5月末、インドのインダール・リッキー将軍が死去した。日本ではあまり知られていないが、1960年代にダグ・ハマーショルドとウ・タントという2人の国連事務総長に軍事顧問として仕え、国際連合の初期の平和維持活動(PKO)に貢献した人物である。国連退職後は、ニューヨークに本拠地を置く民間団体・国際平和アカデミー(International Peace Academy)の会長として、20年間、国際紛争処理のための人材教育に尽力した。国連PKOの限界を認識しつつ、軍人や外交官、政治家を対象に平和教育の重要性を強調し続けた同将軍の生涯は、地域紛争の解決と平和構築が主要課題となった今日の国際社会に、様々な示唆を与えている。
軍人としてのキャリアを国際平和のために捧げた背景には、自らの生い立ちが深く関係している。1920年に英国統治下のパンジャブ州ラホールで名門バラモンの家に生まれたリッキーは、17歳の時に父と共に遭遇したガンジーの「独立インドには、よい教育を受けた若い将校が必要だ」という言葉が両親の反対を説得することとなり、軍人の道を歩む。ヒンドゥー教徒であったリッキー一家は、1947年のインド・パキスタン分離独立の際にパンジャブ州が分割され、故郷ラホールがイスラム国家パキスタン領となると、わずかな家財を残して家を追われた。さらに、当時、パンジャブ州のムスリムを中心に構成されていた槍騎兵連隊に所属していた本人は、この分離独立直後にインドに送還され、部隊が民族ごとに解体されるのを目の当たりにする。ヒンドゥー教徒とムスリムが共存する独立国家インドを夢見ていたリッキーは、独立のために払わねばならなかった代償の大きさに失望した。(リッキー著 ”Trumpets and Tumults: The Memoirs of a Peacekeeper”)
リッキー将軍と国連の関わりは、1956年のスエズ動乱をきっかけに派遣された国連緊急軍(UNEF)が最初である。UNEFは国連指揮下に組織された最初の多国籍平和維持軍であり、インドがこの国連軍に多数の兵士と有能な将校を派遣した背景には、中立部隊としてのインド軍の能力を世界に誇示したい独立インド初代大統領ネルーの思惑があった。リッキーはその後、1960年に第2代国連事務総長ハマーショルドの軍事顧問に就任して、独立直後のコンゴ動乱に対処し、引き続き第3代国連事務総長ウ・タントの軍事顧問として、西イリアン紛争、キューバ危機、キプロス内戦、イエメン内戦、中東問題等の対応に関わった。
この間に、リッキーは現在にも通じる国連PKOの問題を肌で感じた。UNEFに各国から派遣されてきた連絡将校は、国連ではなく自国政府に報告責任を有し、平和維持軍としての統一行動を妨げていた。後にUNEF参謀長になると、指揮系統の整理に着手したが、各国からの寄せ集めである国連軍の士気と能力をいかに高いレベルで維持するかという問題は、今日まで続いている。
コンゴでは、残忍な抗争を繰り広げる複数の国内勢力を前に、厳正中立の立場を貫きながら自衛のみの最小限の武力で平和を維持することの困難とジレンマに直面した。1966年にUNEF司令官として再び中東に赴任した際には、第3次中東戦争勃発前の緊張状態の中で、数々の努力にもかかわらずアラブ連合のナセル大統領に撤退を要求され、関係国の同意なしには機能できない国連軍の限界に、無念を味わった。この撤退命令はリッキーの国連指導力に対する懐疑を決定的なものとし、家庭の事情も重なり、まもなく、国連を去ることを決める。
国連は、憲章7章で集団的安全保障体制を規定し、平和を脅かす侵略国に対する軍事的制裁も想定している。しかし、冷戦期の米ソ対立による安全保障理事会の機能不全で、そのような強制力をもった活動は、ほとんど実現しなかった。PKOは、そうした中で、国連が慣行を通して実行してきたもので、国連憲章上に明文の規定はない。
ハマーショルドが尽力した初期のPKOは、停戦監視や兵力引離しといった小規模な軍事活動で、紛争当事者を引離すことで停戦を確保し、話し合いの時間を稼ぐといった要素が強かった。ハマーショルド自身が「憲章6章半」の活動と呼んだ通り、憲章7章が予定するような強制力はなく、PKOは当事国の同意により設立され、活動は中立、武器使用は自衛のみに限定することを原則とした。
冷戦終結後には、多発する内戦に対処するため、国連PKOに平和執行の強制力を加える試みがなされた。しかし、ソマリアや旧ユーゴスラビアで見られたように、野心的取り組みは悉く失敗し、PKO改革の急先鋒だったブトロス=ガリ事務総長自身が、「現在の国連に平和執行活動を展開する能力はない」と、平和執行部隊構想を撤回することとなった("Supplement to an Agenda for Peace")。それでも、国連の平和活動を見直す必要性は広く認識され、2000年の通称『ブラヒミ報告』では、伝統的なPKOの原則を維持しつつも、迅速・効率的な国連軍展開のための待機制度の強化などが提言された。
軍人としての自制か、リッキー将軍は国連を去った後も、PKO改革に関する積極的な発言はしていない。1970年には、ウ・タント事務総長らが設立を呼びかけた紛争解決の理論と実践を結びつけるための民間団体、国際平和アカデミーの初代会長に就任し、なかでも軍人や外交官、政治家を「peacekeeper」に育てるための実践的教育に力を入れた。現実の様々な困難に直面した人は、結局、教育に行き着くのかもしれない。今でこそ「平和構築」という言葉が定着しているが、リッキーはアカデミーの設立当初から平和維持・平和創造を越えた、紛争後の社会構築までを視野に入れることの重要性も強調した。
生まれ故郷を奪ったインド・パキスタン紛争は、生涯の課題であり続けた。同地に限らず機会があるごとに個人外交の役割を買って出たリッキーは、1982年に、当時のジア・パキスタン大統領の招きで、35年ぶりに故郷を訪れる機会を得る。ジア大統領とは、独立前に同じ槍騎兵連隊に所属していた仲である。同じ軍人だった二人を、一方は「peacekeeper」に、もう一方は「独裁者」にした運命の皮肉を感じたという。
2007年5月末現在、100を越える国から送られてきた約8万人の軍人が、世界各地の計15の国連平和維持活動に従事している(国連ホームページ)。Peacekeeperであることを誇りとしたリッキー将軍は、大国の思惑が絡み時間のかかる国連の組織改革に先んじて、PKOのあるべき姿を実践で示そうとしたのではないだろうか。