第二次世界大戦後80年近くが経過し、当時の「記憶」は薄れつつある。戦闘を直接経験した世代が徐々にいなくなり、遺族も数を減らしている。遺児の平均年齢が80歳を超え、生の「記憶」がなくなると、「記憶」は<歴史>となる1。そしてこの<歴史>をめぐって、日本が近隣諸国との間に齟齬を有していることは改めて指摘するまでもないだろう。本稿は、こうした事情を念頭におきながら、日本との対比で言及されることの多いドイツの事例を紐解くことで、歴史とその解釈について一考察を加えるものである。
冷戦期:「ドイツ問題」と「『二つのドイツ』問題」
第二次世界大戦が終結したドイツを待っていたのは荒廃した祖国、そして新たに生まれつつある対立であった。敗戦後ドイツを分割占領していた連合国は徐々に占領政策をめぐって足並みが乱れ、ついには西側占領国のみでドイツマルクの制定―いわゆる通貨改革―が決定されるとソ連がこれに反発、西ベルリンに通じる陸路を塞ぎ(ベルリン封鎖)、ドイツの東西分断は既成事実となった。こうして、新たに誕生したドイツ連邦共和国は、誕生直後から二つの「問題」を抱えることになった。一つは「ドイツ問題(German Question)」であり、もう一つが「『二つのドイツ』問題」である。
20世紀に二度起こった世界大戦は、そのどちらもドイツがきっかけとなっている。19世紀に誕生したドイツ帝国が経済的発展を遂げ、またその力を軍事力に転換したことで欧州内の緊張感が高まり、第一次世界大戦が勃発した。その後ワイマール共和国を経て再び第三帝国が誕生すると、同様にヨーロッパ全土を戦争に巻き込むこととなった。ドイツが欧州域内を不安定にすることこそが「ドイツ問題」であり、その根幹はドイツがドイツ領土内に収まるには強すぎる一方で、欧州全土を征服できるほどには強くないことにある。第二次世界大戦後の欧州では二度と「ドイツ問題」を起こさないことが重要であり、ドイツは「これまでのドイツとは違う」ことを示す必要があった。
一方で、戦後すぐに冷戦という新たな対立構造ができたことで、ドイツは「二つのドイツ」とならざるを得なかった。東西対立の中で、まさにドイツ「国内」が対立の最前線となったのである。新たにできたドイツ連邦共和国(西ドイツ)及びドイツ民主共和国(東ドイツ)はそれぞれに、どちらがより正統なドイツであるかをめぐって競わなければならなくなった。つまり、「どちらがより正しく『ドイツ』を引き継いでいるか」を示す必要があった。こうして、戦後すぐのドイツは「変化を示すと同時に」「継続性(正統性)を主張する」という二つの相反する課題を抱え込むこととなる。
こうした問題意識の中で、クローズアップされたのが第二次世界大戦中の交戦国との関係である。かつて占領した国との関係を良好化させることは、「ドイツ問題」が解決したことを示すと同時に、戦中の『ドイツ』を引き継ぐことを意味するからである。ドイツ連邦共和国初代首相のコンラート・アデナウアーはこのことを十分に自覚し、とりわけフランスとイスラエルとの和解に力を注いだ。フランスとの和解については既に1920年代には念頭にあったと語り2、ドイツのフランスとの継続的な和解なくしてヨーロッパは成立し得ないと連邦議会でも発言している3。こうしてドイツとフランスは1960年に二国間合意を結び、1963年にはエリゼ条約(仏独協力条約)が締結された。エリゼ条約は両国閣僚の定期協議実施などを含む独仏の戦後協力を定めており、今日の独仏関係の礎とされる4。
イスラエルに対する西ドイツの賠償も1950年代には始まっていた。アデナウアーは、イスラエルとの和解が成らなければ、ドイツは戦争とナチの犯した犯罪で失墜したイメージを回復できないと語っている5。自由主義陣営の国家として再び国際社会に復帰するためにも、ドイツはイスラエルに謝罪する必要があった。こうして1952年に西ドイツとイスラエルは賠償に関する合意であるルクセンブルク協定を結び、1960年にはアデナウアーとダヴィド・ベン=グリオンイスラエル首相がニューヨークで会談を行った。ルクセンブルク協定締結の前年に行った連邦議会の演説では「ドイツ民族の名において」行われた「言語を絶する犯罪」に対し、西ドイツ政府と大多数のドイツ人は果てしなく深い悲しみに」くれていると表現している6。
アデナウアーとベン=グリオン
これに対して、「もう一つのドイツ」であるドイツ民主共和国は、イスラエルからの賠償請求に一切応じなかった。反ファシズム国家を自認する東ドイツにとって、ファシズム国家であったナチ・ドイツは既に超克した存在であり、戦後賠償を引き受けることによって「継続性」を認めるわけにはいかなかったからである。こうして東西ドイツ両国は、戦後賠償について異なる態度を示すようになった。
中道右派政党であるキリスト教民主同盟(CDU)が50年代に明確に戦後和解に乗り出したことによって、西ドイツは「ドイツ問題の解決」と「『二つのドイツ』問題の解決」の両立を目指した。一方で、アデナウアー政権が長期化すると、国内ではその政権運営をめぐって種々の批判が蓄積した。特に、中道左派政党である社会民主党(SPD)が世代交代と現実路線への転向に成功して支持率を回復していくとCDUは議席を減らしていき、両者は1966年に連立政権を組むことになった(いわゆる「大連立」)。他方で、こうして議会内に圧倒的多数を誇る与党が出来上がることが、「議会制民主主義の危機」として左派運動家を勢いづけることとなり、60年代後半から70年代にかけて社会の左傾化が進んだ。
こうした中でSPDが政権運営に乗り出すと、社会的な左傾化と相俟って、一部の国家からはドイツに対する不信感が再燃することとなった。後に首相となったヴィリー・ブラントを中心として推し進められた「東方政策」にイスラエルのゴルダ・メイア首相が不信感を示したことは別稿で述べたとおりである7。一方で、だからこそ、ブラント政権はイスラエルとの関係に特別の注意を払い、1970年にポーランドを訪れた際にはワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑の前で跪き、ユダヤ人への謝罪の意図を明確にした。これを機にブラントとメイア両首相の間には緊密な関係が築かれることとなる。
ブラントとメイア
冷戦構造の中で、西ドイツにとって和解政策は「ドイツ問題の解決」と「『二つのドイツ』問題の解決」として広く中道政党間で社会的コンセンサスを得ることとなった。また、ヘルムート・シュミット政権までの歴代首相は全て戦前・戦中世代であり、第二次世界大戦の「記憶」も色濃く共有していた。一方で、1982年に登場したヘルムート・コール首相は戦中に生まれたものの(1930年)、戦闘には参加していない。また、社会の中でも、戦後世代が占める割合が大きくなっていくと、冷戦と戦争の記憶が生み出していた社会のコンセンサスは世代交代の挑戦を受けることとなる。実際にコールはドイツ政治の「精神的・道徳的転換」をうたい、「あとから生まれた者の恩恵」について語った8。1985年にロナルド・レーガン米大統領と共に米独両軍の第二次世界大戦戦死者が眠るビットブルク墓地に献花をしたこともその一環であったが、後にこの墓地にナチの武装親衛隊員が埋葬されていることがわかり、批判を呼んだ。
コール政権のこうした方針転換を背景に、社会内でも再度議論が活発化する。1986年には歴史学者のエルンスト・ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」と題して新聞に寄稿した論稿でナチによる非人道的行為の「論理的かつ事実上の先行者」はボリシェヴィキであると指摘し、ホロコーストの相対化を図った9。これに対して哲学者のユルゲン・ハーバーマスが反論し、弁明するためにホロコーストを相対化することを痛烈に批判した10。「歴史家論争」と呼ばれる一連の議論で再確認されたのは、加害行為―ここではナチ・ドイツが行ったホロコースト―の相対化を否定し、絶対的な非人道的行為として認める、という姿勢であった。こうして、世代交代を背景とするナラティブの変化は改めて否定され、これが今日に至るまでドイツ連邦共和国における歴史認識の公的な姿勢となっている。
一方で、これを以ってドイツの過去をめぐる問題が全て解決したと考えるのは早計である。1980年代のドイツは依然として分断国家であり、冷戦は終わっていなかった。この意味で、法的な歴史和解の焦点となったのは西側諸国に限られており、また、戦争に由来する賠償問題に関しては、究極的にはロンドン債務協定(1953年)によって、ドイツ統一後に取り組まれることが決定していたからである。そして、この時点で誰もドイツ再統一を予測していなかった。1990年までのドイツ連邦共和国の歴史問題は、冷戦という構造に大いに規定されていたのである11。
冷戦終結:歴史をめぐるナラティブの固定化と文脈の多元化
1989年10月に再統一を果たしたドイツはついに冷戦という国際政治構造を超越した。また、世代交代も否応なく進展する。第二次世界大戦が終了して約50年が経過した1990年代になると、「ドイツ問題」は後景に退き、「『二つのドイツ』問題」も解決され、世代交代の波が一層強く感じられるようになる。ナチに関する国内での研究も成熟し、「これまでとは違う視点」で歴史が語られるようになった。たとえば、戦時下の女性に焦点をあてた研究では女性の被害性に注意が向けられるようになり、国防軍の「普通の人」に注目した展示会や歴史書などが刊行されるようになった12。
東ドイツとの統一そのものが与えた影響も無視できない。ドイツ民主共和国がその政治体制の維持を断念するに際して、東西ドイツの統一は決して既定路線だったわけではない。国際政治の観点からも、当時のイギリス首相であったマーガレット・サッチャーが東西ドイツ統一に反対していたことはよく知られており、また、東ドイツの民衆運動自体も、必ずしも当初から西ドイツとの統一を期待していたわけではなく、「より良い社会主義」を希求していた団体が多かった13。さらに再統一するにしても、どのような方法で統一するかについていくつかの考え方があった。そもそも、ドイツ連邦共和国は将来の統一を見越して建国された国家であり、「暫定的に」制定した基本法を国家の礎に置いている。1940年代の基本に立ち返れば、再統一に合わせて国家を形成し直すことも論理的にはあり得たが、最終的には、ドイツ民主共和国であった4州がドイツ連邦共和国に編入されることで統一を果たした。このため、現在に至るまでドイツ連邦共和国の歴史和解政策は、西ドイツの和解政策を基本としている14。
ホロコースト記念碑 |
ナチスに迫害された同性愛者の慰霊碑 |
こうした環境の中で、80年代から計画されていたホロコースト被害者を追悼する記念碑の建設が1999年に決定された。同年には、「記憶・責任および未来」基金も創設され、ナチ時代の強制労働者問題への補償に関しても本格的に取り組まれることとなった。ホロコースト被害者の記念碑建造は、改めてそれ以外の被害者にも目を向けさせることとなり、これまであまり触れられてこなかった同性愛者やシンティ・ロマといった、別の文脈でナチドイツから排除された人々の記念碑も次々に建造された。こうして、80年代に固定化された「絶対的」な加害行為の語りと、さらなる広がりを見せた1990〜2000年代の歴史和解の文脈によって、いつしかドイツの取り組みは模範的とみなされるようになり、2000年代以降、日本との比較によって取り上げられることが増えた。と。とりわけメルケル政権は歴史和解の定着に熱心であり、「イスラエルの安全保障がドイツの国是」であると言う表現も、彼女が定着させた15。2000〜2010年代のドイツの歴史問題は、もはや解決済みであるかのようにさえ見えた。
2020年代:世代交代と「絶対化」の罠?
和解問題について優等生として捉えられることの多かったドイツであるが、その背景に色濃く冷戦の影があったことは既に述べた通りである。前提となる冷戦構造がなくなった以上、改めて、世代交代がもたらす影響は益々強くなっていく。このことがまさに露呈したのが2023年10月7日のハマスによる人質誘拐事件とその後の中東紛争であった。ドイツ国内の10月7日事件への関心は当然ながら非常に高く、ショルツ首相は事件発生後すぐに「イスラエルの安全保障はドイツの国是」であると述べ、それまでのドイツ政府の公的ナラティブを踏襲した16。
国内の世論調査も当初はイスラエルに同情的な声が多かったが、イスラエルが報復攻撃を開始し、その攻撃が比例原則を超えるものとなると、ドイツ国内でもイスラエルに対して批判的な声が出始めた。現在では70%近くがイスラエルの攻撃を「不当」であると看做しており、社会的にはパレスチナへの同情が共感を呼んでいる17。一方で、政府の見解は依然として「相対化を否定し、絶対的な罪」を是認した従来の見解を踏襲しており、イスラエルの安全保障上の権利を繰り返し主張している18。SIPRIの調査では、2019-2023年に使用されたイスラエルの武器のおよそ70%が米国製であり、残り30%がドイツ製である19。こうしたドイツ政府の姿勢は海外からも批判され、たとえばナミビアは第一次世界大戦中にドイツ帝国軍が犯した戦争犯罪について、これまでドイツが十分な補償をしていないことと併せて、現在のドイツ政府のイスラエル擁護の立場を強く非難している20。
世論と政府見解のずれには、やはり世代交代が大きく影響していると考えられる。80年代にフィックスされた「絶対的な」加害性の認識は、もはや戦後世代が大多数を占める社会では必ずしも共有されない。近年ますます増加する外国人に対して敵対的な言動を隠さない人も増えており、また、これを助長するように一部の政治家も公的な場で移民や難民に対する差別的な言動を繰り返している。こうした態度は、ホロコーストの「絶対的な」加害性を社会的コンセンサスとしてきたドイツ社会では本来タブーとされてきた態度である。本稿では、ドイツ連邦共和国が歴史認識についていかなる経緯でこれと対峙してきたかを概観してきた。そこで明らかになったのは、和解政策は冷戦という構造の中でドイツ外交にとって必要な道であったという事実である。冷戦が終わったこと、さらには世代交代によって、一度は完成したかに見られたドイツの和解政策は再び岐路に立っていると言えよう。結局のところ、歴史和解には終わりはなく、常にプロセスに過ぎないということであり、そして今このことを痛感しているのは、他ならぬドイツ政府であろう。