4月の国会選挙にはじまったインドネシアの政治の季節は、9月20日の大統領選挙決選投票でひとまず幕を閉じた。この5ヵ月間は、インドネシアの政治の在り方と構造を大きく変えた。とりわけユドヨノ氏が大統領選挙で既成の政治勢力の力を借りずに、むしろそれに向こうを張る形で選挙戦を闘い、圧倒的に勝ったことは重要な意味をもつ。そこに、インドネシアに兆しつつある新しい傾向を見て取ることができる。
新しい傾向は、相互に関連する二つの面に現われている。第一は政治を動かすメカニズム。既成の大政党や社会に張りめぐらされた宗教(イスラム)や縁故のネットワークが、これまでのような決定的な影響力を持たなくなった。第二は有権者の投票行動のパターン。各人が主体的判断に基づいて投票するようになった。この二つの変化は、長い間インドネシアの政治風土を特徴付けてきた在り方を、根底から覆すものだ。
スハルト独裁の32年間は別として、ポスト・スハルト期の6年間を通じてインドネシアの政治を動かしていたのは、既成の大政党だった。独立の父、スカルノ元大統領の娘、メガワティ女史(10月19日まで大統領)を党首とする闘争民主党(PDI-P)、スハルト政権を支えた翼賛組織の流れを汲むゴルカル党、これまたスハルト政権下でナフダトール・ウラマ(NU)などイスラム系4政党が統合されてできた開発統一党(PPP、ただしNUはそのご脱退)、NUの流れを汲む国民覚醒党(PKB)、NUに次ぐ国内第二のイスラム組織、ムハマディアを支持基盤とする国民信託党(PAN)などだ。
大政党の衰退が最初に見て取れたのは4月5日の議会選挙だった。メガワティ大統領(当時)の与党、闘争民主党の得票は18.5%にとどまり、ゴルカル党も第一党になったとはいえ21・6%と、前回1999年の選挙よりも票を減らした。代わってメガワティ政権下で政治・治安調整相をつとめ清廉の印象を持たれているユドヨノ氏の新党、民主党(PD)と、都市イスラム層を基盤とし「清潔な政府」樹立を掲げる福祉正義党(PKS)という小政党が躍進した。
7月5日の大統領選挙第一回投票の結果は、議会選挙に現われた傾向をより明確な形で突きつけた。すなわち、小政党から立ったユドヨノ氏が33.6%と第一位になり、現職大統領のメガワティ女史は26.6%で二位、ゴルカル党から立ったウィラント元国軍司令官は22.2%で三位だった。以下、ライス国民協議会議長14.7%、ハムザ副大統領3.0%と続く(7月26日インドネシア総選挙委員会発表の大統領選最終集計結果)。この結果、ユドヨノ、メガワティ両氏が9月20日の決選投票で対決することになった。
決選投票では、メガワティ女史は自党のPDI-Pと他の有力3政党―ゴルカル党、開発統一党(PPP)、繁栄平和党(PDS、キリスト教徒が支持基盤)―の4党の連合を結成してユドヨノ氏を圧倒しようとした。この4党は官僚、国営企業、国家警察、軍、それにイスラム教聖職者層のかなりの部分に党員と支持者の網を張りめぐらせており、議会でも4党の議席を合わせると304、総議席550の過半数を占めている。これを見た観測者の多くは、個人的な人気に頼るユドヨノ氏も、この既成政党の大連合の組織力には敵わないだろう、と予想した。ところが投票の蓋を開けてみると、ユドヨノ氏が60.62%と、メガワティ女史の39.38%に圧倒的な差をつけて勝ってしまった(10月4日発表のインドネシア総選挙委員会の最終集計結果)。
なぜ、従来のインドネシア政治の常識を覆すような事態が起きたのか。最大の原因は既成大政党の集票力が低下したこと、とりわけ党の求心力が衰えたことにある。ゴルカル党のばあい、求心力の衰えは党の内部分裂の危機にもつながっている。
7月の大統領選第一回投票後、ゴルカル党のアクバル・タンジュン党首は、決選投票ではメガワティ女史を支持することを党議として決めた。ところが、ウィラント将軍をふくめてゴルカル党の幹部の多く、それに一般党員や支持者の大部分(英国際戦略研の『ストラテジック・コメント』2004年9月号は75-80%と推定)がメガワティ女史に拒否反応を示し、ユドヨノ支持にまわった。そもそもユドヨノ氏の副大統領候補、ユスフ・カラ氏自身、ゴルカル党の有力幹部だった。そのカラ氏がユドヨノ氏と組むことが明らかになると、アクバル・タンジュン党首は直ちに同氏を党から追放し、ゴルカル党の引き締めをはかった。だが、アクバル・タンジュン指導部への造反は予想を超える勢いと規模で噴出した。こんご、ゴルカル党が分裂するか、たとえ分裂の形は避けるにしてもアクバル・タンジュン指導部の威令が行き渡らなくなる可能性が大きい。
この一連の選挙に現われたインドネシアの政治の在り方の変化の背景には、突き詰めるとスハルト退陣後にはじまった憲法改正と、これによって可能になった政治システムの民主化がある。独立直後1945年制定の憲法は強力な大統領制を柱にしていた。初代スカルノ大統領が建国に突き進むことができたのも、スカルノ失脚のあと躍り出たスハルト大統領の独裁的体制も、この1945年憲法に支えられていた。1998年のスハルト失脚後、1999年から2003年にかけて、この大統領制に「チェック・アンド・バランス」を働かせる仕組みを導入する憲法改正が行なわれた。その最も重要なものは、(1)大統領選出の方法を国民協議会(MPR、地域、軍、職能グループと国民議会=DPR=とで構成される)による選挙から有権者の直接投票による選挙にしたこと、(2)MPRの機能を憲法改正審議と大統領および副大統領の選挙結果に基づく形式的な任命に限定したこと、(3)大幅な地方分権化、の三つである。
ユドヨノ氏の政権は10月20日の大統領就任式以後、正式に発足する。ユドヨノ新政権はスタートしたインドネシアの民主化の歩みを確かなものにすることになるのか。それとも改革がつまずいて国民の失望を買い、再び権威主義の政治の復活に道を開くことになるのか。ユドヨノ新政権の前には政治面、経済面で大きな困難が立ちはだかっている。
政治面では、ゴルカル党、闘争民主党など反ユドヨノ連合が過半数を占める議会で、ユドヨノ政権のもろもろの改革法案をどうやって通すかが大問題だ。これら既成政党の内部の亀裂、統制の緩みが、ユドヨノ政権にどのていど有利に作用するのかが見ものである。また、メガワティ政権が及び腰だったイスラム過激派テロ組織の取り締まりにも、思い切った姿勢でのぞまなければならない。
経済面でも難問が山積している。国民のメガワティ政権への失望、不満の最大のものは失業問題への無策だといわれた。ユドヨノ政権はどのように失業問題に取り組むのか。財政赤字も深刻で、その大きな原因は燃料への国家補助にあるが、これを減らすことは燃料価格を上昇させ、国民の不満を買う恐れがある。また、低迷する外国投資をどのように回復するか。
こうしたもろもろの困難はあるにせよ、ユドヨノ大統領の登場がインドネシアの現代史に新しい頁を開いたことはまちがいないだろう。東南アジアで最大の人口を有し、世界で最多のイスラム教徒を抱えるこの国が、より民主的な政治と社会の在り方に近づいていくことの意味は計り知れないほど大きい。「ユドヨノのインドネシア」の行方を注目したい。