過去を振り返ると、日本では、数年に一度の割合で、ソ連ないしロシアの情報機関員による、いわゆる「スパイ事件」が摘発されている。ここ数年についていえば、事件の規模は1971年7月の「コノノフ事件」、1980年1月の「コズロフ事件」、1983年6月の「ヴィグラードフ事件」など、冷戦時代にみられたほどのものでは必ずしもなく、これも時代の流れによるものかと思わせられるし、実際問題として映画さながらに多数の「ロシア・スパイ」が我が国で日夜暗躍しているとも容易には想像し難い。しかし、それでもなお、継続的にこうした事件が明らかになるというのは、我が国を舞台にロシアの情報機関員が今も活動していることを示す証左ではあろう。
(注1)在日ソ連大使館のコノノフ武官補佐官らが日本人を通じてレーダー関連など軍事技術を入手しようとした事件。
(注2)在日ソ連大使館のコズロフ武官らが日本人を通じて防衛庁の機密資料などを入手した事件。
(注3)在日ソ連大使館のヴィノグラードフ1等書記官が日本人に働きかけて「産業スパイ会社」設立工作を進めていた事件。
しかし、自国の利益のための対外諜報活動自体は、何もロシアに限らず、どこの国も行っていることに過ぎない。この点、米国の中央情報局(CIA)や英国の秘密情報庁(MI6)を取り上げるまでもないだろう。我が国では、対外諜報を含め、情報活動というとどうしても「暗くて汚い」イメージを持たれがちだが、国家が国家として成り立っていく上で、どうしても情報は不可欠である。もちろん手法の妥当性の問題はあるが、だからといって情報活動を全て無条件的に「悪」として片付けるのは極端に過ぎよう。感情論や印象論は別にして、国家にとって情報が極めて重要であること自体は、きちんと認識されなければなるまい。
さて、ロシアは、ソ連の国家保安委員会(KGB)を引き合いに出すまでもなく、治安・情報機関の存在が大きな国である。とりわけ、ソ連時代には、西側先進国の科学技術収集を中心に、広く深く、対外諜報活動を遂行していた「実績」も持っている。そんなロシアで、現在、対外諜報を専属に担当している国家機関が、KGBの対外諜報部門(第一総局)を引き継いだ対外諜報庁(SVR)である。以下、対外諜報について考える上でのちょっとした参考とすべく、SVRについてごく簡単に取り上げてみたい。なお、SVRは、ロシア語の対外諜報庁をローマ字で表記した「Sluzhba Vneshnei Razvedka」の頭文字をとったものである。
SVRの組織は、長官(M.フラトコフ)を筆頭に、第一副長官(V.ザヴェルシンスキー)、人事部長、科学部長、作戦部長、物資技術供給部長の各幹部のほか、分析情報局、対外防諜局、経済調査局、科学技術推進局、作戦技術局、情報学局の各部局、及びSVRアカデミーなどからなっているとされる。人員は、1991年10月のKGB解体時に、当時の新たな対外諜報機関である「対外情報収集センター」(当然、SVRの前身にあたる)に12000~15000人が移籍し、その後人員の大幅減や微増があったといわれていることなどからみて、およそ1万人程度と推認されるだろう。因みに、ロシアでは国内治安を主な任務とする連邦保安庁(FSB)も対外諜報に携わっているが、FSBには、20万人以上の職員が勤務しているとみられる。
SVRの活動の根拠は、「対外諜報に関する連邦法」に求められる。これは、エリツィン大統領時代の1996年1月10日に採択され、数度の修正を経て現在に至っているものである(本稿執筆中も一部が修正過程にある模様)。因みに、この法律が採択されるのと相前後して、ロシアでは、「機動捜査活動に関する連邦法」(1995.8.12採択)、「国防に関する連邦法」(1996.5.31採択)といった治安・情報関連の法律が採択されている。このことは、チェチェン紛争の激化やエリツィン大統領の人気低下、また新生ロシア誕生後に採られていたロシアの西側協調外交路線の見直しなど、当時においてロシアをとりまく環境が厳しさを増していたことと全く無関係ではないだろう。
その「対外諜報に関する連邦法」(以下、「法」と略)は、SVRの目的を、「大統領、議会、政府に対して、政策決定のため、政治、経済、国防、科学技術、環境の各分野における必要な諜報情報を保証すること」(法第5条1項)、「安全保障分野での連邦の政策が成功裡に実現することを促進するための条件を保証すること」(法第5条2項)、「連邦の経済の発展、科学技術の進歩、軍事技術的な安全の保証に協力すること」(法第5条3項)としている。まあ、こうしたことは当然のこととして、この法で注目されるのは、対外諜報機関の常勤職員の身分の秘匿(法第18条)、対外諜報機関への協力者の保全(法第19条)、対外諜報機関の職員とその家族の保護(法第22条)、対外諜報機関の活動に対する管理(法第24~25条)に関する規定である。以下、条文を部分的に抜粋して、具体的にみてみよう。
法第18条「対外諜報機関の常勤職員としての具体的人物の所属に係る情報は、同機関から解雇された職員のものを含めて国家機密であり、対外諜報機関の指導者の承認が得られ、かつ職務上の必要性がなくなり、当該人物の承諾書が必ず存在する場合のみ、明らかにできる。」、「対外諜報機関の常勤職員は、自らの職務義務の遂行のため、本法の規定により、対外諜報機関に所属していることを明らかにすることなく、連邦行政機関、企業、公共施設、組織において職に就くことができる。」
法第19条「諜報活動の目的を達成するため、対外諜報機関は、同機関への秘密裏の協力に自発的に同意した行為能力ある成人との協力関係を、無償または有償で確立できる。」、「対外諜報機関に秘密裏に協力する(した)者に関する情報は国家機密であり、これを秘密にしておくべき最長の許容期間を経過しても、この機密は解除されない。」、「当該対外諜報機関の指導者及びその情報に関して全権を持つ職員のみ、これらの情報の利用を許される。」、「対外諜報機関に秘密裏に協力する(した)者、及びその家族の安全確保のために、彼らの保護に係る措置が採られ得る。」
法第22条「諜報活動の遂行に関連して対外諜報機関の常勤職員またはその家族の健康に対して発生した損害は、連邦予算の資金によって全て保証される。」、「対外諜報機関の常勤職員の身分が明らかになった結果として、あるいは当該職員に責任のない理由によって、当該職員が職務上の適性を全てまたは一部喪失した場合、対外諜報機関は、当該職員に職業を斡旋し、または当該職員に職業上の再教育を施すための条件を作り出す義務を負う。」
法第24条「対外諜報機関の活動に対する議会の管理は、連邦法の規定、ならびに上院と下院により組織された会計検査院が行う対外諜報機関の予算執行に対する監査によって行われる。その目的のため、会計検査院には、そのメンバーによる専門家グループが組織される。」、「連邦議会と対外諜報機関との相互関係は、上院と下院のそれぞれに作られた関係委員会(小委員会)を通じて実現される。」、「関係委員会(小委員会)と会計検査院専門家グループのメンバー及びこれら機関の職員は、『国家機密に関する連邦法』に規定された手続きに従い、国家機密情報に接する正式な手続きを経た後にのみ、本条に規定された職務執行に関して自身の義務の履行に着手できる。」、「上院と下院の議員は、両院の関係委員会(小委員会)を通じてのみ、対外諜報機関に関する情報を得る。」
法第25条「対外諜報機関による連邦法の履行に対する監督は、検事総長及び検事総長に全権を与えられた検事がこれを行う。」、「対外諜報機関に秘密裏に協力する(した)者に関する情報、組織に関する情報、対外諜報機関の活動方法や設備に関する情報は、検察機関が監督する件に含まれない。」
このようにみてみると、ロシアが対外諜報をシビアに捉えている様子が分かる。SVRが対外諜報活動にとって機能的であるように組織されていることももちろんだが、ロシアは、「対外諜報に関する連邦法」によって、対外諜報機関の常勤職員の身分と活動を保証し、その協力者を協力関係終了後までも保護し、その活動や得られた情報を議会や検察といった国家機関からさえ相当程度隔離しているのである。もちろん、「対外諜報に関する連邦法」が実際にどこまで首尾よく機能しているかには疑問なしとしない。しかし、少なくとも、ロシアの対外諜報活動には後ろ盾としてこうした法律が存在するのだ。
しかし考えてみれば、こうした後ろ盾は、対外諜報には当然のつきものであろう。まさに、こうした後ろ盾なしに、どうやって本当の意味での対外諜報ができるだろうか。単純に考えても、対外諜報機関員としての身分が外部にバレバレ、情報提供者たる協力者にさえ協力関係が暴露される恐れがあり、諜報活動のために危険に身をさらしても国家の支援がなく、挙句に活動も金もガラス張りというのでは、対外諜報なんぞできるはずがないだろう。対外諜報は、中途半端な取り組みによってはできないのである。
さて、冒頭に触れた「スパイ事件」の摘発は、我が国の防諜活動の成果に違いない。しかし、防諜と表裏一体をなす諜報は、我が国ではどうなっているのか。人的なつながりを通じて対象国の内部情報を得るには、諜報活動を指揮する整備された組織機構はもちろん、十分な人材と資金と時間が必要不可欠である。そしてそれを確保することが国策として行われるのでなければならない。語学を仕込み、対象国の事情に精通させ、対象国に人脈を構築するのだから、当然だろう。そういったことを踏まえて我が国の対外諜報について考えると、どうにも疑問符をつけざるを得まい。まず重要なのは態勢である。態勢が全く整っていなければ情報は入りようがないし、分析もできない。仮に、態勢が全く整っていないのに随時もっともらしい情報が入り、さらに分析までがなされているとしたら、そこには何か「からくり」があると思った方がよい。
それぞれの国における対外諜報機関の実情は、それぞれの国における対外諜報に対する意識を色濃く反映している。その意味では、我が国はまだ危機感が足りないというか、
我が国の対外諜報の現状も、やむを得ないところがあるのかもしれない。しかし、複雑化する国際情勢にあって、対外情報に疎いことは、いずれ国家に大きな痛手をもたらすに違いない。
(対外諜報については、本来ならばこれを収集や分析など多方面から論じるべきですが、ここには紙幅の制限があることをご了解ください)