象(防衛省防衛研究所)https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C08020708600
6「諸報告(2)」JACAR(アジア歴史資料センターRef.C08020709600、大正4年 公文備考 巻115 水路地理気象(防衛省防衛研究所),https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C08020709600
7 大蔵省印刷局 [編]『官報』1920年12月04日,日本マイクロ写真 ,大正9年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2954618/1/7 (参照 2024-10-07)、水路告示、9年告第371項「米式海図発行」。
8 大蔵省印刷局 [編]『官報』1930年12月20日,日本マイクロ写真 ,昭和5年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2957662/1/6 (参照 2024-10-07)、水路告示、5年1960項「書誌番号付与」。
9 大蔵省印刷局 [編]『官報』1931年09月05日,日本マイクロ写真 ,昭和6年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/29578751/6 (参照 2024-10-07)、水路告示、6年1145項「海図改版」。
10 大蔵省印刷局 [編]『官報』1932年05月07日,日本マイクロ写真 ,昭和7年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/29580741/6 (参照 2024-10-07)、水路告示、7年562項「海図改版」。
11 大蔵省印刷局 [編]『官報』1934年08月18日,日本マイクロ写真 ,昭和9年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2958766/1/4 (参照 2024-10-07)、水路告示、9年1103項「海図改版」。
12 水路部 [編]『台湾南西諸島沿岸水路誌』[本編],水路部,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10304687 (参照 2024-10-07)、「尖頭諸嶼」の項を参照。
13 魚釣島の標高362mをフィートに換算すると、「1187.66ft」となり、少し見難いが釣魚島図に記載された「Hoa pin su」の数値と一致する(1915年水路部の観測では「一一八六呎」)。
14 尖閣諸島文献資料編纂会所蔵、尖閣周辺海域でマチ釣漁を行っていた沖縄の漁業者から寄贈されたもの。