はじめに
安倍政権の対欧州外交における最大の成果は、日本外交における欧州との関係の「主流化(mainstreaming)」であったとの視点に立ち、前編と中編では、EUとNATOとの関係、英仏との安全保障・防衛協力、そして欧州における日本外交のフロンティア拡大を検討してきた。本後編では、英国のEU離脱(Brexit)の衝撃と、日欧関係における「中国ファクター」を取り上げ、最後に、安倍政権の残した欧州主流化の行方を検討することにしたい。
Brexitの衝撃への対応
安倍政権期の対欧州外交において誤算があったとすれば、その最大のものは英国のEU離脱(Brexit)だった。2016年6月の国民投票でのEU離脱派の勝利を受け、最終的には、2020年1月末に離脱が実現した1。衝撃緩和とその後のEU・英国関係に関する交渉のために設けられた移行期間も同年末に終了した。その間、英国政治はBrexitをめぐって迷走を続けるが、それはちょうど安倍政権の後半と重なった。安倍政権を含めて日本は、英国がEUに残留することを強く希望していた。国民投票直前に日本で開催されたG7伊勢志摩サミットでは、当時交渉中だった日EUのEPA/FTAに関する日欧首脳のセッションを開催し、早期妥結へのコミットメントを表明する声明を発出した2。EU残留を訴えるとともに、同交渉を強く推してきたキャメロン英首相への外交的支援の一環でもあった。
国民投票結果に対する日本の反応は、衝撃と失望だったといってよい。Brexitに関する日本にとって最大の懸念は、英国に進出している日本企業を中心に、経済界への影響だった。そこで安倍政権は、国民投票直後に首相官邸に官房副長官を議長とする「英国のEU離脱に関する政府タスクフォース」を設置し、2016年9月の第3回会合は「英国及びEUへの日本からのメッセージ」と題した文書を発表した3。これは、英国への警告として、英国メディアを中心に国際メディアでも大きく報じられた。内容は、基本的には経済界からの要望を取りまとめたものであり、不確実な状況が長引くことへの懸念を前面に出し、離脱プロセスがスムーズに進むことを求め、ビジネス環境の急激な変化の緩和を求めるものだった。
しかし、EUと英国との間の離脱交渉は、日本の期待とは裏腹に、ほとんど泥沼の対立・混乱状況に陥る。離脱協定に合意できないままに離脱する「合意なき離脱」が現実の可能性として語られるなど、不確実性の解消とは程遠い状況が続くことになった。安倍政権は、英国のみならずEUに対しても、スムーズな離脱の実現を促していたが、日本が仲介できるような性質の問題ではなかった。
そうしたなかで日本は、EUとのEPA締結・発効を急ぎ、まずはEUとの経済関係の基礎固めを進めることになった(日EUのEPAについては、本稿前編参照)。そのうえで、英国のEU離脱の際には、移行期間中は日EUのEPAを適用し続け、移行期間終了に間に合うように日英EPAの締結を目指す方針をとった。2020年6月に正式にスタートした交渉は、安倍政権終了直前の同年9月11日に大筋合意を迎え、10月の署名を経て、2021年1月1日に発効した4。まさに、安倍政権の置き土産だったといってよい。
日英EPAは、今後の日英関係の主要な基盤を提供するものだが、中編でみたように、安全保障協力が進展していることは、Brexit後の日英関係を理解するうえで重要である。ジョンソン政権は、「グローバル・ブリテン」というスローガンの下、インド太平洋地域への関与を拡大しようとしている。これは「インド太平洋傾斜(Indo-Pacific tilt)」と呼ばれ、2021年3月に公表された英政府の「統合レビュー(Integrated Review)」で正式に打ち出された5。同文書は当初2020年秋に発表される予定だったが、新型コロナウイルスなどの問題により延期されていた。この作成過程では、安倍政権時代に日本からもさまざまなインプットがなされたはずである。空母クイーン・エリザベスの派遣もインド太平洋傾斜一環だが、同時に、TPP(環太平洋パートナーシップ)への加入も大きな柱の1つであり、英国は2021年2月に正式な加入申請を行った6。2021年のTPP議長国である日本はこれを歓迎する立場だが、安倍総理は2018年時点からすでに英国の加入を支持する意向を示していた7。
安倍政権は、日英EPA締結を含め、Brexitによる経済的損失を可能な限り抑えるというダメージコントロールを行いつつ、英国のTPP加入への支持表明や安全保障面での協力を強化することで、「グローバル・ブリテン」を後押しし、インド太平洋の秩序維持・形成に英国を引き込むという戦略だったのである。
ただし、Brexitの事後処理は新たな日英関係の構築のみでは完結しない。英国無きEUとの関係のあり方が問われるからである。というのも、日本は長年にわたって、英国をEUの「ゲートウェイ」としてきた。これは、EU市場を視野に英国に拠点を構える企業のみの話ではなく、政治・外交上も、「ロンドン経由」でEUとの関係を構築してきた部分が大きかった。Brexitによって、このアプローチはもはや使えない。大陸側に新たな「ゲートウェイ」を定める必要が生じたのである。
EUとのEPAおよびSPAの締結を受け、EU自体との関係を強化するのはもちろんだが、そのほか、EU内での影響力という観点では、ドイツとフランスが当然の候補になる。日仏の安全保障・防衛協力が進化したことは中編でみたとおりである。ドイツに関しては、マクロ経済政策の方向性が異なったこと――金融緩和と切り離せないアベノミクスと、緊縮指向のメルケル政権の経済政策の相違――やドイツの対中傾斜に対する日本での不信感などから、日英や日仏に比べると、日独協力への期待は必ずしも高くなかったのが現実である。しかし、Brexit後のEUにおいてドイツの相対的地位は高まっており、日本にとってもドイツとの関係の重要性は上昇している。同時にドイツにおいて中国への警戒感が強まり、メルケル政権がアジア政策における中国の比重引き下げと、価値を共有する諸国との連携強化に乗り出したことも、日独関係には追い風となった8。2020年9月にドイツ政府が発表した「インド太平洋政策指針9」は、そうした方向性を明示するもので、日本でも歓迎された。
独仏に加え、地域的バランスの観点では、中東欧諸国の中にも足場を築く必要があるだろう。中編でみたように、安倍総理は在任中に、バルト3国やブルガリア、ルーマニアといった、日本の総理として初めてとなるような訪問国にも足を延ばしており、旧来の西欧主要国にとどまらない対欧州外交を展開した。このことは、Brexit後のEUとの関係構築の1つの基礎になるかもしれない。
「中国ファクター」の拡大
欧州が中国をどのように認識し、同国といかなる関係を構築するかは日本にとって常に大きな関心事である。そしてこのことが、日欧関係自体に大きな影響を及ぼすようになったのが近年の特徴だといえる。上述のドイツの例からも、それは明らかである。日欧関係における「中国ファクター」の台頭である。安倍外交は、その基本において、大国化する中国にいかに対応するかという課題があり、欧州との関係もそのなかに位置付けられるのであった。安倍外交を中枢で支えた兼原信克・前内閣官房副長官補(国家安全保障局次長)は、
安倍外交の根底にあるのは、中国がどんどん強大化し、しかも垂直的な国際秩序への志向が強いので、中国との関係が対等な形で安定するように、友邦を増やし、敵を減らすという戦略的なバランス感覚です。日本としては、米国との同盟関係を基軸としながら、豪州・インドを引き込み、ASEAN諸国をまとめて、同じ民主主義国であるヨーロッパ諸国との関係を深め、ロシアとも友好関係を維持して、中国との関係を対等で安定したものにしていくということです10
と説明する。中国との関係を考えるうえで、アジアや豪州、インドのみならず欧州諸国との関係を活用していこうという明快な戦略観である。
そして、これを進めるためには、日本と欧州の対中観は、なるべく近い方が都合よい。ギャップが大きすぎては、日欧協力を阻害しかねないからである。この点で、特に2010年代の半ばから終わりにかけて、欧州における対中認識が急激に変化したことは、日欧協力の大きな追い風になったといえる。これは、2006年から2007年の第1次安倍政権期において、EUの対中武器禁輸解除問題が日EU関係に大きな影を落としていた状況からの、大きな変化である。当時は、1989年の天安門事件に対する制裁としてEUが継続していた武器禁輸措置を解除するか否かが問題となり、日本は米国と並んで解除に強く反対する立場であった11。「欧州はアジアの安全保障問題が全く分かっていない」との不満や懸念が日本側には深く存在していた。そうした状況を踏まえ、2012年以降の安倍政権は、中国や北朝鮮の問題を筆頭に、首脳会談の場も最大限に活用し、アジアの安全保障問題を欧州にインプットすることに注力したのである。
南シナ海における中国の強硬姿勢が明確になるなかで、2015年頃を境にEUを含め欧州各国は、海洋問題をきっかけに、アジアの安全保障問題への懸念を表明するようになった。それは日EU首脳協議の文書にもあらわれ、例えば2015年の共同プレス声明は、航行の自由などの原則の重要性を指摘したうえで、「我々は、全ての当事者に、国際法に基づいて主張の根拠を明確化するよう求め、また、力による威嚇、力の行使又は強制を含む一方的な行動を控えることを強く求める。我々は、東シナ海及び南シナ海の状況を引き続き注視し、現状を変更し緊張を高めるあらゆる一方的行動を懸念している12」と述べた。安倍政権は日EU首脳協議の場以外にも、欧州各国との首脳会談やG7などにおいて、東シナ海や南シナ海の問題を筆頭に、日本の立場に沿った文言を引き出すことに力を注いだのである。それはまさにアジアの安全保障環境に関する認識の共有を進めるプロセスであり、日欧協力の基盤を形成する試みでもあった。
「欧州は中国に甘い」という日本における認識は、いまだに完全には払拭されていないし、日本と欧州の間では、中国に関して懸念を有する項目にずれが存在する。例えば、東シナ海・尖閣諸島の重要性に関して、日本と欧州との間で認識の相違があることは想像に難くない。他方で、香港や新彊ウイグル自治区などの自由や人権といった問題に関しては、日本以上に欧州がコミットしている現実がある。さらに、中編で触れたように、英国とフランスを筆頭とした海軍艦艇のアジア派遣は、欧州における対中観が変化したことの目に見える証であり、日欧協力を支えることになったのである。
おわりに――欧州の主流化は定着するのか
こうして、安倍政権期の日欧関係は、日欧双方の状況に加え、米トランプ政権や欧州・中国関係の変容といった外部要因にも結果として助けられるかたちで発展することになった。日本からみた場合、それは日本外交における欧州の位置づけの主流化であった。なお、本稿では日本側の視点を中心に議論を進めてきたが、欧州の対外関係においても同時に、日本の主流化という現象が起きていたといえる。前編で検討した日EUのEPAに至る過程や連結性パートナーシップなどはその顕著な事例であろう。
そこで最後に問うべきは、これが一時的な現象に終わるのか、あるいは今後も持続する構造になるのかという点である。主流化の行方に関しては相反する方向性が併存している。短期的には、バイデン政権の発足で米欧協力が再び強化される兆しがある。このことは、欧州にとってのパートナーとしての日本の価値の低下をもたらす可能性がある。自由貿易体制の維持や多国間主義の促進などで、日本との協力に頼らなければならない度合いが低下するからである。他方で、中国の台頭への対応が、日本や米国のみならず、欧州にとっても喫緊の課題になり、その程度が今後も引き続き上昇していくことを前提とすれば、欧州にとっても米国とのみ協力すればよいわけではないし、日本も、日米協力のみで乗り切れるわけではない。中国との競争が軍事力のバランスに関するものであるとともに、先端技術を巡る競争である現実は、日米欧を中心とするパートナー間の協力の必要性を上昇させる。その柱の一つである日欧協力が機能することが引き続き重要であるゆえんである。
日本外交にとっての欧州という観点に立ち返れば、それを常に一つの選択肢として確保していくためにも、まずは、日本と米国における政権交代、そして中国をめぐる状況のさらなる悪化という国際環境を踏まえた、新たな戦略の策定が必要になるのではないか。そして、日本の側から新たな提案を行っていくことが求められる。
(前編はこちら)
(中編はこちら)
1 この過程等については、差し当たり、鶴岡路人『EU離脱――イギリスとヨーロッパの地殻変動』(ちくま新書、2020年)を参照。
2 「日EU経済連携協定(EPA)/自由貿易協定(FTA)に関する共同ステートメント」外務省(2016年5月26日)。https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/is_s/page3_001694.html
3 英国のEU離脱に関する政府タスクフォース「英国及びEUへの日本からのメッセージ」(2016年9月2日)。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/euridatsu_taskforce/pdf/message.pdf
4 日英EPAについては、荒木千帆美「日英包括的経済連携協定締結の意義――経済連携協定の枠組み拡大における日英EPAの位置付け」『立法と調査』(参議院事務局)第431号(2021年2月5日)https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2021pdf/20210205227s.pdf 、鶴岡路人「日英EPA(経済連携協定)がもたらす新しい日英関係」東京財団政策研究所(2020年11月9日)https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3595 などを参照。
5 HM Government, Global Britain in a competitive age: The Integrated Review of Security,
Defence, Development and Foreign Policy, Presented to Parliament by the Prime Minister
by Command of Her Majesty, CP 403, London, March 2021. https://www.gov.uk/government/publications/global-britain-in-a-competitive-age-the-integrated-review-of-security-defence-development-and-foreign-policy
6 "Formal Request to Commence UK Accession Negotiations to CPTPP," News, Department for International Trade, 1 February 2021. https://www.gov.uk/government/news/formal-request-to-commence-uk-accession-negotiations-to-cptpp なお、TPPの現在の正式名称は「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)」。
7 "UK would be welcomed to TPP 'with open arms', says Shinzo Abe," Financial Times, 8 October 2018. https://www.ft.com/content/57c4e3ce-ca22-11e8-b276-b9069bde0956
8 トーステン・ベナー「激変した欧州の『中国観』」『Wedge』(2021年1月号)。https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21836
9 The Federal Government, Germany-Europe-Asia: Shaping the 21st Century Together - Policy Guidelines for the Indo-Pacific, Berlin, 1 September 2020. https://www.auswaertiges-amt.de/blob/2380514/f9784f7e3b3fa1bd7c5446d274a4169e/200901-indo-pazifik-leitlinien--1--data.pdf
10 兼原信克「[巻頭インタビュー]自由主義的な国際秩序へのリーダーシップ」『外交』(2020年9・10月号)、11頁。
11 当時の状況については、池村俊郎「日欧外交に未来はあるか」『環』第21号(2005年4月)、脇坂紀行「EUの対中武器禁輸解除-『米欧中』の混乱をどう回避するか」『朝日総研リ
ポートAIR21』第180号(2005年5月)等を参照。
12 「第23回日EU定期首脳協議共同プレス声明(仮訳)」、外務省(2015年5月29日)、第10パラグラフ。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000082847.pdf
(上記URLは全て2021年3月20日現在)