読者の皆さんの中には、ムバーラク(現エジプト大統領)の名を知らなくとも、エルバラダイ(前IAEA事務局長)の名はご存知の方も多いであろう。エルバラダイ(正確なアラビア語ではムハンマド・アル=バラダーイー)は、1997年から3期連続でIAEA事務局長を務め、2005年にはノーベル平和賞を受賞した。2009年、任期満了に伴いIAEA事務局長を退任した。長年にわたり国際政治の第一線で活躍し、ノーベル賞を受賞したエルバラダイは、彼の祖国エジプトにおいて英雄的な高い評価を得ている。
最近、エルバラダイはエジプトにおいて政治的に高い注目を集めている。来年実施予定のエジプト大統領選挙への候補者として、その名が急速に浮上してきたためである。今年2月にエジプトに帰国したエルバラダイは、「変革のための国民協会」の結成を発表した。この協会は、ムバーラク政権に批判的な立場を取り、政治改革・民主化を強く求めている。
エルバラダイは、現行憲法が国民の権利・自由を制限していると批判しており、特に大統領立候補資格要件に関する憲法76、77、88条の早期改正を訴えている。たとえば、憲法76条では、大統領立候補要件として、人民議会、シューラー(諮問)議会、県議会の議員250名以上の推薦が必要であり、同時に、人民議会議員65名以上、シューラー議会議員25名以上、14県から県議会議員各10名以上という推薦人数の「足切り」をクリアしなければならない。現在、エジプトにおいてこの要件を満たすのは与党国民民主党(NDP)のみであり、憲法規定上は野党・無所属候補者は立候補できないことになる。これに対して、エルバラダイは改正を求めているのである。
一方、反政府的言動を取り、野党・反政府勢力の主要人物との会見を重ねるエルバラダイに対して、現政権は警戒感を募らせている。今年はシューラー議会選挙、人民議会選挙、来年は大統領選挙とエジプトでは重要国政選挙が続き、国民の間に政治改革・民主化の要求、さらには政権批判の声が高まる可能性があるためである。実際に、前回の大統領選挙と人民議会選挙が行われた2005年には、ムバーラク大統領・NDP批判の民衆運動が活発化したこともあった。現在、NDPでは、現職ムバーラク大統領、あるいは大統領次男ガマールが次期大統領候補と目されることが多い。いずれが立候補するにしろ、国民的人気を持つエルバラダイが対抗馬になることは、ムバーラク政権にとって都合が悪いといえる。
果たして、エルバラダイは大統領選挙に立候補できるのであろうか。現状では、極めて困難とする見方が強い。しかし、今月になり、エルバラダイに強力な支持者が登場した。ムスリム同胞団である。同胞団は非合法のイスラーム主義運動であるが、人民議会で20%の議席を擁する実質的な最大野党である。その同胞団が、次期大統領候補者としてエルバラダイを支持することを公式に表明し、彼は同胞団幹部メンバーと会談を行った。今回の選択は、彼の政治活動の分岐点となる可能性が高い。すなわち、NDPに次ぐ政治組織である同胞団を味方に付けた点では、エルバラダイは強固な支持基盤の獲得に成功したといえよう。その一方で、非合法組織であり、しばしば政権による取り締まりの対象となっている同胞団と手を組んだことは、ムバーラク政権への本格的な対抗を意味するともいえる。これにより、政権側のエルバラダイに対する態度の硬化や強硬姿勢を招く恐れもある。現在のところ、現政権は「国民的英雄」であるエルバラダイをどのように扱うのかを決めかねているようであるが、政権側の対応がエジプト政治の行方に影響を与える可能性も指摘される。エルバラダイの動向は、エジプト政治を考える上で不可欠な要素となりつつある。