コラム

FTAをめぐる攻防と日本の戦略

2005-09-14
梶田武彦(特別研究員)
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自由貿易協定(FTA)締結交渉で出遅れていた日本もタイなど5カ国との交渉をまとめた。
自由貿易協定(FTA)締結交渉で出遅れていた日本もタイなど5カ国との交渉をまとめた。ただ、質の高さが十分に確保されたとはいえず、今後の交渉に向けて戦略を練り直す必要がある。その際、「国益」とは何かを真剣に考えなくてはならない。

エピソード1 日本の逆襲?

小泉純一郎首相とタイのタクシン首相は9月1日、FTAの締結で基本合意した。シンガポール、メキシコとの間では協定が既に発効しており、フィリピン、マレーシアとも基本合意に達している。韓国、インドネシア、東南アジア諸国連合(ASEAN)全体とも交渉中で、FTAで後れを取っていた日本の動きが加速している。世界貿易機関(WTO)の自由化交渉が難航する中、FTAの推進に努めるのは当然だ。しかし、日本の交渉姿勢を観察していると、「質より量」を重視しているのではとの疑念がわいてくる。

「がっかりさせられる中身だ」――。最近来日したタイ開発研究所のニポン・ポアポンサクルン上級コンサルタントは日タイ合意について、こう嘆いた。タイにとってはコメなど主要な農産物が協定から除外され、介護士、スパセラピストの日本での就労は継続協議となり、メリットが薄い協定となった。一方、日本からすると、完成車輸出への高関税が当面続くなど不満の残る内容だ。「互いに100点満点の合意はありえない」(日本政府関係者)といってしまえばそれまでだが、多大な時間とエネルギーをかけたのに具体的な成果が乏しいのでは何のために交渉したのかということになりかねない。

エピソード2 ASEAN戦線異状なし?

98年秋以降、日本は従来のWTO一本やりの通商政策を修正し、FTAを本格的に検討し始めた。当初、韓国とメキシコを対象にしたFTAを視野に入れていたが、農水産物の取り扱いが困難だったためシンガポールを先行させた。農業が問題にならない同国との交渉はスムーズに進み、2002年1月に協定が締結された。もともとシンガポールとの貿易量は限られており、FTAができたからといって両国関係が劇的に変化したわけではなかった。ただ、関税分野以外に貿易円滑化、サービス貿易や投資の自由化など幅広い分野をカバーした高度な協定であることは確かで、他国との交渉を進めていく上でのモデルができたという意義は大きかった。

その後FTAの対象がASEANに向かったのは、日本との歴史的に密接な関係、地理的な近さを考えた場合、自然な流れだった。ところが、中国とASEANがFTA交渉を開始するに至って、日本政府部内で迷走が始まる。スピードを重視した外務省が2国間(バイ)の協定を推進しようとしたのに対し、経済産業省が日本企業のビジネス実態に則したASEAN全体との協定(マルチ)を主張して真っ向から対立したためだ。結局、両方を進めていくことになったが、ASEAN側から「日本はASEANを分断しようとしているのか」といった批判を招いた。

中国とASEANのFTAはマルチ一本で単純明快だったが、日本のダブルトラックは複雑で方向性が見えにくかった。シンガポールとバイ協定を締結しておきながら他のASEAN諸国とはやらないとはいえなかったし、地政学的観点からASEANの統合を側面支援するようなマルチ協定が必要なことも事実だった。問題は、時間の制約もあり、日本政府として明確な政策を提示できないまま両方の路線で突っ走っていったことにある。

5月に旧知のオン・ケンヨンASEAN事務局長と久しぶりに会った際、「日本はASEAN5カ国とのバイのFTAにしか興味がないようだ。マルチを通じてASEANの統合を手助けし、政治的・戦略的な日ASEAN関係を築こうという気はないのか」といわれた。一方で「バイだけで十分。バイとマルチを並存させるような面倒なことはしてほしくない」というASEAN関係者も少なくない。ダブルトラック路線は日本とASEANとの関係をぎくしゃくさせている。

エピソード3 アパートの鍵貸します?

そうはいいながらも、ASEAN諸国とのバイは昨年11月にフィリピンと基本合意に達し、今年5月にはマレーシアと、そして今月にはタイとの合意にこぎつけた。マルチは予備協議を経て今年4月から交渉を開始、2年以内に合意することを目標にしている。各国とのバイはそれぞれ双方にとって満点ではないかもしれないが、ある意味で日本はよくやったという言い方もできる。詳しくは立ち入らないが、相手国市場へのアクセスの改善、日本の投資に対して内国民待遇や最恵国待遇が確保されるようになったことは大きい。また、農水産物の輸入や労働者の受け入れを最小限に抑えることに成功した。つまり、よく攻めて、よく守ったといえるのだ。

ただ、これで「国益」に資するFTAが完成したといえるのだろうか。そもそもFTAを締結する意味は何なのか。「FTAを結ぶということは、アパートの鍵を他人に貸すようなもの」(元経産省幹部)との言葉が端的に示す通り、協定締結で当該国・地域は親密な関係に入ることになる。逆の言い方をすれば、親密感をもたらさない協定を結ぶと、下手をすればお互い傷つけあって破局を迎えるだけということになりかねない。「ウィン・ウィン(共に勝者となる)の関係」を構築できなければ、親密感は生まれてこない。

具体的には、経済的利益のみならず地政学、外交、安全保障面でも関係を強化できるような協定が望まれる。経産省が地政学的要素も考慮してマルチを主張したのは評価できるが、実際の交渉では日本企業にとってのメリットを重視するあまり「勝ち負け」にこだわりすぎる傾向がある。外務省は「ウィン・ウィン」とは「けんかしないこと」とでも思っているのか、対立は極力回避して、とにかく速く交渉を妥結するということに腐心しているように見える。

エピソード4 新たなる希望?

相手との関係もさることながら、より重要なのは日本がどのような国家を目指すのかということだ。日本がWTOと並んでFTAを推進する方針に切り替えた最大の理由の一つは、FTAが国内の構造改革を促すからだった。これまでのFTAでも効果はある程度出てきている。例えば、農業がネックとよくいわれるが、FTA時代になってからは、国内の生産者をできるだけ守るという方針に変わりはないものの、果物を中心に農産物を輸出するという攻めの姿勢に転じてきている。また、フィリピンからは看護士・介護士、タイからはタイ料理の調理人などの受け入れが決まっている。輸入面では、一部の農水産物の関税が下がるので、日本の消費者が恩恵を受ける。

だが、言うまでもなく、この程度ではまだまだ不十分だ。今後のFTA交渉では構造改革との連動性を強く意識することが期待される。政府は対日投資や外国人観光客を大幅に増やそうと努力しているが、日本が魅力的な国にならなければ投資も観光客も呼び込めない。FTAをいい意味での外圧として、日本社会を変革する起爆剤にすべきだ。

質の高い協定をスピーディーに締結するには、政治の指導力が不可欠である。省庁間の縦割り体制を排し、複雑な利害関係を調整するためには、米通商代表部(USTR)のような専門の組織を創設すべきとの声もある。週末行われた衆院選では、小泉首相率いる自民党が圧勝した。FTA推進で政治が指導力を発揮できる絶好のチャンスだ。ぜひこの機会を逃さず、将来の国家像をしっかり描き、それを実現する一つのツールとしてFTAを位置づけ、貪欲に「国益」を追求していってもらいたい。