報道によれば、プーチン大統領は9月14日、諸外国の識者との意見交換会(ヴァルダイ会議)の中で日ロ関係について触れ、日本との関係強化に前向きな姿勢を示したとのことである。とりわけプーチン大統領は、トヨタや日産、三菱など日本の大企業のロシア進出など、両国の経済関係が強まりつつある傾向を高く評価しつつ、「日本との関係を発展させることはロシア外交の伝統的な優先課題である」、「日本とロシアとの関係は複雑だが、われわれは過去の全ての問題を解決するために努力する」などの考えを明らかにしたという。実際、日ロ関係は複雑である。貿易経済関係が進展しているとはいえ、正直、その規模は、大国である両国の国力に適ったものとはなっていない。それに、何よりも大きいのは、日本になお根強い「対ロ不信感」が存在することである。その最大の原因が北方領土(択捉、国後、色丹、歯舞)問題の未解決にあることは、恐らく間違いない。
この問題については、日本とソ連及びその継承国であるロシアとの間で半世紀以上にわたる交渉が続けられており、現在、両国は、北方領土の帰属問題を解決し平和条約を締結するための努力を続けることで合意している。しかし、北方領土問題が日本に有利な方向に解決する見通しが事実上立っていないことは、認めざるを得まい。そもそも、日ロ両国が「解決のための努力を続ける」ことで合意したといっても、「解決」に対する理解が日本とロシアでは全く違う。日本のいう「解決」は、最大限ロシアに譲歩しても「四島に対する日本の主権の確認」であるのに対し、ロシアのいう「解決」は、最大限日本に譲歩しても「二島(色丹と歯舞)の日本への引渡し」であると推察され、双方の考えの間には極めて深い溝がある。北方領土が62年間にわたりロシアの実効支配下にある中、特に最近は、ロシアの経済復興を背景に北方領土の「ロシア化」が進んでいる。
ところで、北方領土問題に関する日本での一般的な理解は恐らく「北方領土は、日本固有の領土なのに、第二次世界大戦末期のドサクサに紛れてソ連が日ソ中立条約を破棄してこれを武力占領、今もこれに不法に居座っているもの」というものではないかと推察される。しかし、そうした理解は、かなり単純かつ一面的、もしかしたら感情的でさえあろう。北方領土問題は、日ソ間の関係というよりは、むしろ第二次世界大戦後の米ソ対立の過程で生成されたものである。このことを理解せずに北方領土問題を論じることはできない。問題解決の道を探るためには、過去を客観的に見つめ、その上で未来に思いをいたすことが重要ではないだろうか。
まず、1945年2月のヤルタ協定に触れなければならない。この米英ソの密約は、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦と、当時日本領だった樺太南部及び千島列島のソ連への引渡しを決めている。極論すれば、第二次世界大戦末期、日本の徹底抗戦に手を焼いていた米英は、ソ連を対日戦争に参加させるため、南樺太と千島列島をソ連に差し出したのである。プーチン大統領は常々「(北方領土は)第二次世界大戦の結果としてロシア領になった」との認識を示すが、それはヤルタ協定を意識してのものであろう。確かに、ヤルタ協定は米英ソの密約であり、日本にとってこれは「関知しないもの」に違いない。しかし残念ながら、だからといってヤルタ協定が国際的なレベルで効力を持たないことにはならない。
戦後、日本は、米国の占領下で復興を進め、1951年9月にはサンフランシスコ平和条約に調印して国際社会への復帰を果たした。しかし、この条約は、同時に、日ソ間に北方領土問題を生じさせたものでもあった。この点について、背後に米国の政治的思惑が働いていたことは、見落とせない。即ち、当時の国際情勢は、1946年のチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1950年の朝鮮戦争勃発など、東西対立が欧州から極東にまで広がり、ヤルタ協定時代とは全く異なる様相を呈しており、こうした中で米国は、日本を親米国として独立させ「極東における反共の防波堤」にしようと企図していた。サンフランシスコ平和条約作成の中心となった米国は、その内容を、日本による南樺太と千島列島の放棄を明記しながらも、放棄された地域の帰属先と放棄された千島列島の範囲を明記しないものとした(なお、対日講和条約は、日米安全保障条約と事実上セットになっていた)。結局、日本を取り込みたい米国は、対日講和からソ連を排除するとともに、日ソ間に領土問題という「楔」を入れるべく、敢えて対日講和条約をこのような「曖昧な」内容にしたと解釈されるのである。当然、ソ連は、米国に反発し、サンフランシスコ平和条約に調印しなかった。他方、米国は、同条約に調印するとともに、同日、日米安全保障条約にも調印した。これによって、「日米(もっとも日本は米国の傘下だが)VSソ連」という、冷戦時代の三国関係が規定されたのである。
サンフランシスコ平和条約調印の後、日本は、吉田首相の後を受けた鳩山首相の下、ソ連との国交回復に向けて動き出した(ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印していないので、日本とソ連は戦争状態終結のため個別に平和条約を締結する必要がある)。この過程でも、米国は、様々な働きかけを行った。日ソ平和条約締結交渉は、度々にわたる困難な会談を経て、1956年8月には「色丹と歯舞の二島返還で平和条約を締結する」ことで双方がほとんど合意するに至った。しかし、この動きを知った米国は、その直後、「択捉、国後、色丹、歯舞は日本の領土である」、「日本が領土でソ連に妥協し平和条約を締結すれば米国は沖縄を占領し続ける」旨の対日覚書を発出した。当時の日米関係に照らせば、日本がここで米国に逆らい「二島返還」でソ連と平和条約を締結することができないのは自明である。結局、日本は、ソ連に対して四島返還を要求、当然ソ連はこれに応ぜず、両国は同年10月「日ソ共同宣言」に調印し、平和条約締結を先送りしてとりあえず国交を回復させることで手を打った。要するに、日ソ国交正常化交渉の過程で、米国は、日ソの接近を阻むため、領土を材料に日本に圧力をかけたといえよう。
しかし、ここで強調したいが、筆者は、こうしたことについて、ソ連が正しかったとか米国が悪かったとかいうつもりは、もちろん全くない。第二次世界大戦と冷戦という二つの大きな戦争の中で、ソ連も米国も、自国の利益を追求するため、あらゆる手段を尽くしていた。それは、厳しい国際情勢の中を生きぬく上で、国家として当然のことであろう。ただ、第二次世界大戦から冷戦の時期にかけて米ソ関係が推移する中で、日本において、ソ連との間に北方領土問題なるものが発生してしまったのだということは、歴史的事実として認識しておかなければならない。他のあらゆる領土問題がそうであるように、北方領土問題も、その折々の国際情勢に起因する複雑な背景を持っているのである。
さて、北方領土問題の発生から半世紀以上を経て、今や、国際情勢は大きく変わった。連合国と枢軸国という対立の構図もないし、西側と東側という対立の構図もない。現在、米ロ関係は、微妙な問題を含みながらも、基本的には良好に推移している。というか、かつての苦い経験から、両国とも、その関係を悪くさせないように努力している。国際情勢全体も、同様である。グローバル化がますます進む中、どの国も、複雑に入り組んだ情勢の中で、自国の利益を追求していくべき工夫を余儀なくさせられている。しかし、米ロ関係を含む国際情勢がこのように変化する中にあって、北方領土問題は、今なお半世紀以上前の「負の遺産」として、日ロ間の懸案事項であり続けている。
実際、領土問題は、国家の主権と尊厳にかかわる根本的に重大な問題に違いない。しかし、だからといって、領土問題にばかり過度に関心を集中させることは、「木を見て森を見ない」ことにもつながりかねない恐れが排除されない。そもそも、交渉には相手がいる。加えて、交渉をめぐる背景事情も刻々と変化している。歴史と現実を客観的に踏まえ、本当の意味での「相互に受け入れ可能な策」を模索する工夫が、今こそ求められるのではないか。中ロ国境画定やロシアとバルト三国との国境問題をみてみよう。それぞれ難しい事情を抱える中で、現実的な利益を踏まえて、固持すべきところと妥協すべきところを探ってきた苦労が看守される。もちろん、個々の事例には固有の事情があり、これら事例が北方領土問題に直ちに適用できるわけでは全くない。しかし、少なくとも、これら事例から学ぶべきところを学ぶという姿勢は必要であろう。
本来、北方領土問題は、主権者たる国民の問題である。しかし今、北方領土問題に対する国民の意識は、はたして高いレベルにあるだろうか。2月7日は何の日かと問われて「北方領土の日」と答えられる国民がどれだけいるだろうか。北方領土問題が本当の意味で国民の問題となるためには、北方領土問題に関するさまざまな情報がオープンになり、この問題を主権者である国民が主体的に考えるようにならなければならない。戦後がますます遠くなっている今、複雑化する国際情勢の中での日本の国益追求のあり方、その中での望ましい日ロ関係のあり方、その中での北方領土問題の解決のあり方について、主権者である国民一人一人が考えるべき時ではないだろうか。
(北方領土問題については、多くの細かい事象や文書があり、それらについての様々な解釈もありますが、紙面の都合上、それらを紹介することはできず、既述が大味にならざるを得なかったことを、御詫び方々付記させていただきます。)