<プロフィール>
1967年生まれ。青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科卒業。青山学院大学大学院国際政治経済学研究科(国際政治学専攻)博士課程修了。青山学院大学より博士号(国際政治学)取得。ワシントン・ポスト紙極東総局(当時)記者、国際連合日本政府代表部政務班専門調査員等を歴任。日本国際問題研究所では、米国関連プロジェクト、アジア太平洋安全保障協力会議(CSCAP)などを担当。
<専攻>
米国研究、米国思想史研究
米国の情報機関である中央情報局(CIA)は、1977年の時点でもなお、イランの王制が、21世紀まで存続すると予測していたといわれている。しかし、その2年後、ホメイニ師の指導の下、王制は打倒され、イラン・イスラム共和国が成立する。なぜこのような事態をCIAは予測できなかったのか。CIAは、公然情報、非公然情報を収集し、それを分析することにほぼ特化した組織である。CIAは、通常理解されているより、はるかに公開資料から得られる情報に依存しているが、CIAを際立たせているのは、やはりその非公然活動であろう。実体としては、公然情報の収集・分析がCIAの業務の大半を占めているにもかかわらず、非公然活動に伴う機密主義が、CIAの組織文化を規定しており、このことがCIAの活動を逆に大きく制限している側面がある。
われわれが通常諜報活動と呼んでいる活動の実体は、スパイ小説、映画などが描く世界とは程遠い。海外、とりわけ米国と外交的に難しい関係にある国で活動するCIAのケース・オフィサーの大半は、大使館所属の外交団の一員として勤務しているとされており、そのオフィシャルな立場ゆえに活動の幅は大きく制限されることになる。また、非公然活動に携わるCIA要員は、通常の外交団以上に二重スパイとして敵対組織にリクルートされる危険にさらされており、彼らは定期的にラングレー(CIA本部の所在地)で嘘発見器によるクリアランスを得なければならない。この、いわば「汚染」の危険を回避するために、海外のCIA要員は、勤務地でエージェントを獲得し、自らは現地の言葉を習得することなく、大使館の部屋に籠って間接的な情報に依存するケースが少なくない。皮肉なことに、他の大使館要員は、自ら街に出向き、幅広い層の情報ソースと直接接触できるのに対し、CIA要員は、その機密主義的体質ゆえに、活動の幅が制限されている側面があるといわれている(Lars-Erik Nelson,“Notes from Underground,”NYRB, September 23, 1999)。
CIAが、1970年代後半のイラン情勢を見誤ったのも、このような組織内の体質によるものであったという評価は少なくない。あれから20年、CIAの組織内体質は改善されたのだろうか。その間、冷戦が終わり、CIAの主要な標的であったソ連は崩壊した。しかし、ウールジー元CIA長官が述べているように、冷戦が終わり、森を徘徊する熊はいなくなっても、足下に蛇がうごめいており、その動きを察知するのは、より困難になったと言える。
9.11テロ攻撃が起きるおよそ3ヵ月前、高級誌『アトランティック・マンスリー』(7-8月合併号)に、「カウンターテロの神話」という小文が掲載された。これはCIAの工作本部で9年間勤務したルール・ゲレクト(Reuel Gerecht)が執筆し、米国がウサマ・ビンラーディン率いるアルカイーダのようなテロ組織に対していかに脆弱であるかを訴えたものであった。以前、彼はエドワード・シャーリーというペンネームを用いて、『汝の敵を知れ』(1997年)を執筆し、自らが勤務していたCIAの有り様を批判した。彼はCIAにおける数少ないペルシャ語要員としてイスタンブールの米国総領事館に勤務し、イランを担当していた。
ゲレクトによれば、CIA工作本部は、アフガン戦争(1979-89年)に深く関与していたにもかかわらず、アフガニスタン専門家の育成を怠り、現地の言葉を話せるケース・オフィサーを獲得したのは1987年になってからであった。また、1990年代に入り、「イスラム過激派」の脅威が十分に認識され、タリバーン支配地域に彼らが潜伏していた事実をつかんでいたにもかかわらず、アフガン・チームの育成を怠った。さらに、9.11テロ攻撃直前に暗殺された北部同盟のマスード将軍との接触を試みたのも、1999年10月になってからであり、CIAの対応の遅さと認識の甘さを批判している。繰り返しになるが、これは9.11テロ攻撃以前の議論である。
ゲレクトの告発は、元スプーク(スパイの俗称)による脅威を煽る発言として、あまり注目を集めることはなかった。9.11テロ攻撃後も、政府や議会、そして情報活動の専門家の間では、米国の情報体制を告発しようとする雰囲気は希薄である。むしろ、スケープゴート探しどころではなく、いかにして次なる攻撃を防止するかという問題意識を共有しているといえる(北岡元『テロと米国の情報体制』IIPS Opinion Piece 275J, October 2001)。しかし、かつてオペレーションに携わった現場を知る一部からは、きわめて厳しい評価が下されている(Chris Fusco,“Spies Lost in Cold War in a New Age of Terror,”Chicago Sun-Times, September 23, 2001)。
情報能力は、いくつかの要素によって構成されている。それらは公然情報、ヒューミント(人的情報)、シギント(信号情報)、イミント(画像情報)であり、相互に補完的な役割を持っている。9.11テロ攻撃後、米国の情報体制への批判の中で最も目立ったのは、このうちヒューミントを軽視し過ぎていたという指摘であった。これは1970年代中ごろまでには「はぐれ象(rogue elephant)」と皮肉られるほど肥大化した米国の情報機関が、それまでの「ウェット・オペレーション(工作活動)」に代わり、ハイテクを駆使した「スマート」かつ「クリーン」な情報体制に移行していった結果であった。日本でも、米国の国家安全保障局(NSA)が中心になって運営しているといわれる通信傍受網「エシュロン」に関する報道がなされたことは記憶に新しい。また、偵察衛星が入手する画像情報は、ハイテクを駆使した「新しい戦争」には、必要不可欠なものとなっている。
しかし、いくら高度な技術を用いても、敵対勢力の意図、士気の高さを推し量ることはできない。ハイテクを駆使した情報体制は、敵対勢力の能力を知るためには有用であっても、その意図やパーセプションまでをも監視の対象とすることはできない。ましてや、軍事的能力という観点から見て、旧ソ連とは比較にも及ばないテロ組織ということであれば、その能力評価は不可欠ではあっても、それがヒューミントによって補完されないかぎり、有用な情報とはいえない。この点で、9.11テロ攻撃が、わずか数本のナイフによって引き起こされたことは象徴的であった。
かつて海外情報活動大統領諮問委員会(PFIAB)の議長代行を務めたボビー・インマン提督(現テキサス大学教授)によれば、1950年代後半に米国が入手した情報の少なくとも75%が直接人間を介した情報に基づいていた。そのうち3分の2が国務省員、それ以外は情報要員が入手したヒューミントであったという。しかし、偵察衛星の導入とともに、アンダーカバーの要員は削減されてしまう。
ヒューミント能力の育成は、きわめて時間がかかる作業である。担当地域の言語を習得し、その政治、社会、文化を理解し、人的ネットワークを構築するためには、継続的な努力が必要とされる。しかも、ヒューミントを通じて獲得した情報は、必然的に曖昧な要素を含み、シギントやイミント以上に、適切に解釈され、評価されなければならない。
10月5日、ブッシュ大統領によって新たにPFIAB議長に任命されたスコウクロフト元大統領補佐官が、今年7月から手がけてきた情報活動のレヴューに関する報告書が年内にも大統領に提出される予定となっている。9.11テロ攻撃によって、この報告書の重要性は当初想定されていたよりもはるかに高まったといえる。アフガニスタンにおける軍事活動が決着した後、世界的な対テロリズム情報連合の役割が飛躍的に高まることが予想されるなか、その連合の中心的役割を担う米国のインテリジェンス・コミュニティのあり方に関し、どのような提言がなされるのかが注目される。
(アメリカ研究センター研究員)