6月28日のイスラエルによるガザ侵攻以降、イスラエル軍とハマースなど武装勢力との間で激しい衝突が続いている。パレスチナ側の死亡者はすでに40名を越え、依然として事態収拾の兆しは見えない。現在、この衝突の直接的な契機としては、ハマース軍事部門(カッサーム旅団)を中心とするイスラエル兵誘拐事件が指摘されている。その一方で、ハマース誕生(1987年)から今回のガザ侵攻に至るまでのハマースとイスラエルの対立・衝突を概観すれば、その背景にハマースによるイスラエル承認問題という一つの大きな争点が存在していることを指摘できよう。今年1月のパレスチナ立法評議会選挙でハマースが勝利を収め、3月にハマース政権が成立してからは、イスラエルのみならず欧米諸国によってもしばしば取り上げられる重要な問題となっている。本稿では、ハマースのイスラエル承認に関する見解について整理・検討を行いたい。
ハマースのパレスチナ解放闘争においては、パレスチナ全土の解放が最終目標とされている。1988年制定の『ハマース憲章』第11条では次のように述べられている。「ハマースは、パレスチナの地が復活の日までの全世代のムスリムにとってイスラームのワクフ(注)の地であると信ずる。その地、あるいはその一部を諦めたり、放棄したりすることは過ちである。…(中略)…これがイスラーム法におけるパレスチナの地についての規定であり、ムスリムが武力によって征服した全ての土地に関する規定と同様である。ムスリムは征服時にその地〔パレスチナ〕を復活の日までの全世代のムスリムにとってのワクフの地としたのである」。ハマースにとって、パレスチナの全土解放は変更の許されない最終目標と考えられている。したがって、イスラエルとの相互承認と「ミニ・パレスチナ国家」構想を前提とするオスロ合意とそれ以降の和平交渉・和平プロセスは決して受け入れられないものとなる。
2006年1月に実施されたパレスチナ立法評議会選挙においてハマースが発表した選挙綱領でも、対イスラエル抵抗活動について言及がなされている。しかし、この選挙綱領では、抵抗活動そのものに関する記述は少数にとどまった。これについては、しばしば、選挙綱領ではイスラエルに対する強硬姿勢が控えられていると言われることもあった。確かに、憲章と比べれば若干のトーンダウンも認められる。また、選挙期間中の立候補者たちによる対イスラエル交渉の可能性への言及もそれを反映しているとも言えよう。
しかし、選挙綱領の第1部では、次のように述べられている。「歴史的パレスチナとはアラブおよびイスラームの地の一部であり、それはパレスチナ人の有する権利である。それは時間の経過によって消滅するものでなく、また軍事的措置やいかがわしい法的措置によって変わることのないものである」(第1部2条)。この記述は、ハマースのこれまでの対イスラエル姿勢とは矛盾しないと考えられる。また、武装闘争についてもその放棄については言及されておらず、「パレスチナ人は、依然として祖国解放の段階に生きている。パレスチナ人には、武装抵抗を含むあらゆる手段を用いて諸権利を回復し、占領を終結させる権利がある」(同4条)と述べられている。また、パレスチナ難民についても、「難民となった、また追放された全パレスチナ人の土地・財産返還権、自決権、祖国に関する全ての権利、これらは奪われる余地が一切ない権利とみなされる」(同5条)と述べられており、「ミニ・パレスチナ国家」を承認したわけではないとの姿勢を示している。確かに、選挙綱領における対イスラエル抵抗活動についての記述は少ないが、これらの条項の存在、さらには国内有権者向けの文書という選挙綱領の性格を勘案すれば、イスラエル承認に向けて大きく踏み出したと断言することは難しいであろう。
今年3月、イスマーイール・ハニーヤを首相とするハマース政権が誕生したが、同政権は成立直後から困難な政権運営に直面した。国内的には治安機関の権限掌握などを巡ってファタハと衝突を繰り返した。また、国際的にはイスラエルとの対立が深まり、さらには欧米諸国による援助・送金停止などの措置によって深刻な財政危機に陥った。このような事態の打開策としてハマースとファタハを含むパレスチナ各派の間で議論されてきたのが、「国民融和文書」であった。この文書は、獄中にあるパレスチナ各派のメンバーによって今年5月に発表されたものが原型となっている。6月27日、イスラーム・ジハード運動を除くパレスチナ主要各派は若干の修正を踏まえた上で、国民融和文書に合意した。
この国民融和文書で注目すべき点は、第3条における「1967年の占領地に抵抗〔活動〕の焦点を定めること」との文章である。これは1967年の第三次中東戦争の占領地を除くイスラエル領への攻撃を停止することであるとして、ハマースによる「ミニ・パレスチナ国家」とイスラエルの実質的承認であると報じられた。これに対して、パレスチナ立法評議会第一副議長を務めるハマースのアフマド・バハルは、エジプト・ムスリム同胞団ウェブサイトとの6月30日付インタビューで次のように答えている。「我々〔ハマース〕は、1967年と1948年〔の第一次中東戦争〕の国境、およびパレスチナの地におけるイスラエル国家を公式に認めていない」。また、国民融和文書序文においても、パレスチナ人の諸権利は決して減ずるものではなく、占領の正当性を認めない旨の記述があるとして、ハマースの従来の基本方針には何ら変更はないと述べている。他のハマース幹部も、イスラエルの承認ではないとしばしば明言している。
この一見矛盾するハマースの主張を考える際には、「停戦」と「和平」を区別して検討する必要があろう。ハマースはこれまでに何度もイスラエルに対して停戦の呼びかけを行い、実際に停戦を実施してきた。また、イスラエルへ交渉の呼びかけも行ってきた。ハマース対イスラエル交渉の基本方針は段階論に基づくものであり、概して第三次中東戦争(1967年)の占領地からの撤退が交渉開始の条件となっている。例えば、1994年の政治部門声明は次のように交渉過程を提示している。
①エルサレムを含む西岸とガザの占領地からのイスラエル軍の無条件撤退。
②上記地域におけるユダヤ人入植地の撤去。
③全パレスチナ人による自由選挙で立法議会を樹立し、議会が最高指導者を選出する。その指導者の下で、占領者(イスラエル)との交渉を行う。
また、ハマース誕生間もない1988年、マフムード・ザッハール(現外相)はイスラエルのペレス外相(当時)に向けて、次のような交渉案を提示した。
①エルサレムを含む1967年の占領地からのイスラエル軍撤退意思表明。
②占領地の国連委任統治化。
③全パレスチナ人によって、和平対話のための代表部を選出。
④両当事者による包括的な交渉の開始。
ハマース初代最高指導者アフマド・ヤースィーンや第2代最高指導者アブドゥルアズィーズ・ランティースィーらもイスラエルに停戦交渉の呼びかけを行ったが、第三次中東戦争占領地からのイスラエル軍撤退がその条件とされている点は共通している。なお、これらの交渉提案で注意しなければならないのは、あくまでも交渉開始条件、あるいは交渉方法のみが示されている点である。イスラエルの生存権には言及がなく、両者間の交渉の後にイスラエルが存在しえるか否かについても言及はない。すなわち、ハマースにとって和平交渉とは、イスラエルの存在を前提にして行うものではなく、またパレスチナ全土解放路線の放棄を前提に行うものではない。パレスチナ全土解放のための戦略の一部あるいは出発点として、イスラエルとの交渉が位置づけられているのである。この点が、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の相互承認に基づくオスロ合意以降の和平プロセスとは大きく異なる。
ハマースが従来取ってきたこのような基本方針に鑑みれば、国民融和文書をめぐるハマースの一見矛盾する主張にも一貫性を指摘できよう。すなわち、ハマースは同文書において1967年の占領地以外のイスラエル領に関する停戦に合意するのであり、それはイスラエル承認、あるいは最終的な国家形態としての「ミニ・パレスチナ国家」承認を必ずしも意味するものではないと考えられる。ここには、パレスチナ全土解放を掲げつつも、段階論的な立場からイスラエルと長期の暫定的停戦を行い、それを最終目標に至るまでの一時的状態とする段階論的な戦略がうかがえる。大原則は堅持しつつも、その実践部分で現実主義的な柔軟な対応を取り、イスラエルが存在する現状維持を図ることは、ハマースにとって可能な選択肢であろう。
なお、国民融和文書では、第2条にPLOをパレスチナ人の唯一正統の代表とする文言が含まれている。イスラエル承認問題に加え、PLOによるオスロ合意以降の和平合意について、ハマースが同文書合意後にどのような見解を述べるのかは非常に興味深いことであった。しかしながら、合意翌日のイスラエル軍ガザ侵攻によって、同文書ついての進展は事実上停止した状態となっている。今後のパレスチナにおける事態の推移と、沈静化後のハマースの動向については、引き続き注視が必要であろう。
注.イスラーム特有の財産寄進制度で、ワクフに設定された財産については一切の所有権の異動(売買・譲渡・分割など)が認められないとされる。