はじめに
新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、国際協調が、全世界を巻き込む国家の危機においていかに脆いものであるかを白日の下に明らかにした。現代社会は、ヒト、モノ、カネ、そして情報が国境を越えて流通するのを量的、質的、そして時間的に促進するグローバリゼーションによって築かれてきた。しかし、今回の感染症危機は、まさにこのグローバリゼーションから復讐を受けているようだ。中国の武漢で最初の症例が報告されてから、世界中の死者が20万人を超えるというグローバルな危機的状況に陥るまでわずか5か月しかかかっていない。そして、グローバル化したサプライチェーンは、各国の危機管理にも大きな影響を及ぼした。世界各国がほぼ同時多発的に危機的状況へと陥いる中、感染症対応のための医療機器や防護服、マスクをめぐり一部の国家間では中世さながらの争奪戦が起きる始末であった。それは、欧州連合(EU)国間でも同様であった。また、国内政治的要因もあるとはいえ、いち早く危機からの脱出を宣言した中国は、(必ずしも成功しているとは言えないが)「マスク外交」にいそしみ、米国は、戦略的競争が激化する文脈の中で、パンデミックの中国責任論が政府首脳によって展開されている。
善悪は別にして、このように「主権国家」の本質がむき出しになった状況では、「グローバルな規模の危機には国際協調を通じて対処すべし」という理想論が空虚に響く。こうした国際協調をめぐる悲観主義は、世界保健機関(WHO)への不信感の増大に象徴される。
米国のトランプ大統領は、中国からの早期情報提供がなされたかったこと、そしてWHOが役割を果たしていなかったとの不満から、「COVID-19の感染拡大へのひどく不適切な対応と隠蔽(いんぺい)におけるWHOの役割を検証する間」、資金拠出を停止するよう指示したと述べた1。また、5月3日には、COVID-19が武漢の研究所から流出した決定的な証拠を含む報告書を公表するとの考えを示した。また、オーストラリアのモリソン首相は、WHOの対応ぶりに不満を示し、ガバナンス改革の案を提示している2。
こうした不満が出てくる背景には、国際社会では、WHOがパンデミックの状況を適切に判断し、各国の対応の指針となるような有効な情報とアドバイスをタイムリーかつ効果的に提供しえなかった、そしてその背景にはWHOがパンデミックの流行元である中国との間で、情報提供が適切になされなかった、あるいはWHOの専門機関としての独立性が担保されず、適切な関係を維持できなかったのではないかとの見方も存在する3。
実際にWHOの情報提供に何らかの瑕疵があったのかどうか、またもし瑕疵があったならそれが各国の対応の遅れにどの程度影響を与えたのか評価するには今後詳細な検証が求められよう。しかし結果としてパンデミックで多くの人命が失われ、また多くの国がWHOの果たした役割が十分でなかったと考えており、WHOの国際機関としてのあり方が問われる事態となっていることは間違いない。
COVID-19への対応がなぜWHOという組織の危機を招来したのかは、大きく分けて3つのポイントが考えられよう。第一に、WHO憲章および国際保健規則(2005年改正:IHR2005)によって規定されたWHOのマンデートおよび加盟国の義務の限界、およびマンデートと国際社会の期待値のミスマッチ、第二に、WHOと加盟国間の間で確立された情報収集・提供メカニズムの機能的妥当性と運用における妥当性、第三に、意思決定システムの政治性である。これらの論点はそれぞれ独立して存在しているわけではなく、これらが絡まりあい、危機対応におけるWHOのガバナンスに対する疑念につながっている。しかし、WHOの、ひいては今後の国際機関のガバナンスあるいは国際機関を通じた多国間協力の実効性の向上のための改革の方向性を見極めるには、この絡まりを解きほぐし、それぞれの要素について検討を加えることが必要である。
1.WHOの危機対応にかかる制度的基盤
第一の点に関しては、WHO憲章では、WHOの役割として、国際保健事業の指導的且つ調整的機関(the directing and co-ordinating authority)として行動すること、国際的な協力や支援の提供、研究や事業の促進などが規定されている(第2条)。またWHO憲章に基づき策定されたIHR2005は、「国際交通および取引に対する不要な阻害を回避し、公衆衛生リスクに応じて、それに限定した方法で、疾病の国際的拡大を阻止し、防護し、管理し、およびそのための公衆衛生対策を提供する」(第2条)ことを目的としている。IHR2005は、法的強制力を持つものではないが、事実上国際的な規範として機能しているとされている4。
この目的のために、WHO事務局長は、「(とくに自国の領域内で事象が発生している参加国から)受理した情報に基づき、当該事象が<中略>国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を構成するか否かを認定(第12条)する。そして、事務局長は、PHEICに対処するための暫定的勧告を出すことができる。
PHEICは、国際的な対応を必要とする大規模な疾病の発生そのほかの「起源または発生源にかかわらず」すべての公衆衛生上の脅威となるあらゆる事象に対して宣言される。自然発生、事故、故意などその発生の態様を問わず、また生物(感染症)・化学物質・放射性物質など期限となる物質も問わない。従来、疾病の国際的伝播を阻止することを想定していたが、2005年のIHR改訂では、新興再興感染症やバイオテロに対応する必要性や、伝染病検知の隠蔽防止の観点から、国内での公衆衛生上の危機の発生に関する日常のサーベイランスをより重視するとともに(第5条)、WHOへの通報の義務化(第6条、7条)や連絡体制の強化、国内体制の整備とWHOによるアセスメント(評価)、WHOによる情報の提供(第11条)や勧告(第三編)などが規定された。IHRはまた、公衆衛生上の事例の探知や対応に関する方策を確立する指針にもなっているが、その中では、各国に情報収集およびWHOとの情報共有の責任と連絡チャネル(IHR担当窓口(IHR Focal Point)、IHR担当窓口のためのEvent Information Siteという非公開のウェブサイト)設置を定めている。
PHEICの認定および勧告の発布において事務局長は、当該国と協議し、「かかる認定について見解の一致をみた場合、<中略>緊急委員会(第9編第2章)に適当な暫定的勧告に関する見解を求め(第13条)、最終的な決定を行う(第49条5)」。しかし、このような事務局長の権限は、当事国の意向に大きな制約を受けることが制度上規定されている。事務局長による勧告は、発布、修正、解除にあたり、緊急委員会の助言や科学的証拠などに加え、直接関係する参加国の見解も考慮することになっている(第17条)。また、もし事務局長と意見の一致を見なかった場合、当該国は、PHEICの終結及び/又は暫定的勧告の解除を提案できる(第49条7)。なお、緊急委員会のメンバーは、IHR専門家名簿から事務局長が選任した専門家及び本機関の他の専門家アドバイザリーパネルから構成されるが、「少なくとも一名の委員は、自国の領域で事象が発生した参加国が指名した専門家」であることが望ましいとされる(第48条)。
また、IHR2005は、PHEICおよび暫定的勧告の発布の基盤となる事象の検知のためのサーベイランス、通報を含む情報共有のあり方、事象と対応に関する検証およびアセスメント、WHOによる情報共有などを定めているが、これらはいずれも参加国自身の能力構築と法的強制力を伴わない義務であり、WHOによる国際公衆衛生上の危機への対応のメカニズムは、政治的なコミットメントを善意で果たす意思に依拠しながら成り立っているといえよう。つまり、憲章にしてもIHRにしても、PHEICにまつわる一連のプロセスにおいて、WHOは、勧告や指導、協力は実施できるものの、参加国に対して何らかの強制的な措置を取ることは想定されておらず、むしろ事象が発生した当該国の協力を得ずして任務を果たすことは不可能なのである。
また、憲章やIHR2005の規定を検討するうえで、もう一つ留意すべきは、IHRによれば、WHOの役割が主として、国際移動に対する影響、すなわち、「国際交通および取引に対する不要な阻害を回避し、公衆衛生リスクに応じて、それに限定した方法で、疾病の国際的拡大」に対応することとして規定されている点である。
国境を越えた移動を制限するか否かに関するWHOの判断は常に抑制的なものであった。渡航制限勧告発出の遅れが各国での感染症の拡大を招いたとの見方は根強い。1月30日にPHEICが宣言された際にも、WHOは貿易や人の移動の制限は推奨しないと述べており5、その後パンデミックを宣言するまで、国際的な流通や旅行の制限を推奨することには消極的であった。
IHR2005には、国際的な移動への不要な阻害を回避する、という点があらかじめマンデートの中に盛り込まれている点にも留意すべきであろう。2005年のIHRの改正により感染症対策の主眼は、水際での感染症侵入阻止から、主権国家の内部における感染症対策(サーベイランスなど)への重点をシフトした。これは、水際対策の重要性を減ずるものではないものの、生物学的脅威の認識の多様化・変容という問題を認識し、多様化する脅威への対処が可能なようにする変更であったが6、基本的には各主権国家の方針や国内対策を尊重するということを示唆する。
IHRの2005年の改正は、1995年のWHO総会での改正決定からまさにグローバリゼーションが加速化する時期に作業が行われたのであり、当時国際的なモノやヒトの移動の制限に対し抑制的な認識を持ったとしても誤りであったとは言えないであろう。このような規定になっている以上、国際移動の規制に関しては、WHOとしては各国の施策を尊重し、極めて保守的な評価になるであろうことはあらかじめ想定されうる。後述するように、パンデミック宣言の発出が各国の対応にどの程度変化をもたらしたのかは不明であるが、このようなWHOに与えられたマンデートと今回の危機における国際世論のWHOの役割への期待のギャップについては、改めて考え直す必要があるだろう。
2.情報共有のあり方:PHEICとパンデミック宣言
(1)PHEICとWHO-中国関係
このような構造的制約は、第二のポイントである、WHOによる情報収集と分析、情報開示と共有の適時性・迅速性への疑問にもつながる。パンデミックへの効果的な対応においては初動が重要であることは言を俟たないが、適切な初動を可能にするための適切な情報共有が発生国からなされなかった可能性があるというのは、国際協調の実効性を検討するうえでは重要な論点である。
なおこの点に関連して述べれば、その後も中国から適時・適切な情報共有がなされていないどころか、感染症の実態に関する隠ぺいやデータ操作が行われているのではないかとの批判も、かなり早い時点から米国をはじめ各国からなされており7、また中国国内からも内部告発のような形で感染症の情報に関する隠ぺい工作に関する情報が出てきていた8。12月から1月にかけてWHOから発出された感染に関する情報は、明らかに当時の状況を正しく伝えていなかったと言えるが、それが、WHOが中国から伝えられた情報を過小評価したからなのか、それともそもそも中国から正しく情報が伝えられていなかったのか、また後者であるとすれば、そのような情報提供のあり方をWHOとして修正することができなかったのかという疑問は今後検証がなされるとしたら、(実効的な検証が政治的に可能かどうかは別にして)その対象になってもおかしくない。
中国当局からWHO中国事務所に対して武漢におけるCOVID-19感染症によるクラスターの発生が初めて報告されたのは、2019年12月31日であり、WHOは翌日には新型コロナ危機対応グループを立ち上げた。2020年1月10日には、国際的な旅行と貿易に関する指針を発した9。この指針の中では、現時点ではヒトからヒトへの重大な感染は発生しておらず、また医療従事者の感染も発生していないと評価、旅行者には一般的な健康管理上の注意を呼びかけつつも特別の措置を推奨せず、移動の制限にも触れていなかった。貿易についても制限は出されなかった。12日付のWHOの感染症発生情報(Disease Outbreak News)によれば、WHOは、現在武漢で行われている調査と取り組み対策の質、定期的な情報共有に関する中国のコミットメントに不安はなく、現時点では医療従事者の感染はなく、ヒトからヒトへの感染の明らかな証拠もない、との評価であった10。
WHOは、1月20、21日に武漢に専門家を派遣し、視察を行った。1月22日、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を宣言するべきか否かを判断するため、「2005年国際保健規則(IHR2005)」緊急委員会を招集した。しかし、同委員会は、議長によれば、エピデミックの状態が進んでいることや症例数の増加、症状の重篤性などを挙げてPHEICを宣言すべきとの考えと、中国外の症例が限られていること、中国当局が封じ込めのために行っている努力を考慮し、PHEICの宣言はまだ不要と考えに意見が割れたものの、テドロス事務局長は、中国でのヒトからヒトへの感染は主に家族や患者の治療にあたる医療従事者にとどまっているほか、中国の外ではヒトからヒトへの感染が確認されていないことを理由に挙げ、宣言発出に至らなかったと説明した11。(実際には、中国疾病予防管理センター(CCDC)が2020年1月29日に医学雑誌に発表した論文では、12月中旬には武漢ではすでにヒトからヒトへの感染が起きていたとの分析がなされている12。)
ただし、その翌日にはWHOが報告書で、ベトナムにおいてヒトからヒトへの感染が確認されたと発表しており13、前日のPHEICを発出しないという結論の理由として挙げられていたヒトからヒトへの感染が中国外では見られないこと、という点と矛盾する。1日違いで情報が行き違いになった可能性も否定できないが、果たして組織内(緊急委員会と報告書を担当した部署)で調整が円滑になされていたのかは疑問の余地が残る。
1月28日、訪中したテドロス事務局長は習近平主席と会談したが、翌日のWHOによるプレス・ブリーフィングにおいては、メディアから中国からの情報の欠如や取り組みに関して疑念の声が上がっていたが、WHO側(緊急対応責任者のマイク・ライアン氏)は、中国は報告についてオープンで、透明性の欠如は見当たらない、2002-03年のSARSの際の中国の行動とは比較にならない(ほどよい)、と述べている。また、同時に、新しい疾病に関する情報の取り扱いはどの国も敏感で、国家安全保障にもかかわってくるため情報共有を禁止する法律を持っている国もある、中国を指さす以前に、情報共有は本当に機微なことである、と述べ、中国が情報提供に消極的ではないかとの疑念を否定している14。
ただ、この間WHOが中国との間で厳しい交渉をしていたことは、テドロス事務局長の5月1日の記者会見での発言から垣間見える。事務局長は、この間に、「国際的な専門家を派遣し、中国が自分自身のためにチェックするのを支援すること」について中国と交渉し合意したとし、中国が国際的な専門家と協働する道を開くことに努めたと述べている15。
PHEICが出されたのは、1月30日であった。PHEIC発出にあたって出された緊急委員会の声明では、中国政府首脳レベル(high level)の指導力と政治的関与、そして透明性へのコミットメントを歓迎し、中国の対応は中国自身にとってだけでなく、中国以外の世界にとっても良い事であると評価した16。また、WHOのテドロス事務局長は、記者会見において、PHEICは「中国への不信任ではない」と述べた17。
PHEICは、IHR2005において定義、概念の政策的運用が明確に規定され、WHOや各国によって実施されるべき措置が定められているため、実務的には、パンデミック宣言よりも重要な意味を持つともいえる。PHEICは、国際的な感染症の広がりに対して警告を発し、各国で積極的なサーベイランスや検知、隔離と症例管理、接触追跡などさらなる広がりを防止するための封じ込めを準備すべきとしつつ、引き続き各国に旅行や貿易の制限を設けることは推奨していなかった18。テドロス事務局長はのちに、この点について、「中国外の感染者数がわずか82人だった」1月30日に、「IHRに基づき、最高レベルのグローバルな緊急事態を宣言」した、これにより各国はあらゆる公衆衛生措置を発動することもできたはずだ、と述べている19。
パンデミックを宣言することは、封じ込めを諦め、被害軽減(mitigation)へと戦略をシフトすべきとのメッセージを発することになりかねない。WHOは、それまで繰り返し封じ込めを強調し、それが可能であると主張してきたが、それを覆しかねないパンデミック宣言をする状況ではないとの判断であったということである。
(2)パンデミック宣言の意味と宣言をめぐる認識のギャップ
最終的にWHOが「パンデミック宣言」を出したのは、3月11日であったが、WHOの考えとは逆に、国際社会ではすでにPHEICを宣言したころには、パンデミックを懸念する声が上がり始めていた。
WHOによれば、パンデミックを宣言した時点では、全世界の感染者の90%はわずか4カ国で占められていたのであり、感染者が10人以下の国が57か国、感染者が報告されていない国も81か国あった20。このような地理的な広がりが限定的なことを示すデータを見れば、パンデミック宣言のタイミングが必ずしも不適切であったとはいえないとの議論もありえる。しかし、COVID-19に関してはその特徴に未知の部分が多く、また中国においても初期対応において情報の隠蔽や正確な情報が提供されなかったために、既知の感染症に対してよりも高い危機意識を持つことになったという背景を踏まえ、1月からの感染者、死者数が、世界的に観れば指数関数的増加している傾向(WHOによると、3月13日の時点で感染は123の国と地域に広がり、感染者は132,000人を超え、死者は5000人に上った21)を考えれば、WHOがなぜパンデミック宣言をしないのか、予防的にもっと早くに宣言が出されてもよかったのでは、との見方が出るのも不自然ではない。
突き詰めていけば、この、国際社会における危機意識の高まりとWHOによるパンデミックの宣言のタイミングのギャップがWHO不信の原因であろう。問題は、なぜそのようなギャップが生じたのかである。その原因を理解するにあたり、WHOと中国との関係などパンデミック宣言の決定をめぐる政治プロセスに焦点が当たりがちではあるが22、PHEICとパンデミック宣言の違い、PHEICおよびパンデミックの定義や適用条件のあり方、過去の経験などの制度的制約も考慮に入れる必要があるだろう。
「パンデミック」の宣言は、感染症の国境を越えた広がりがコントロールできない状況に達した時に発せられるが、その状況は感染症の種類によって異なる。コロナウィルスによるパンデミックにはこれまで明確な定義がなかった。パンデミックの宣言にあたって、感染伝播の強さ、症状の重篤性(致死率)、治療方法やワクチンの存在、そして封じ込めの可否など、総合的な判断を求められる中、COVID-19には未知の部分が多く、科学的な知見をもとにパンデミックと宣言を出すことは非常に難しい決定だったことが想像できる。WHOは、3月3日の時点で、感染伝播の強さについて、新型インフルエンザほど強力ではないが、免疫が確立されておらず、多くの人が感染し重い症状を引きおこすがコントロールは可能との評価をしていた(そしてそのためにパンデミックの宣言には至らないと考えている)23。この評価は現時点から振り返ってみれば、妥当性について多くの疑問が呈されるとはいえ、WHOによれば、「もしインフルエンザで同様の状況であれば、ずっと前にパンデミックと呼んでいた」という24。
WHOが、COVID-19の流行が制御可能で封じ込めることができる、もしくは制御と封じ込めという政策目標を諦めるべきではないと強く考えていたことは、テドロス事務局長の記者会見からうかがえる。テドロス事務局長は、3月9日の会見で、「パンデミックの脅威は非常に現実味を帯びてきている。しかし、これは史上初めて制御可能なパンデミックになるであろう」と述べている。テドロス事務局長はまた、パンデミックを宣言した記者会見において、「パンデミックは、軽々しく、あるいは迂闊に使うような言葉ではない。この用語は、もし誤って使われれば、理不尽な恐怖、あるいは戦いは終わってしまったことを不当な受容に、ひいては不必要な苦しみや死をもたらす。この状況をパンデミックと表現しても、このウィルスによってもたらされる脅威のWHOとしての評価は変わらない。WHOが行っていることも、各国がすべきことも変わらない」と述べている25。
また、3月12日のWHO代表によるEUへのブリーフィングでは、事務局長の言葉を引用する形で、「これをパンデミックと表現することは、各国が諦めることを意味しない。封じ込めから(被害の)緩和へと移行するという考えは、間違っており、危険である」と述べられている26。
WHOのテドロス事務局長が言うように、「この状況をパンデミックと表現しても、このウィルスによってもたらされる脅威に対するWHOとしての評価は変わらず、WHOが行っていることも、各国がすべきことも変わら」ず(3月11日の会見)、PHEICは「IHRに基づき、最高レベルのグローバルな緊急事態」の宣言で、これにより「各国はあらゆる公衆衛生措置を発動することもできたはず」なのにそれができなかった(4月27日の会見)のであれば、なぜPHEICが1月30日に宣言されてから各国が対応の強化に動き出すまでそれほど時間がかかったのか(各国のロックダウンなどの動きは2月下旬から3月上旬)、PHEICの実効性について改めて考え直す必要があろう。
WHOがパンデミック宣言を出すことは、グローバルな規模で疾病への対応方針の策定のみならず、経済的、社会的、そして政治的に大きな影響を与えることにもなる。そのため、宣言を出す場合にも極めて慎重な判断が求められよう。その観点から言えば、2009年の新型インフルエンザH1N1亜型のパンデミック宣言の顛末は、WHOにとっての重要な教訓ともなったであろう。また、逆に、PHEICの宣言発出が遅れ、国際社会から大きな批判にさらされたのが、2013年から西アフリカにおいて流行したエボラ出血熱の事例である。
WHOは、2009年に新型インフルエンザH1N1亜型について、2009年4月25日に、カナダ・メキシコ・米国で発展していた緊急事態をPHEICであると宣言し、緊急委員会は本流行がパンデミックの基準を満たすと結論づけ、6月11日には、「今、すべての人類が脅威にさらされている」として、顕著な感染や死亡の被害が著しい事態を想定した警告であるフェーズレベル6/6と警告し、パンデミック(世界的大流行)の宣言を行なった。しかし、のちに新型インフルエンザは弱毒性であることが判明し、大きな被害が出ることもなかった。
WHOの「誤報」を重く見た欧州議会は、パンデミック宣言に至った経緯の調査に踏み出す事態となった。欧州議会ヴォルフガング・ワダルグ前保健衛生委員長は、「WHOのパンデミック宣言は、偽のパンデミックであった」とし、英国の医療メディアにおいてもWHOのパンデミック宣言の意思決定に製薬会社の意向が影響しているとの見方を示し、WHOと企業との癒着を批判した27。これに対し、WHOは、製薬産業の意向に沿うようパンデミックの定義を変えたとの批判に対し、パンデミック対処計画(Pandemic Preparedness Plan)は2年間の議論を経て定められたものであり、フェーズの定義も含め、予め策定された基準に基づいたものである、また、この決定は、WHOの執行理事会および検証委員会によって承認されていると反論した28。一方欧州議会に提出された報告書は、WHOによるパンデミック宣言の「予防的原則(precautionary principle)」を支持する見方もあったとしつつも、その後当初の予想よりも新型インフルエンザの毒性が弱いと判明した時点で評価を見直さなかった点を批判する29。
2013年に始まったエボラ出血熱の流行に際しては、PHEICの宣言が遅れたことに対する批判が高まった。2013年12月にギニアにおける2歳男児の葬儀からエボラ出血熱の集団感染が発生し、翌年3月23日にエボラ出血熱の流行が宣言され30、WHOはGlobal Outbreak Alert and Response Network (GOARN)を通じて対処チームを派遣した。チームは直ちに現地の厳しい情勢を報告したが、WHOの対応は鈍く、ギニアのみならず、リベリア、シエラレオネなどでの流行が報告され、また『国境なき医師団(MSF)』が厳しくWHOの不作為を批判しているにもかかわらず、WHOが深刻な懸念を表明したのは6月の終わり、PHEICの宣言は、8月に入ってからであった31。
その後、9月15日には国連安保理で安保理決議2176が採択され、国連リベリアミッション(UNMIL)のマンデートの延長とエボラ対応のための追加的支援措置のマンデートが与えられた32。さらに米国が3000人の軍事要員を派遣することを決定、9月18日には、史上初めて感染症のアウトブレークを「国際の平和と安全に対する脅威」として認定する、国連安保理決議2177が採択された33。これらの決議をもとに、国連エボラ緊急対応ミッション(UNMEER)が組織され、活動が開始された34。
PHEICの宣言からわずか2か月弱で、国際機関としては最大限の対応を見せたと言えるが、逆にそのことは、WHOによる対応の遅れを際立たせることとなった。WHOの内部報告書によれば、西アフリカ地域のWHO事務所が機能せず、単純なメッセージも見逃していた('failed to see some fairly plain writing on the wall)など、組織としての実施能力が欠如していたという35。また、WHOが現地の政治状況を重視していたことも指摘されている。エボラのインパクトを小さく見せようとする政治的な意図がみられること、またPHEICの宣言につながる緊急委員会の招集を躊躇したのは、それが有用ではないのみならず、地元に対して敵対的な行為であるとみられるからであったというWHO内部からの証言もあった36。
PHEICは、今回のCOVID-19までに5度宣言されているが、パンデミック宣言は、2009年の新型インフルエンザ以降発せられていない。WHOが今回パンデミック宣言に慎重になったように見えた背景には、新型の感染症であるが故の科学的知見が十分に得られていない状況にあって、パンデミック宣言を慎重に考慮せざるを得ないように迫る、WHOにとっての潜在的な政治的、社会的コストが存在することが、2009年の事例よりうかがい知ることができる。
また、2014年の事例は同時に、このような緊急事態宣言が現地の政治的な事情等に大きく左右される可能性を示唆しており、このようなWHOの対応の失敗の事例とその総括があるにもかかわらず、今回のWHOの対応ぶりに対し、国際社会の不満が高まっていることは、組織の改革が容易ではなく、また改革が進められないことにより一層、公共衛生分野における実効的な国際協調体制の構築が進まないという問題が浮き彫りになった。
いずれにしても、WHO内部の感染症対応の問題点をあぶり出しており、これらの教訓にもかかわらず、今回の対応が多数の国から評価を得られなかったことは、WHOのガバナンスのあり方そのものが問われていると言ってもよいであろう。
(3)政治プロセスの構造的問題
第三の点に関しては、現時点において内部の意思決定過程をつぶさに観察し評価するに十分な資料や情報がないため、極めて一般的な議論になるが、国際機関における主体はあくまで主権国家たる参加国であり、意思決定においては参加国の意向が尊重される。
今後、WHOのガバナンス強化に関し議論が行われ決定がなされるとすれば、世界保健総会(WHA)およびWHOの執行理事会を通じてであろう。多くの国際機関や国際会議では、規則として多数決での意思決定が規定されている。WHOの意思決定機関であるWHAでは、重要事項に関する決定は出席しかつ投票したメンバーの三分の二の賛成が(Rule 70, Rules of Procedure of the World Health Assembly))、それ以外については過半数の賛成が(Rule 71)必要となる。また、WHAの議決とは別に、34人の執行理事(各国からの推薦)から構成される執行理事会があり、WHAへの助言や提案、WHAでの決定事項の実施などそこでも議決が採択されるには重要事項に関しては三分の二の賛成が必要となる。
手続き的に多数決が可能な場合でも、多くの場合、不同意による離脱を回避すべくできる限りコンセンサスを追求することが規範となっている場合が多く、これは事実上各国が拒否権を持つことを意味する。WHAも例外ではない。
また、クライアントが主権国家である以上、組織全体の総意としての意思決定ではなく、また事務局が発出する報告書や声明であったとしても、ある国にとって不都合な内容があれば訂正や削除を求めることはそれほど難しいことではなく、結果として組織としての判断が鈍ることは、他の事例を参照すれば十分にありうる。例えば、国連安保理の北朝鮮制裁委員会や安保理決議1540委員会などでは、報告書の公表をめぐり委員会内部での意見の対立や、報告書の公表をめぐる安保理における対立が表面化する。
また中国からの拠出金が影響を与えたのではないかとの見方については、予算面を見れば中国の政治的影響力は否定されうる。2019年のWHO予算を見ると、義務的分担金が全予算の17%で、残りが自発的拠出金となっており、WHOの実施する保健や公衆衛生の国際協力プロジェクトの多くが自発的拠出金で賄われている。この二つの種類の拠出金を合計して国別でみた場合、米国は約8.9億ドル、WHO予算全体の14.7%を占めている。一方の中国は、約0.86億ドルであった37。今年に入って、3月、4月に中国は新たに新型コロナ対策として合計5000万ドルを拠出しているが、それが中国の影響力増大に直接結びつくものであるとは言えないだろう38。
テドロス事務局長が、中国と密接な関係があるとして政治的な忖度を疑う見方も報道されているが、主権国家の集合体としての性質上、参加国の意向によって国際機関の立場が左右されることは珍しいことではなく、また上記のように、そもそも究極的には国際機関というのは、参加国の主権が担保され、参加国の意向が反映されるがゆえに最大公約数的な意思決定を行うことにより国際機関の正当性が担保されるように制度設計がなされている。
今回はたまたまテドロス事務局長が記者会見等で中国に配慮する発言を繰り返したために注目を浴びたが、このような状況は、パンデミックの発生元が他国であったとしても同様であった(当事国が情報の出し入れをコントロールし、また自国に不利にならないように報告書や勧告に対して影響力を行使したのではないかとの疑いを抱かれる)可能性は否定できない。このような国際機関における意思決定をめぐる政治は、本事案に固有な問題ではなく、むしろ多くの国際機関に共通する、いわば多国間フォーラムの慢性疾患的問題とみなすべきであろう39。
このような意思決定システムは、平時において時間をかけて国際的なコンセンサスを形成しつつ規範やルールを確立していく際には大きな問題にならないが(加えて、天然痘やポリオ撲滅といった国際公衆衛生問題においてWHOがこれまで果たしてきた貢献も看過すべきではない)、危機管理のような早急な対応が必要な場合には実効性を低下させる方向に作用することになる。また、中国が政治的な理由で世界保健総会への台湾のオブザーバー参加を拒否しているが、パンデミックというグローバルに科学的な対応が求められる事態において、対策の空白地域(ループホール)を作りかねない。緊急時にもかかわらず平時における政治対立の争点を維持する行為は、当該国の信頼を低下させ、WHOによる衛生戦略の有効性を低下させる。(なお、台湾はWHO加盟国よりもより効果的にCOVID-19に対応したとされ、今回に関しては、潜在的な問題提起にはなったものの、WHOによる対応の実効性を損なったとはいえない。)
3.国際機関の実効性向上に向けて:豪州提案を手掛かりに
今回、COVID-19のパンデミックが中国から広がり、欧米を中心に世界中で数多くの犠牲者が出たということで、図らずも国際機関における中国の影響力、中国の透明性(情報開示のあり方)の問題、そして国際機関のガバナンスの問題に脚光が当てられることになった。
中国からの情報提供が不適切だったのではないかとの指摘は欧米で根強いが、4月14日、米国のトランプ大統領は、WHOの中国への対応に関して、「COVID-19の感染拡大へのひどく不適切な対応と隠蔽におけるWHOの役割を検証する間」、資金拠出を停止するよう指示したと述べた40。また、米政府は、COVID-19が武漢の研究所から流出したのではないかとの疑いを発信している。こうしたトランプ政権の批判に対しては、危機のさなかにあってWHOへの資金を停止することは事態の改善につながらず、もしトランプ大統領のWHOへの批判が、WHOによる中国に対する過剰な配慮に対するものであるならば、国際社会からの支持は得られず、またWHOの実効性の向上に持つならず、むしろ逆効果であるとの批判もある41。他方で、WHOのガバナンスや対処の適切性に対する疑問は共有されており、WHOの改革の必要性を訴える声は根強い42。今回のWHOの問題については、中国であったからこそ顕在化した点もあるが、中国の政策に固有の問題と多くの国際機関を通じたグローバル・ガバナンスに通底する構造的問題を切り分ける必要がある。
その中で、オーストラリアのモリソン首相の改革案は、以上のような、主権国家の集合体としての国際組織の構造的問題や、現行のPHEIC対応としての情報共有や勧告の実効性の問題に対する、(過激ではあるが)一つの回答を提示した形になっている。同案の内容の一部は、IHR2005のみならず、WHO憲章の改正にまで踏み込む可能性も排除できないような野心的なものである。現時点において公式にこれを支持する国もまだ出てきておらず、実現の見通しが明るいわけではない。しかしながら、これらの提案は、今回の事例のようにグローバルな広がりを持つ危機に効果的に対処するために大きな障害ともなりかねない、国際機関の「慢性疾患」、「国家主権の壁」を乗り越えることを想定しており、今後、多国間の枠組みを通じた国際協調が実効性を伴い、加盟国にとって有用であるために、どのような改革が望ましいのか、その論点を明確にしているといえよう。
同案のポイントは、1)WHOが提案した衛生戦略に対し、個別の加盟国は拒否権を持たないこと、2)COVID-19感染症のようなグローバルな健康災害におけるWHOの遂行能力を事後に検証するための独立した検証組織の設置、そして3)軍縮プログラムの検証のための兵器査察官と似たような調査官のチームを、感染症のアウトブレークの要因を特定するために派遣する権限をWHOに付与するという三本の柱である。
1)の点は、まさに当事国が国際公益よりも自己利益を確保するための、コンセンサスの規範を通じた事実上の拒否権を封じるルール作りを目指すものだ。このような提案は、安保理改革の議論の中でも、安保理が拒否権行使によって国際の平和と安全の確保のために有効な行動を取れない場合が少ないことから、浮上してくるアイディアではある。現在のIHRに立脚したPHEICへの勧告づくりのプロセスにおいては、当事国からの情報、知見の提供が大きな比重を占めており、戦略策定プロセスそのものに当事国からの関与が不可欠である以上、当事国の利害と背反するような戦略は上がってきにくいのではないだろうか。
2)の事後に独立した検証を行うための組織の設置に関しては、IHR2005に規定された既存の「再検討委員会」もしくは「検証」との違いがポイントになろう。IHR2005では、「再検討委員会」について以下のように定められている。まずメンバーはIHR専門家名簿から事務局長が選任することになっている。報告書は、事務局長に提出され、事務局長はその見解と助言を保健総会又は執行理事会に伝達する、とされている。なお、現行のIHR2005の下では、同委員会は2009年のH1N1型の新型インフルエンザのパンデミックにおける、準備状況と対応ぶりについて検証している43。
事後ではないが、IHR第10条に定められた検証の規定では、PHEICを構成する恐れがある事象が領域内で発生していると申し立てられた参加国に対し、通報又は協議以外の情報源からの報告を検証するように「要請」する、あるいは、アセスメントのために関係参加国と「協働することを申し出る」、そしてその申し出を参加国が断った場合には受け入れを促す、とされている。
今回の事案の場合、WHOと中国は2月に共同調査を行ったが、疫学調査が目的であり、報告書はコウモリ起源とみられるものの何が中間宿主になってヒトに感染したかは特定できないなどの結論をまとめており、その後のさらなる調査は中国側に委ねた形になっていた。ただし、この調査は、中国の情報提供のあり方や透明性などを評価するものではなく、あくまでも科学的なウィルスの特性や感染の広がりに関する科学的な調査であり、政策の適切性をめぐる「検証」という位置づけではない44。しかし、WHOは、他の国際機関や中国と協力をしてさらに調査を進めるとしており45、中国も5月8日にWHOが派遣する専門家を受け入れるとの意向を表明した。問われることになるのは、調査の対象であろう。
2009年の新型インフルエンザのパンデミックへの対応ぶりの事後検証は、公表が2015年であり、今回も、もし検証がなされるとすればパンデミック収束後となるであろう。このような検証は、長期的に観れば危機時の対応における不正義や不適切な対応を、限定的ではあるが抑止する効果は見込めるが、現在進行している危機への対応を修正していく適時性という点では十分とは言えない。現実には現在の制度下においてはこのような検証を積み重ねていくしか制度の改善の方途はないであろうが、独立した検証を行う場合には、この委員の選任の権限、および報告書の提出先を、執行理事会に変更したりするようにIHRを改正することになるのであろうか。とはいえ、いずれの形でも、WHOと紐づけされている限りは、参加国の影響力から自由になることはないといえよう。
第3の、一種のより浸透的な査察制度の導入に関しては、イラクに査察に入ったUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会、1991-98年)やUNMOVIC(国連監視検証査察委員会、1999-2003年中断)のような国連安保理決議により授権され、強制力を持ったアドホックな査察の形態も考えられよう。しかし、感染症のパンデミックを安全保障上の脅威ととらえたとしても、ある特定の国による公衆衛生政策や情報共有の方針を「国際の平和と安全に対する脅威」と認定し、国連憲章第7章下で強制力を伴った査察チームを送り込んで検証を実施することコンセンサスを得るには、客観的に説得力ある根拠を示す必要があるだろう。大量破壊兵器開発に関する誤情報により、最終的にはイラクのサダム・フセイン政権を崩壊にまで追い込んだ先例は、各国の判断を慎重な方向に導く要因となり得よう。
また、現存する軍備管理・軍縮条約下での恒常的な査察制度という点では、条約化学兵器禁止条約(CWC)に規定された「チャレンジ査察」、国際原子力機関(IAEA)の包括的保障措置協定の追加議定書(AP)に基づく査察官の権限、そして、生物兵器禁止条約(BWC)の検証議定書交渉における検証制度導入の失敗の経緯などが議論の参考になる46。まず、査察の前提として、条約によって何が禁止され、何が禁止されていないかが問題となる。IAEAの場合、核兵器の原料となる核分裂性物質の保有自体は禁止されておらず、また保有量に関しても普遍的なしきい値の規定はないが、軍事転用がなされていないかどうかについて保障措置により検認を受ける必要がある。その中で物質の量的管理が極めて重要な意味を持つ。CWC、BWCに共通するのは、「条約によって禁止されない目的」を除いて、つまり平和目的及び防護目的以外で化学剤、生物剤を開発・製造・保有することを禁止しているということである。しかし、実際にはCWCおよびBWCに規定されたように、化学剤、生物剤が平和目的でない、あるいは防護目的でないことをどのように証明するのか、つまり使用の目的を検証することは極めて困難であると言わざるを得ない。
CWCの場合、軍事用の化学剤をリスト化し、さらにその生成途上で使用する原材料の民生用の生産活動等についても監視下に置き、原材料から軍事用の化学剤が製造されないよう担保する制度の構築がなされた。それを担保する制度は、申告、通常査察、それに加え「チャレンジ査察」で成り立っているが、危険な剤を扱っている施設や活動を申告し、そこに査察官の立ち入りを認めるということに合意する必要がある。CWCの場合、通常の査察をvisit(訪問)とし、より強力なニュアンスを持つinspection(査察、あるいは疑義が生じた場合の「チャレンジ査察」)とは区別して、信頼醸成目的を強調している。
また、「チャレンジ査察」の実施では、他国が極めて信頼度の高い根拠となる情報(違反の可能性についての懸念には、関係する条約規定の明示、可能性のある違反の性質・状況の明示、懸念の基礎となったすべての適当な惰報を含む)を示すことが、ある国の違反を申し立てることができ、執行理事会の4分の3が反対と認めた場合以外、OPCWは2-24時間以内に査察官を派遣する、「チャレンジ査察」を実施することができ、また被査察国に拒否する権限はない。しかし、「チャレンジ査察」の申し立ては、その後の国家間関係に重大な影響を及ぼしかねないことや査察が実施される場所の環境次第では実施が困難なことも予想される(例えば2016-17年にシリアで化学兵器が使用された事例)。また、「チャレンジ査察」の制度の濫用を防止するために、査察が空振りに終わった場合、申し立てをした国がその費用を負担するべきか否かを執行理事会にて検討することになっており、実施のハードルは高いといえよう。
他方で、BWCにおいて同様の制度が困難なのには、生物剤の場合、増殖や隠滅が比較的容易であり、生物剤の有無や多寡による「しきい値(threshold)」はあまり意味をなさないこと、潜伏期があるため事態の発覚までは時間が経過し、真相を把握することがより困難である、などの理由がある。その点では、生物剤に関する査察はより難易度が高いといえよう。BWC議定書の交渉においては、このような検証制度の実効性をめぐり米国などが消極的な議論を展開し、結局のところ査察の制度を導入する議定書は採択されなかった。その後は、信頼醸成措置のあり方などに論点を移し、実効性の担保に関する議論が続けられている。
近年の運用検討プロセスにおいては、平和目的の生物学的科学技術の国際協力向上のための疾病サーベイランス、検知、診断及び封じ込め等の分野におけるキャパシティ・ビルディングの促進(2009年および2010年)など、単に生物剤や生物学的技術の軍事利用の防止にとどまらず、バイオセーフティ、バイオセキュリティを含む多様な生物学的脅威の低減をテーマに議論されており、生物学的脅威を包括的に議論、情報共有し、BWCコミュニティ全体の能力の底上げを図るプラットフォームとして役割を果たしている。
とはいえ、これらは、いわば平時の能力構築の取り組みという観点からの有効性であり、(平時の能力構築の積み重ねが重要であることは言を俟たないが、)有事(緊急時)における対応については別の角度からアプローチする必要があろう。危険な病原体の偶発的放出のリスク対応という観点からは、2004年4月に発生した、北京の国立ウィルス学研究所(IOV)におけるSARSの集団感染の調査を検討のベースにしても良いであろう。
2004年5月、IOVにおいて二人の研究者がSARSに罹患していることが判明し、調査の結果最終的には同研究所で4名の集団感染が確認された。原因は、実験に使用されたSARSコロナウィルスの不活性化が不完全であった可能性が高いとされた。SARSに感染した研究者は、数回にわたり不活化SARSコロナウィルスを、BSL3実験室から普通実験室へ運び実験をしており、このウィルスの不活化が有効であったかについては厳密に確認されておらず、この時期とふたりの発端者の発病時期が重なったことが分かった。
この調査は、中国衛生部が軍事医科学院、北京市疾病預防控制中心、中国疾病預防控制中心伝染病預防控制研究所からの7人の専門家からなる調査団を組織し、WHOの専門家が一部協力して実施された。
WHOと中国衛生部の合同調査団は、感染源の特定に係る調査と合わせ、集団発生対応の調査も実施した。感染者がSARS指定医療施設へ入院する以前に治療を受けたすべての病院の調査を実施したのに加え、WHOは、接触者追跡調査および他の感染制御対策に関するデータについての評価も実施した。広範な接触者追跡調査では、的確な症例の隔離および接触者の特定が、今回の集団発生を異例の早さで確実に封じ込めることにつながったものの、初発症例の検知に遅延が認められ、その結果、2世代に渡る感染伝播が起こり、有効な院内および地域社会での感染制御対策の実施が遅れたとされた47。
この調査は、一部WHOの協力を得、またWHOからの評価もなされたが、あくまでも調査主体は中国政府衛生部の組織した調査団であり、WHOの役割は限定的であったことがわかる。なお、この調査の対象となったIOVの実験室は、BSL-3であり、今回のCOVID-19との関係が疑われる武漢の「武漢国家生物安全実験室」はBSL-4の実験室を備えており、機密性はより高いものと考えられる。さらに、当該事案は、バイオセーフティ上の問題と位置付けられており、調査および報告は安全管理のあり方に関する問題点と改善点の提示が中心となっているが、感染症のアウトブレーク、エピデミックに係る情報提供を調査項目に入れた場合、対象となる組織は極めて多岐にわたり、政府の首脳レベルまでもが調査の対象となる可能性も否定できない。しかし、その場合、調査の対象となった国がそのような検証を受け入れる可能性は政治的に考えれば極めて低いであろう。また技術的にも、調査団へ付与されるマンデートの書きぶりは難しいものになるであろう。さらに、IHR2005の検証や再検討に関する規定の見直しがなされるとしても、そのような状況は容易に予見可能であり、改正に必要な賛成を得ることは政治的に困難ではないかと思われる。
4.制度的制約の超克のために:システムの重層化
これまでの歴史的な経緯を踏まえ、また今回の対応における問題点を追っていくと、WHO憲章およびIHR2005に規定されているWHOのマンデートという制度的な制約に起因する、早期通報と透明性、アカウンタビリティの実効性の向上が課題であり重要な意味を持つことが改めて確認された。しかし、同時に、当該国からすれば、疾病・感染症情報は国家安全保障という観点からも極めて高い機微性を持ち、国際協力を強化するという理念によってその壁をどのように乗り越えることができるかが課題となろう。加えて、そこには国内の政治的考慮は乗り越えられるのかとの疑問もついて回る。
既存の、国際機関の権限に関して抑制的な設計思想の下に作られた危機対応メカニズムを、例えばOPCWやIAEAによる査察と同様、より介入主義的なマンデートを国際機関に付与する方向に改革することで実効性を向上させるには、国際社会全体での公衆衛生の危機に対する脅威認識(とその緊急性)のコンセンサスの醸成が不可欠である。それは、内容的にも、政治的な支持という点でも、安保理決議2177相当かそれ以上のものが必要となろう。そしてそれに伴う、WHOというフォーラムにおける国家の行動原理の変容が必要になる。
しかし、以上の考察から明らかになったように、それには、国際社会が主権国家の集合体であるという現実から逃れ得ない制約があり、今の政治環境の下で可能かというと容易なことではなさそうである。(CWCの「チャレンジ査察」やIAEAの追加議定書による浸透的な査察制度が確立したのは、米国の圧倒的な優位があり、大国間の対立よりもならず者国家や非国家主体がより深刻な脅威として認識されていたという冷戦終焉直後の1990年代の特異な環境下であったことに留意。)
であるならば、このような感染症パンデミックを含むグローバルな危機への対処や管理におけるグローバル・ガバナンスの向上は、特定の国際機関の枠を超え、いかに国際協力を多層化し、ネットワーク化していくかを志向すべきであろう。もちろん、WHOのガバナンスの見直しやエンパワーメントが不要という事ではない。しかし、主権国家のあつまりである国際機関の制度的限界を考えた時、国際機関の強化と並行し、重層化(もしくは「冗長性」やプランBと言っても良いかもしれない)を通じた能力強化の方策を志向することも必要である。それは、有志国家間での協力体制の強化や、民間レベルにある専門知識やネットワークを活用すべく、エピステミック・コミュニティ/市民社会レベルの関与を高めるという方向性である48。
第一に、情報提供のあり方に関しては、従来の政府のIHR担当窓口を通じたWHOへのコミュニケーション(通報や情報提供)に加え、医師や研究者といった非政府(エピステミック・コミュニティ(専門知を持つ人々の集団)や市民社会)の主要アクターが登録する情報共有ネットワークを構築することも一つの方策であろう。このネットワークを通じた早期通報、情報共有、そして集まってくる情報の科学的検証をネットワーク上の集合知によって行い、公的なWHOのキャパシティを補完し、また関係国やWHOに対して対応を促すことにより、透明性やアカウンタビリティを高めていくことが考えられる。
同時に、エピステミック・コミュニティのメンバーで、ネットワークを通じ早期通報を行った者が、国家安全保障上の利益を損ねたという理由から当該国政府により罰せられるというような可能性もある。そのような「公益通報」行為を行った専門家の権利保護の方法についても考える必要性があるだろう。
第二に、このようなネットワークを、WHOおよびその参加国との協力により、医療機器や防護服など緊急時対応のための資機材の戦略備蓄(デポ)を構築したり、緊急時に感染症の流行状況を適切に把握し資機材を相互に融通しつつより効率的、効果的に実施するために活用するプラットフォームとして活用する方途を研究すべきであろう。
本稿では、COVID-19への対応をめぐり政治化するWHOにおけるガバナンス改革の方向性について、どのような論点があり、現実的に改革をめぐる議論がどのような論点を中心に展開していくのか、政治的な要素をなるべく排除したうえで、既存の制度的制約に沿って論じ、またそのような制度的制約を超えて危機対処の実効性を確保するために、エピステミック・コミュニティのグローバルなネットワーク化を通じた重層性(冗長性)の担保を提言した。この議論の制約は、より大きな国際政治の潮流や国家間の外交関係をあえて考慮から外した点にあり、そのような議論は別の機会に譲るが、同時にこのような政治化の側面を排除しより良いガバナンスの制度設計について考察することも重要な意義があると考える。
(2020年5月17日脱稿)