ロシア連邦保安庁(FSB)の元中佐であるリトビネンコ氏が亡命先の英国で放射線中毒のため死亡したのは、11月24日である。以来、スパイ映画さながらの「ロシア治安機関による国家ぐるみの政治的暗殺」を直感させるこの事件は、我が国でも広く報じられている。しかし、ちょっと冷静に考えてみよう。以下は、筆者が12月4日に週間「エコノミスト」誌と行ったインタビューを簡単に整理したものである(同インタビューの概要は、同誌12月12日号に掲載済みです)。
- 変死事件をどう見るか。
リトビネンコ氏は、FSBの「裏切り者」、かつプーチン大統領に敵対するオリガルヒ(新興財閥)のベレゾフスキー氏の親友だった。当局への敵対という点では、プーチン政権のチェチェン政策を批判し続け、10月に殺害されたジャーナリストのポリトコフスカヤ女史と同じだ。しかし、リトビネンコ氏とポリトコフスカヤ女史の殺害が、FSB、オリガルヒ、チェチェンなどの問題と何らかの関係があることは推認されるが、これらの問題はいずれも非常に複雑かつ危険な背景を持っており、そうした「裏の実態」に踏み込まずして二人の殺害を直接「プーチン大統領の陰謀」に結びつけるのは早計だ。そうした見方は、インパクトがあって面白いけれども、いささか劇画チックに過ぎるだろう。事件については司直が捜査中であり、具体的な証拠を持たない部外者が犯人や動機について憶測を重ねても、あまり意味があるとは思えない。今のところ、今回の事件はロシアの闇の深さが生んだものである、としか言いようがない。
ところで、我が国と異なり、ロシアでは、今回の事件をプーチン政権の批判につなげる風潮は弱い。発足から6年以上経過したが、今もプーチン大統領の支持率は70%近い高水準を維持している。その要因としては、好調な資源輸出による持続的な経済成長のほか、強い指導力による国家運営で社会秩序を回復させた点にもある。そもそも、ロシアの空気は、西側先進国のそれとは違う。リトビネンコ氏が「殉教者」的にロシア国民の共感を得られるような状況には、なっていない。
- 「国家の邪魔者」が抹殺されるという点で、ロシアが「ソ連回帰」しているという見方もある。
1991年のソ連解体後、エリツィン大統領の時代、ロシアは急速に欧米流の自由主義や市場経済を導入した。だが、その結果、オリガルヒなど一部の者だけが莫大な利権を手にし、他方で大多数の国民は大変な生活苦を余儀なくされた。1998年のルーブル危機を想起すれば十分であろう。そうした苦い経験があるため、今のロシアには、欧米流に傾斜し過ぎて大きな社会混乱に陥ったエリツィン時代への反動として、強力な指導力による秩序の維持を望む風潮が強い。これは、プーチン大統領の半ば強権的とも言える国家運営を可能ならしめる要因の一つである。このような傾向は、「揺り戻し」が起きているという意味においては、「ソ連回帰」と言えるかもしれない。だが、今回の事件については、これがソ連時代の「国家による反体制派への計画的弾圧」と同類であるという確証がなく、今の段階でこれを「ロシアのソ連回帰」に直接結び付けるべき根拠は乏しい。そもそも、ロシアが本当に「ソ連回帰」しているなら、こうした事件がロシアでいろいろと報じられることはないだろう。「ロシアのソ連回帰」という表現をよく目にするが、これには、「こういう具体的な根拠に基づき、ロシアのここがソ連に回帰している」という合理的な説明が伴うべきである。単なる印象や憶測だけでシナリオを作り上げてしまうのは危険だ。
確かに、西側先進国の基準でロシアを見た場合、その民主主義の程度には不足があるし、胡散臭い事件も多く、「ロシアは西側先進国と違う」との印象はある。しかし、ロシアが西側先進国と違うのはむしろ当然で、今更それを批判しても始まらない。固有の歴史的経緯や社会的風土の故に、ロシアにおける民主主義は、西側先進諸国におけるそれと異質なものにならざるを得ない。そのことは、前提条件として認識しておくべきだ。「ロシアにはロシアに適合した民主主義の形態がある」というのがプーチン大統領の考えだが、それはその通りだろう。
- 今回の事件で対ロシア投資が冷え込むことはないか。
今回の事件がロシアのイメージダウンにつながることは否めないが、これが投資環境に影響を与えることはないだろう。世界経済へのロシアの関わりの深さは、もはや言うまでもない。エネルギーなどの分野でロシアと関係する国々にとって、そのカントリーリスクを再認識した程度だろう。欧米先進国にとって今回の事件はいぶかしいものだが、だからといって、この事件のみのためにロシアとの関係を敢えて冷却化させる愚は誰も犯さないと考える。国家関係は、貿易や軍事など極めて多面にわたるプラグマティックなものであって、多少の事件によってその性質が大きく変化するほどやわなものではない。
- プーチン大統領が旧ソ連時代のような強い国家体制に傾斜するリスクはないか。
そもそもプーチン大統領は強い国家体制を標榜している。国家機関の再編や様々な法整備、天然資源産業の再編などによって権力の集中が進んでおり、大統領の周辺は側近で固められている。強い国家体制の構築に向けて上からの改革を進めているものだが、しかし、こうしたことを通じて、権力の中枢にいる一部の集団が権力と利権を独占するような旧ソ連的な構造にロシアが陥るリスクは、低くないだろう。これは、経済構造改革の遅れや汚職の蔓延、中央と地方との経済格差などとも相俟って、じわじわとロシアを蝕む要因になり得るものであろう。その意味から、2008年のプーチン大統領の任期満了を控えて、ポスト・プーチン体制の構築に向けたクレムリンの今後の動きに関心が持たれる。