イラク戦争のアーキテクトと呼ばれたポール・ウォルフォウィッツ国防副長官の留任はイラクでの戦闘が続行中ということを根拠とした消極的な留任に過ぎないのか。それとも・・
『フォーサイト』誌 ( http://www.shinchosha.co.jp/foresight/ ) 2005年3月号に掲載
対イラク戦争の設計者(アーキテクト)と呼ばれたポール・ウォルフォウィッツ国防副長官の留任が決まった。ウォルフォウィッツの留任はイラクでの戦闘が続行中ということを根拠とした消極的な留任に過ぎないのか。それともそこにより積極的な意味を読み取るべきなのか。
ブッシュ大統領二期目の就任演説は、「自由」を軸にした壮大な規模の変革を訴えるものだった。そこにウォルフォウッィツの思考の痕跡を見出した人は少なくあるまい。この底抜けに楽観的で、ナイーヴとさえ言える民主化論が、アメリカの「帝国的野心」を覆い隠すためだけの“表の顔”に過ぎないとは言い切れないだろう。
「フォッグ・オブ・ウォー」――これは、戦争という状況そのものを覆う霧の意である。それは政策決定当事者の認識を覆う霧であるともいえる。九・一一テロ攻撃後に発生した霧はいまだ晴れていない。しかし、その中で一貫した世界観を提示し、アメリカの役割に関する議論を方向づけたのがウォルフォウィッツだった。
政権内随一の「ネオコン」と称されたウォルフォウィッツ。しかし、なぜウォルフォウィッツの議論が、政策論争の中でブッシュ大統領に対して説得力をもったかを理解するためには、おそらく「ネオコン」というステレオタイプ的理解から脱却しなければならない。
もう一人の戦略家
戦争を覆う霧といえば、なぜブッシュ大統領がイラク戦争を行なう決断を下したのかというもっとも根源的な問いに対する明快な回答は意外と見つからない。しかし、ひとつ明らかなのは、ブッシュ政権はこの戦争をやむをえない状況の下で開始したのではなく、その必要性があると判断し、明確な決断を下し、自覚的に始めたことである。
二〇〇三年六月に国務省政策企画局長を辞任したリチャード・ハースは、それゆえにこの戦争を「ウォー・オブ・チョイス」と形容している。しかし、ハースは、なぜその選択肢(=戦争)が選ばれたのかという問いに対し、次のように答えている。「自分はその答えを知らないまま、墓場に行くことになろう。...私は、イラクへの戦略的脅迫観念、つまり、なぜイラクが人々の優先リストの最上位に上り詰めたのかについて説明できない」(ニューヨーカー誌二〇〇四年十月十八日号)。歴史を振り返るとたしかに戦争には「フォッグ・オブ・ウォー」が常につきまとい、明確な開戦理由など明らかにならない場合が多い。
ハースは、ウォルフォウィッツとは対極のプラグマティックなリアリストである。ハースは、ウォルフォウィッツ的な理念先行型の思考に感覚的な違和感を覚えていたに違いない。しかし、開戦の決定がなされた時期に政策企画局長を務めていた人物が、まだイラクで戦闘が続いている状況下でこのような発言をすることは、通常では、やはり考えにくい。
ブッシュ政権誕生前夜、政権の外交安全保障政策の方向性を占う指標として、しばしば次のようなことが囁かれた。「ブッシュ政権の外交安全保障チームは、実務家、元政治家、元軍人を中心に構成されることになろう。注目すべきなのは政権入りする可能性が高い二人の戦略家のうち、どちらが政権内で影響力を発揮するかだ」。この二人のうちの一人がウォルフォウィッツであり、もう一人がハースである。
政権誕生当初、この二人の考え方の違いが目立って表面化することはなかった。九・一一テロ攻撃を経た後も、政権が対テロ国際連合の形成を志向し、アルカイダ掃討作戦に取り組んでいる限りにおいては、ハースも政権の一員として「対テロ戦争」が必要だという認識を共有していた。その構図が大きく変わるのは対イラク戦争に向けた動きが政権内で本格化した瞬間である。ウォルフォウィッツは、当初からその動きの中心にいた。
アフガニスタンにおけるタリバン掃討作戦は、自衛戦争ということで、概ね国際社会の支持を得た。しかし、アメリカのグランド・ストラテジーは、アフガニスタンの後に何をするかという問題に直面した時に大幅な方向転換を迫られた。
ここで二人の戦略家の立場は、大きな違いを見せることになる。ハースは、蚊帳の外に置かれ、ブッシュ政権のイラク政策を追認するだけになっていく。ハースがイラク戦争が不可避だと知らされたのは、二〇〇二年七月の第一週にコンドリーザ・ライス大統領補佐官(当時)と会った時だという。その際、それはすでに動かしえない「決定事項」としてハースに伝えられた(ニューヨーカー誌二〇〇三年三月三十一日号)。
真空状態に「解答」を注入
パウエル国務長官が共和党主流派の外交政策の考えを引き継ぐ大物国務長官として政権入りし、その右腕としてアーミテージ国務副長官が、ブレーンとしてハース部長が任命された政権発足当初、国務省は万全の態勢を整えているかに思われた。しかし、九・一一テロ攻撃によって、アメリカはいまだ経験したことのない事態に直面し、アメリカの歴史的役割を再確認、再定義する「新しい言葉」を模索するようになっていた。いわば戦略の真空状態が発生する中で、そこに新たな考えをとっさに注入できたのが、「ネオコン」と呼ばれた政策集団だった。
ブッシュ政権、とりわけブッシュ大統領本人が必要としていたのは、単なる「計画」や「政策」ではなく、「使命」であり「解答」だった。実務家、リアリスト、地域専門家で構成される国務省は、この要請に応えることができず、結局政策論争で敗退していく。
この時期、メディア上では、しばしばウォルフォウィッツ率いる「ネオコン」が政権の外交安全保障政策の中枢を「ハイジャック」したと論評された。しかし、果たしてそうだったのか。これを単純な政権内部の権力闘争の産物としてとらえると、我々はブッシュ政権の真の姿を見失うだろう。
ウォルフォウィッツのことを直接知る人たちは、皆、彼のことを物静かな知識人タイプの人間だと形容する。また彼の考えに必ずしも賛同しない人たちも、彼の思考を支える強烈な理想主義について言及している。彼の理想主義はいったいどこから来ているのだろうか。
ニューヨーク州出身のウォルフォウィッツは、第二世代のユダヤ系ポーランド移民で、著名な数学者を父親にもつ。ポーランドに残ったウォルフォウィッツ一族の多くはホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺)の犠牲者になっている。こうしたことから、ウォルフォウィッツ家にとって「全体主義」は抽象的な概念ではなかった。
父親の希望もあり、当初数学を志すも、コーネル大学で後に『アメリカン・マインドの終焉』を著わしたアラン・ブルームと出会い、シカゴ大学大学院に進んで政治学の博士号を取得する。シカゴでは、亡命ユダヤ系知識人で高名な政治哲学者レオ・シュトラウスの講義を受け、強い影響を受けつつも、核戦略家アルバート・ウォールステッターに師事し、戦略家として鍛え上げられていく。すでにこの時期からウォルフォウィッツにとって、政治思想と戦略思想は不可分のものであった。
その後、ワシントン州選出の民主党上院議員ヘンリー・“スクープ”・ジャクソンと出会い、当時まだ民主党員だったウォルフォウィッツは、トルーマン、ケネディ以来の民主党反共タカ派の絶えかけていた伝統を彼に見いだす。当時民主党は、ベトナム反戦運動の影響もあり、国際共産主義運動との対決ではなく共存を模索、さらに共和党もニクソン/キッシンジャー体制の下、力の均衡を志向し、ウォルフォウィッツは双方の「容共主義」に強い違和感を抱いていたといわれる。
このころから彼は、学究と政府の仕事を交互に手がけつつ、実践的な戦略家としての地位を固め、レーガン政権第一期には、国務省政策企画局長もつとめている。そうした中で、民主党を見限り、「スクープ・ジャクソン・リパブリカン」と自己規定するようになっていったのだ。
ウォルフォウィッツにとって転機となったのは、東アジア・太平洋担当国務次官補として、フィリピンや韓国の民主的変革を見届けた時だったといわれる。これがウォルフォウィッツの政治的原体験となった。彼はいまでもしばしば講演などでこの時期を振り返り、東アジアを民主化が不可能な地域として例外視すべきではないという信念を固めていった経緯を強調する。またその後、スハルト体制下のインドネシアに大使として三年間赴任し、後にインドネシアの大統領となるアブドゥルラフマン・ワヒドと親交を深め、イスラム教への深い信仰と宗教的寛容・世俗主義が共存しうることに強い感銘を受けたといわれる。
インドネシア滞在時は、文化人類学者のクレア夫人と共に現地の文化に魅せられ、インドネシア語を学び、ユダヤ系アメリカ人であるにもかかわらず、世界最大のイスラム人口を抱える国で、大使として高い評価を得る。離任時には、スハルト体制を批判する演説も行なっている。
またウォルフォウィッツは、アンワール・イブラヒム元マレーシア副首相とも緊密な人間関係を築き、彼を改革派のイスラム教徒として慕っている。ワヒドやアンワールとの親交はその後も続き、二〇〇四年十月にもドイツに滞在中の両人のもとを訪れている。投獄されていたアンワールが二〇〇四年九月に釈放されると、ウォルフォウィッツは真っ先に電話を入れている。九・一一テロ攻撃後、穏健改革派のイスラム教徒である彼らとの関係は、ウォルフォウィッツにとってイスラムと民主主義の両立の可能性を示す貴重なインスピレーションのもととなった。
このドイツ訪問の直後、ウォルフォウィッツはかつて親族が送り込まれたかもしれないポーランドのユダヤ人強制収容所跡を訪れ、父親の故郷ワルシャワで講演を行なっている。「勇気と自由」と題された講演で、ウォルフォウィッツは冷戦時代のソ連支配下の東欧の安定を「墓場の安定」と批判し、欺瞞的な勢力均衡を世界は再び許してはいけないというメッセージを投げかけた。これはイラク戦争をめぐる議論において中東地域の安定自体を自己目的化し、優先させた人々に対する批判でもあった。
二〇〇五年一月二十四日には強制収容所解放六十周年記念の国連特別総会のアメリカ代表として演壇に姿を現す。米国務省高官の登壇を予期していたであろう各国代表の多くは、壇上の国防副長官の姿に違和感を覚えたに違いない。ここに、ナチズムとフセイン体制を二重写しにし、イラク侵攻を肯定しようとするアメリカの政治的意図を読み取ろうとした人もいるかもしれない。ウォルフォウィッツは渦巻く疑念のなか、「ネバー・フォーゲット」という言葉に真の意味をもたせなければならないと主張した。また、なかにはウォルフォウィッツの登場をブッシュ政権の過剰な親イスラエル路線の証左と見た人もいるかもしれない。
いまも穏健派イスラムへの期待を
しかし、ウォルウィッツを単なる親イスラエル派と見なすことは出来ない。彼は、二〇〇二年四月、ワシントンで開催されたイスラエル支持の大集会で、パレスチナ人のおかれている苦境について敢えて言及し、野次によって発言を妨げられている。ウォルフォウィッツに顕著に見られる傾向は、ワヒドやアンワールとの関係にもうかがえるように、穏健派イスラム教徒に対する大きな期待である。これはかつて彼が、エジプトのサダト大統領のイスラエル議会における演説に感銘を受けて以来のことである。
ウォルフォウィッツの影響力を語る際には、必ずといっていいほど、チェイニー元国防長官のもとで働いた時のエピソードや「新アメリカの世紀プロジェクト(PNAC)」との関わりなどが強調される。しかし、おそらく彼の主張に他にはない強さを持たせたのは、こうした彼の経験に根ざした強烈な理想主義なのだ。ウォルフォウィッツの議論が説得力を持ったのは、彼が単に「テロ/大量破壊兵器/ならず者国家」の連関を示したからではなく、「アメリカの使命/民主化/テロの根絶」という連関を示しえたからである。
ここから浮かび上がってくるウォルフォウィッツ像は、ドストエフスキーの小説に出てくるような、抑圧された民衆解放の使命感を心底に潜ませる時に危険なインテリゲンチャの姿である。しかし、そこにいるのは、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のように、人類の重荷を背負い、憂いと苦悩を秘めたインテリゲンチャではない。アメリカという国は、陰鬱な「大審問官」にさえ、希望に満ちた未来を見させるらしい。ウォルフォウィッツは、最終的には民衆を蔑視する「大審問官」とは異なり、民衆が自発的に立ち上がる力に希望を託し、「アメリカン・デモクラシー」の歴史的使命を信じて疑わない、「太陽の光を浴びたインテリゲンチャ」である。
自由を世界に広めることを謳ったブッシュ大統領二期目の就任演説にチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官は若干違和感を覚えたかもしれない。しかし、ウォルフォウィッツは、そのメッセージを厳粛に受け止めたに違いない。
「戦争の枢軸」とまで呼ばれたチェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウィッツ。第二期ブッシュ政権において、チェイニー副大統領の影響力が弱まる気配はまったくない。ラムズフェルド国防長官も、ジャーナリストを手玉に取るようなかつての勢いはないものの、アブグレイブ刑務所の虐待事件の後遺症からは立ち直ったかに見える。そして歴史上、もっとも知名度の高い国防副長官は、いまなにを見据えているのか。先頃行なわれたイラク国民議会選挙で自らの確信を強めたことは間違いない。