5月初旬のやや古い話となるが、エストニアの首都タリンにおける「解放兵士の像」の撤去問題に関係して、ロシアとエストニアの関係悪化が報じられた。ソ連兵士をかたどったこの像が、ロシアにとってはソ連による「エストニア解放の象徴」であり、他方、エストニアにとってはソ連による「エストニア占領の象徴」であることは、周知の通りである。1940年、独ソ不可侵条約の付属文書であるモロトフ・リッペンドロップ協定によって、エストニアのソ連への併合は実行に移されたわけだが、この併合についてのロシアとエストニアの歴史認識は、完全に相容れない。
ところで、モロトフ・リッペンドロップ協定は、エストニアほかラトビア、リトアニアの所謂「バルト三国」のソ連への併合を取り決めたものであり、したがって、ロシアとエストニアの歴史認識をめぐる対立は、当然、ロシアとラトビア、ロシアとリトアニアとの関係においても存在する。かくて、この併合に関する歴史認識の違いは、ロシアとバルト三国との間に国境問題を生んだ。
現在、ロシアとバルト三国の国境条約については、ロシアとリトアニアの間では双方の調印・批准を経て発効済み、ロシアとラトビアの間では双方が調印済み、ロシアとエストニアの間では双方が調印されたものの後にロシアがこれを撤回と、三者三様の状況となっている。これは、言うまでもなく、ロシアとバルト三国それぞれの個別の事情を反映しているものであろう。以下、ロシアとバルト三国との国境問題について、歴史的経緯からこれを簡単にみてみたい。
バルト海南東地域は、ロシアやスウェーデン、ドイツ騎士団などの列強の抗争を経て18世紀に帝政ロシアの支配下に入った。その後、ロシア革命から第一次世界大戦を経た1920年、リトアニア、ラトビア、エストニアが、タルトゥ条約によってロシアからの独立を果たし、ロシアとの国境も画定させた。しかし、これらバルト三国は、第二次世界大戦中の1940年、モロトフ・リッペンドロップ協定によってソ連に併合されてしまった。その後、バルト三国とロシアとの国境は、「ソビエト連邦内における共和国間の国境」として、1944年から1946年にかけてソ連最高会議によって新たに承認され、これがソ連時代を通じて機能してきた。こうした状況にバルト三国は怨念を募らせていたが、ついにソ連末期の1991年、苦難の末にソ連から独立を獲得した。その数ヵ月後にはソ連が解体、2004年には、ついにバルト三国は念願のEU加盟を果たした。
ここに明らかな通り、一番の問題は、1940年のバルト三国のソ連への併合の問題にある。バルト三国の解釈通りこの併合をソ連による一方的併合であって無効とすれば、ソ連時代のロシア~バルト三国間の国境もまた無効であり、今のロシアとバルト三国との国境は1920年のタルトゥ条約によって定められたものとなるべきということになる。他方、ロシアの解釈通りこの併合をバルト三国の自由意志によるもので有効とすれば、併合時点でタルトゥ条約はその意義を失い、したがって今になってタルトゥ条約時点に国境を戻せというのは理由がない要求だということになる。
こうした中、ロシアとバルト三国は、時に鋭く対立しながらも、国境問題の解決に取り組んできた。その結果として、現在、ロシアとバルト三国の国境は、ソ連時代の国境を承認する方向で概ね画定に向かいつつある。その過程から窺えるのは、ロシアが「第二次世界大戦後の国境線の維持」の立場を崩さない中、バルト三国が歴史認識を重視しながらも現実政治の観点からこの問題で妥協に向かう道を歩んでいることである。
ロシアとリトアニアの国境条約は、1997年10月に調印され、ロシア側が批准に慎重な姿勢を採っていたものの、結局2003年5月、批准を経て発効した。ロシアとリトアニアの国境画定は、ロシアとラトビア、ロシアとエストニアのそれに比べれば、順調に済んだといえる。その背景としては、リトアニアは1940年のソ連編入によって領土を損失してはいないこと、リトアニアはラトビアやエストニアに比べて在住ロシア人が少なくロシア人の権利保護の点でロシアとの対立があまりないこと、リトアニアは国内にロシアの飛び地であるカリーニングラードを有しており、EUとの関係もあってロシアとの国境問題の決着が急がれたことなどが挙げられるだろう。
ロシアとラトビアの国境条約は、1997年に基本合意に達し、2005年5月に調印が予定されていたものの、この時ラトビア国会が条約批准文書の前文でタルトゥ条約の有効性に言及したことから、ロシア側が「領土要求を内容に含む」として態度を硬化、条約調印は流れてしまったが、結局、2007年3月になって、ラトビアが折れる形で条約は調印された。この背景には、ロシアがラトビアの要求に厳しい姿勢を崩さない中で、EUがラトビアに対してロシアとの国境を画定するよう求め続けたという状況があった。ロシアとラトビアの国境画定問題については、特に緊張が高まっていた2005年、ロシアのプーチン大統領が「21世紀の欧州において他国に対し領土要求と国境条約調印を同時に求めるのは馬鹿げている」旨、他方でラトビアのビゲフレイベルガ大統領が「感情を抑えロシアとの国境を画定させてEU加盟を果たそう。ロシアが自ら領土を返すまで待つか、それともラトビアが力ずくで領土を取り返すというのか」などと述べていたが、この中に、既に「ラトビアの妥協」という結末が示唆されていたように感じられる。
ロシアとエストニアの国境条約は、1999年に基本合意に達し、2005年5月に調印されたものの、エストニア議会が条約批准に当たりタルトゥ条約の有効性に言及したことにロシアが反発、ロシア側が2005年6月に調印を撤回し、条約は宙に浮いた状態になっている。しかし、ロシアとエストニアの国境条約については、ラトビアの例のように、いずれ情勢はエストニアが折れる方向に進まざるを得ないのではないかと予想される。エストニアにとって、ロシアとの歴史認識問題は極めて重要には違いないが、現実的な政治の観点からは、エストニアとEUの関係、EUとロシアの関係など、より大きな流れの中での判断が必要にならざるを得ないと思われる。
さて、歴史的にみれば、バルト三国のソ連への併合がバルト三国の意思に基づかないものであったことは、もはや事実として認めなければならないだろう。これについては、既にロシアでは1989年に当時のソ連最高会議が「モロトフ・リッベントロップ協定はスターリンとヒトラーの密約であって法的根拠を持たない」旨を決議しており、また、米国では、ブッシュ大統領が2005年にラトビアを訪問した際、戦後の東西世界の秩序を決定付けたヤルタ体制について誤りを認めるとともに、ソ連によるバルト三国併合を批判する内容の演説を行っている。しかし、そうしたことにもかかわらず、プーチン大統領は、「だからといって第二次世界大戦後の国境を今さら変更することはできない」という姿勢を譲ろうとしない。「領土問題に対するロシアの強硬姿勢」が批判される所以である。
しかし、ここで考えてみよう。第二次世界大戦に起源を持ち冷戦期を経て現在まで続いている領土問題に対して、現代の視点におけるあらゆる要求を満たす解決策を見出すことが、実際にどこまで可能なのだろうか。領土問題は、単に今日的な二国間関係においてだけでなく、時間的な深さと空間的な広がりにおいて総合的に把握されるべきものであろう。ロシアとバルト三国の国境問題は、第二次世界大戦と冷戦という、半世紀以上にわたる「大国の抗争」の歴史の中で、形成され、存続したものである。過去を直視し反省することはもちろん重要だが、問題の困難さを客観的に考えれば、現実政治に立脚し総合的利益を比較衡量して妥協を探るほかない場合も、時にはあるだろう。これを「敗北」と断定することは必ずしもできない。
また、このことについては、小国が大国の動きの影響を受けざるを得ないことも、避けられない現実として認めておかなければならない。これは、バルト三国については、1940年のソ連への併合については無論、1991年のソ連からの独立以降、2007年の今に至るまでの経緯についても、当てはまる。即ち、西欧諸国は、ソ連解体直後こそ「ソ連の支配からいち早く脱した」バルト三国に相応の支援を与えたものの、その後、それぞれの国内政治や「対テロ戦争」への対応などのため、バルト三国に対して以前ほどの支援を与えなくなった。その一方で、ロシアは、バルト三国への支配を失い冷戦にも敗北したものの、一時期の混乱を経て経済復興を果たし国際舞台の第一線に返り咲き、EUとパートナーシップを結び、今やまがりなりにもG8の一員でさえある。わずかここ15年ほどの間に、バルト三国の周辺情勢は大きく変化している。
さて、ロシアが抱える国境問題としては、日本との間に存在する北方領土問題を取り上げないわけにはいかない。いうまでもなく、これは日ロ間の「のどに刺さった棘」であり、解決に向けて最大限の知恵が絞られるべきものである。ロシアとバルト三国との国境問題は、少なくともそのための一つの材料には、なり得るだろう。2004年のロシアと中国の国境画定過程も同様である。
もちろん、国境問題は、それぞれが個別の背景をもっており、一つの事例を他の事例に単純に適用することは全くできない。しかし、問題解決の道を探る上で、実際の事例を分析することには、十分な意義があるだろう。そこには、良くも悪くも、多くの示唆に富むものが含まれているに違いない。